Art Inspirations

素人作家のメモ箱

アートと活字を愛するアマチュア作家が運営するブログ。

ジャンルを超えて、広義の「アート」から得た様々なインスピレーションやアイデアを文章で表現していきます。
絵画、彫刻、インスタレーション、音楽、ダンス、デザイン、ファッション、建築などなど。





宮島達男 クロニクル 1995−2020|数字はアートになり得るか?

目次

  

数字はアートか?

これは突拍子もない問いかもしれない。

数字は極めてロジカルで便宜的で、無味乾燥であって、そこには魂を吹き込むこともできないし、血も温度も、実体すらもない。およそ芸術とは程遠いものに思える。

私自身、高校生の頃に文系理系を選択する頃からずっと、数字は理系、芸術は文系と、無意識に境界線を引いて生きてきた。

しかし、そんな考え方は、宮島達男氏の作品に出会ってから変わってしまった。

 

宮島達男:

現代アーティスト。LEDを用いて1から9までの数字を表示する、デジタルカウンターを使った作品で有名。

tatsuomiyajimastudio.com

 

 

宮島作品との出会い:森美術館「カタストロフと美術のちから」展 

きっかけは、「カタストロフと美術のちから」という森美術館の企画展だった。

artinspirations.hatenablog.com

その企画展の中に、宮島氏の「時の海-東北」という作品が展示されていた。

暗闇の中に浮かび上がる緑色の数字の光が、静謐な空間を作り出し、まるで教会に佇んでいるような、静かで、祈りのような気持ちに包まれた。

ただ数字が光って暗闇に散っているだけなのに、まるでその数のひとつひとつが何かを意味しているかのようで、神秘的で、ただただ美しかった。

その作品の印象が、ふわふわと私の心の奥底に浮かんだまま消えなかった。

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宮島達男 《時の海-東北》

 


再会:東京都現代美術館 コレクション展

それからしばらく経ち、今年の夏、リニューアル後に久しぶりに訪れた東京都現代美術館で、また宮島氏の作品と対峙した。

コレクション展の最後に、デジタルカウンターが無数に並べられた真っ赤な盤があった。

www.asahi.com

 

ひとつひとつのカウンターには、赤い数字が1から9まで順番に表示されていくが、それぞれのカウンターの速度は異なっている。

急速にカウントしていく数字の繰り返しを、振り子を見るようにじっと観察したり。

ゆっくりと慎重に数を数えていくカウンターを、息をつめて見守ったり。

あちこちのカウンターに目をやっては、そうやって随分長いこと、ソファに座ってその作品を眺めていたら、またあの静謐な気持ちが広がっていた。

 

この作品について、美術館のスタッフブログから引用すると、解説にはこんな言葉が書かれている。

カウンターひとつひとつを個人に、その集合体である全体を組織とみる事も出来るし、
また世界の国々と地球、地球と宇宙、あるいは細胞と個体というように
さまざまなものの部分と全体をこの作品にみることができる 

開館20周年記念 MOTコレクション特別企画 クロニクル1995- | スタッフブログ | 東京都現代美術館|MUSEUM OF CONTEMPORARY ART TOKYO

 

この作品で気づいたのは、数字は、きわめて精神世界に近いということだった。

かたちから解放され、記号化された世界の構造。

ミクロもマクロも、すべての構造を表してしまうもの。

1から9までのただの数字のカウンターには、宇宙の摂理を封じ込めた、気が遠くなるほど深い井戸があった。

それはまるで、禅の世界のような、瞑想に近い静謐さだった。

美術館を出る頃には、私の心の中には、なんだかとても広々とした無限の空間ができてしまっていた。

 

 

宮島作品が現代人を魅了する理由:千葉市美術館「宮島達男 クロニクル 1995-2020」

そして、つい先日、千葉市美術館で宮島達男氏の個展が開かれていることを知り、私は心の隅にできてしまった不思議な空間を再び見つめるべく、この企画展に足を運んだ。

www.ccma-net.jp

 

作品はどれも、数字、数字、数字。

展示を見ていくうちに、目に見えているものとは違うなにかを感じ始める。

それはきっと、便宜的な数字という記号の向こうに広がる、形而上的な概念の世界だ。

 

デジタルカウンターを使った作品群は、最後の展示室の中に集められている。

「Life(Ku-wall)-no.6」という作品は、仏教の「空(くう)」をテーマにしたもので、そこからはやはり壮大な世界が見てとれる。

浮かんでは消えるランダムな数字は、まるで自然界の命の所在のようだ。

一瞬で死に到達し消えゆく命もあれば、長くゆっくりと息づく命もある。

数字に表象された命が、消えては生まれ、世界の様相を成していく。

もしも、目の見えない人に命の所在が分かるとしたら、その世界はもしかしたらこんなふうに見えるのだろうか。それは、命の本質と時だけを見つめる、神の視座にも近い。

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Life(Ku-wall)-no.6

 

チラチラと変わりゆく数字の点滅が命の輝きだとするなら、最後に訪れる無は「死」を意味する。

(宮島氏の作品では、ゼロは用いられず、代わりにカウンターの光がなくなり暗転する)

しかし、真っ暗な死の暗闇は、不思議と恐怖はなく、静けさに満ちた、満たされた空白にさえ感じられる。

再び1からカウントが始まることを私たちが知っているがゆえに、新たな命の始まりの予兆が感じられるからだろうか。

無へと向かってカウントダウンする数字は、死へ時を刻むと同時に、生へのカウントダウンでもあるのかもしれない。

 

 

さらにひときわ目を引くのが、展示室の最後にある「地の天」という作品だ。

 

展示室は暗闇に包まれ、静けさが漂っている。

大きな円形のプールのような器の底に、青く淡い光を放つ数字がちりばめられたその作品は、その名の通り、まるで地上の井戸に星空が落ちてきたようだ。

静寂に包まれた暗闇の中に、輝く数字がぼうっと浮かび上がるさまは、海底から湧き上がってくる命の始まりのようにも、燃え尽きた命が肉体から離れ、最後に行きつく終焉の世界にも見える。

穏やかで、哀しいほどに美しい。

形を持たずに漂う霊、誰かが大事に秘めた思い出、この世界の人々が灯した切なる祈り――

ただ淡々と数字を刻み続ける光の数は、幾重にも折り重なった、命と心の風景だった。

 

 

 

数字とは何か?

数字とは記号であり、抽象的な概念を表象化したものであり、天地も空間もない、きわめて精神的でミニマルなものだ。

しかし、ミニマルで形を持たないがゆえに、数字は無限の意味を包括する。

無から誕生し膨張を続けていく宇宙。

その中に、生まれては燃えて消えていく命。

時を刻み、死と生を繰り返す世界の在り様。

時間の始まりは、生命の息吹きだ。

 

芸術とは程遠い、冷たいものだと思っていた数字は、むしろ心も命も表現してしまう、無限大のアートの器だった。

 

 

 

 

 

***

【参考】森美術館「STARS展」でも宮島作品に会える!

森美術館で開催されているSTARS展にも、宮島達男氏の作品が展示されている模様。私も早く行かなければ…!

www.mori.art.museum

 

関連書籍 
「宮島達男 解体新書」すべては人間の存在のために

「宮島達男 解体新書」すべては人間の存在のために

  • 作者:宮島 達男
  • 発売日: 2010/02/04
  • メディア: 単行本
 
宮島達男 Art in You

宮島達男 Art in You

  • 作者:宮島 達男
  • 発売日: 2008/04/22
  • メディア: ハードカバー
 
芸術論

芸術論

 

<おまけ>

少し系統は異なりますが、もし見えない人が命の所在を見ることができたら…という発想は、この本から来た着想でした。

目の見えない方は、モノや世界を星座のようにとらえている、といったエピソードがあり、とても印象に残っています。

障がい者福祉の観点ではなく、「自分と異なる視点から世界を見る」ことの楽しさや、アートにつながる世界の広がりを感じられる、とてもワクワクする本。

ぜひこちらも読んでみてください!

 

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鈴木昭男―道草のすすめ|「佇む」という感性のチューニング

環境音に「耳を澄ませる」ということを、あまりしなくなった。

外を出歩くときは、できるだけ外界からのストレスをシャットアウトするために、耳にイヤホンを押し込み、視界はスマホのスクリーンの世界に潜ったまま、目的地まで、まっすぐ足早に歩く。

満員電車の重苦しい沈黙に包まれたり、ビジネスマンや賑やかな学生たちの会話に思考を揺さぶられたりするより、好きな音楽を聴いていたほうがいい。

どこに視線を移しても目に入ってくる車内広告に惑わされるより、自分専用にカスタマイズされたSNSのフィードを追いかけるほうがいい。

情報過多になった今の時代、特に都会で生きるには、それが健全な精神を守るための最適な生き方なのかもしれない。

けれど、この習慣が災いして、何か大事なことまで「見えない」「聞こえない」状態になってはいないだろうか。

 

 

東京都現代美術館では、鈴木昭男氏の「点 音(おとだて)」と “no zo mi” という作品が設置されている。

二週間ほど前、リニューアルオープン後にようやく初めて足を運んだのだが、偶然にもこの作品と出会えたおかげで、都会に生き慣れて鈍感になった感性を、再び呼び覚ましてもらえた気がする。

 

以下、パンフレットから引用。 

「点 音(おとだて)」は、サウンド・アーティストのパイオニアとして知られる鈴木昭男の代表的なシリーズで、(中略)耳と足を合わせたマークをエコーポイントとして公共空間に設置し、人々の「聴く意識」の覚醒を誘いながら、日常を刷新する「道草=気づき」の感覚をもたらすものです。

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美術館入口のチケット売り場の右脇にひっそりと置かれたパンフレット

この少しかわいらしさもあるマークが、美術館敷地内のいたるところに配置されていて、その上に立って、しばし「耳を澄ませる」ということを体験することができる。

 

 

そして、この作品の最終地点は、コレクション展エリアの入り口付近にある、屋外展示場への扉を開けた先にある。

 

扉をあけると、残暑の空気が肌を撫で、館内の強めのクーラーに冷え切った身体が、少しほぐれる。

浅く水が張られた閑静な空間だ。

脇の小道をさらに進み、左へ曲がると、裏庭のような細長い敷地があり、そこに5つほど、凸凹になった石の階段が等間隔に並んでいる。

この階段のいくつかの場所に、耳と足のマーク。

導かれるまま、ひとつひとつ、マークに両足を重ねて、奥へ進んでいく。

それぞれのポイントに立つと、五感が感じとるものは、不思議なくらい様々だ。

深緑色の生垣の葉にじっと目を凝らしたかと思えば、

生垣の向こうに人が見えたり、高いマンションのベランダに人の生活が垣間見えたり、車の音が聞こえたりする。

あるポイントでは、美術館のコンクリートの外壁しか見えないところもある。

壁をじっと見つめていると、いたたまれなくなって視線がさまよい、上を見上げると、夏の終わりの真っ青な空が見えた。

空を見上げて、雲の流れを追っていると、風が吹いて、さわさわと生垣が揺れる音が耳に届いてくる。

最後の階段に立つと、建物の影がなくなり、太陽の熱を肌で感じる。

 

そうやって少しずつ、五感の感度を取り戻していくのだ。

 

最後の行き止まりの部分には、正方形の開けた場所があり、その中央に、石垣に向かってマークが設置されている。

そこに佇み、しばらくじっとしていると、驚くほどいろんなものが流れ込んでくる。

面前に並んだ壁の石組みはなかなか複雑で、哲学的なアート作品のように見えなくもない。

右側の道路を挟んだ向こう側では、新しいマンションの建築現場で、カンカンと仕事をする音が空に響いている。視線を石壁に戻すと、いつの間にか蝶がひらひらと飛んでいて、そこでようやく、上のほうに咲いたピンク色の花が目に入ってくる。

高い石壁の途切れたところから、雲がもくもくと姿をあらわし、風に吹かれて滑っていく。

眩しくなって視線を落とすと、石畳の上を、大きなアリが何匹もうろうろしていることに初めて気が付く――。

 

世界が、圧倒的な存在感と、溢れんばかりの情報に満ちて、私の身近なところへ戻ってきた気がした。

周囲の環境を、ただの情報としてだけでなく、環境そのものとしてようやく知覚し直した、そんな感じだった。

周囲の環境のなかに佇む自分を再発見すると、なぜだか、肩の荷が下りる。

自分の存在感が相応のサイズに戻った感じがして、ほっとする。

 

 

道草を食って、明確な「情報」ではないものを見つめる、聴く、感じ取る。

子供の頃は、道草ばかりで、世界は驚くほどの天然の情報に満ちていたのに、だんだんとそれを享受するアンテナが縮んでいき、人工の「情報」だけを選択して他は何も見ず、何も聞かず、何も感じ取れなくなっていた。

 

もちろん、館内まで入らなくても、この「佇み」ポイントは美術館の外にも点在しているので、何も考えずにただその上に佇んでみるのも良いかもしれない。

「佇む」という行為も、現代では、意識しないと案外しないものだ。

 

 

最近読んだ本で『デジタル・ミニマリスト』という本がある。

その本の中で、こんな言葉がある。

「単に技術革新を忌避したり、反対に漫然と受け入れたりするのではなく、意図と目的をもって利用するなら、新しいテクノロジーはよりよい生活を生み出すものである」

(カル・ニューポート『デジタル・ミニマリスト: 本当に大切なことに集中する』p227) 

 

便利な世の中やテクノロジーに「使われる」のではなく、あくまでも自分の生活を軸にするということ。

この本に感化されて、ちょうどいま私も「デジタル片付け」の最中なのだが、スマホの中から脇腹をつついてくるSNSやアプリの通知に惑わされない自律的な生活は、自己肯定感も高まり、なかなか気分が良いものだ。

外界のストレスを回避するのは有益だとしても、やりすぎもよくない。

受動的なものにばかりアンテナを向けていると、強制的な音と言葉と映像の洪水を浴びて、だんだんアンテナの感度が鈍くなっていく。

 

自分という人間を軸に、自ら能動的に目や耳を開き、何でもない「道草」の中にあるものをとらえて、とりとめもなく雑念を遊ばせる。

ぽん、ぽん、と脈絡もなく湧き出てくる思考を、自由に浮遊させて湧き出るまま放っておく。

 

そういう時間が、心を豊かにし、鈍ったアンテナの感度をチューニングしてくれる。

 

 

***

鈴木昭男氏のウェブサイト。「点 音」プロジェクトは各地で行われているようです。

www.akiosuzuki.com

 

会期終了間近の「オラファー・エリアソン展」も、あわせて見たい。

www.mot-art-museum.jp

www.mot-art-museum.jp

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『デジタル・ミニマリスト』 とあわせて読みたい・見たい、ミニマリズムの作品。

365日のシンプルライフ(字幕版)

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  • 発売日: 2014/08/27
  • メディア: Prime Video
 
より少ない生き方 ものを手放して豊かになる

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 ***

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オラファー・エリアソン―ときに川は橋となる|知覚できない世界の美を予感するということ

なんだか、ここ数年、人類という種の存在を見つめ直すターニングポイントの上に立っているような、ただならぬ雰囲気を感じる。

少し前、ユヴァル・ノア・ハラリ氏の『サピエンス全史』がベストセラーになった。

最近は、サステナビリティを意識した企業の取り組みや、国の政策、雑誌の特集も目立つようになってきている。

コロナ禍の影響もあって、「ニューノーマル」を目指す風潮が一気に加速しつつある。

 

私たちは、急速な技術発展を遂げるなかで、自然をコントロールできるようになり、「ただの生き物」であることを忘れてしまっていた気がする。

遺伝子組み換えやiPS細胞など、もはや生命や人間自体を改編するテクノロジーさえも手に入れてしまっているのだから、まあ無理もないかもしれない。

が、その反面、コロナウィルスの蔓延に対しては、私たちはほとんど成すすべもなかった。

地球という星の上の、自然の中に生きるただの有機的な生物であることを思い知らされ、その弱さを思い知らされた。

そしてその星は今や、温暖化による気候変動で、ゆっくりと荒涼し始めている。

 

私たちがすべてを知っていると思い込んでいるこの世界は、本当は、謎と神秘に満ちていて、私たちが知っているよりもはるかにおそろしく、そして美しく、不可思議なことばかりなのだ。

 

そのことを、オラファー・エリアソン展で改めて感じたので、今回はその感想です。

 

***

 

東京都現代美術館で開催されている『オラファー・エリアソン―ときに川は橋となる』は、インスタ―レーションを得意とするデンマークの芸術家オラファー・エリアソン氏の個展だ。

日本での大規模な個展は10年ぶりとのこと。

www.mot-art-museum.jp


オラファー・エリアソン ときに川は橋となる(展示風景)/"Olafur Eliasson: Sometimes the river is the bridge" [Installation view]

彼の作品は、自然現象に焦点を当てたインスタレーションが多く、そのアプローチはまるで、表現というよりは、媒介する立場に徹しているようにも見える。

今回の個展で一貫して感じたのは、「世界の可視化」だろうか。

私たちが棲む世界を可視化し、人間が見ることのできない美にかたちを与える。

「見えないが既にそこにある美」を見せてくれる、そんな媒介者のようなアーティストだ。

 

彼がかたちを与えてくれるものは、大きく分けてふたつある。

ひとつは、人間という生き物の活動に潜在している美

もうひとつは、自然そのものの美だ。

 

 

まず、入ってすぐに目につくのは、細いペンでぐじゃぐじゃと線を書きなぐったような12枚もの円形のパネル。

嘘発見器の針が自由自在に動き回ったようにも見える。

この作品には『クリティカルゾーンの記憶(ドイツ―ポーランド―ロシア―中国―日本)』というタイトルがつけられていて、カッコ書きの中にある通り、今回の個展の展示品を日本まで輸送する道のりを、とある方法で記録したものらしい。

解説曰く、「旅にかたちを与えた」作品だ。

地球上をあっちこっちに動きまわる人間の動線が、白い紙の上に書き写されたことになる。

まるで餌を運ぶアリの動線を追うように、その運動は、摩訶不思議な習性のように見えてくる。

 

『サンライト・グラフィティ』『あなたの光の動き』といった作品では、人間の身体の動線そのものを、光で可視化する。

手に持った光源が残していく軌道は、虫の飛行のようでもあり、ミステリーサークルのようでもあり、なんとも魅惑的だ。

同様に、『あなたに今起きていること、起きたこと、これから起きること』という作品でも、光を使って人の動きを映し出すしかけを作っている。

いずれも「人間が動かなければ何も生まれない」作品だ。

人間の肉体が活動することそのものや、手足や人と人とが交差する偶然性にさえも、アートが隠れていることに気づかされる。

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人間は、地球上の生き物のなかでも、特に目が悪い。

エリアソンの作品には、そんな人間の目にも映るように、自然の美を媒介してくれる作品も多い。

 

『氷の研究室』では、ダイヤモンドビーチと呼ばれるアイスランドの海岸が舞台だ。

氷河が流れ着き、寄せる波に洗われながら少しずつ溶けていくさまがダイアモンドの輝きに似ていることから、こんな呼び名がついたそうだ。

エリアソンは、そこに転がっている氷河のかけらを3Dプリンタで写し取り、再現している。

儚い自然の奇跡を再構築することによって、私たちは、自然の美を再認識できる。

 

今回の個展のために新たに制作されたという『ときに川は橋となる』という作品は、中でもとりわけ美しい。

水面に伝わる微細な振動を、丸い光源を使って頭上に映し出し、まるで揺れ動くステンドグラスのような様相を成す。

やがて、水と光によって映し出された丸窓は、水面の揺れが激しくなるにつれ、ただの円から複雑な幾何学模様へと変化し、グラフィックデザインのように多様なかたちを描き出して踊り続ける。

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いつまでも見飽きない、天然のデザイン。

また、『ビューティー』という作品でも、ミスト状になった水に光を当て、虹のカーテンとして私たちの前に自然の美を表出させてくれる。

 

五感がとりわけ鈍感な私たちには、水ひとつとっても、その物質そのものから美を発見することは難しいが、

こうしてエリアソンが媒介してくれる自然の美を目の前にすると、私たちが何気なく生きているこの世界は、おどろくほど美しいことに気づく。

本当はもっともっと、私たちのいかなる感覚を持ってしても知覚することさえできないような、神秘に満ちているのかもしれない。

そう思うと、めまいがするほどのこの世界の美の可能性に、圧倒されずにはいられない。

 

 

 

今や人類は、テクノロジーを武器に、大抵のことは実現できる。

物理的に移動せずともオンラインで対話ができるし、旅ができなくてもバーチャルで自然を体験することができる。自然の疑似体験どころか、生きた細胞を作り出すことさえ可能だ。

では、人工的に自然を模倣することさえもできるようになった今、例えば、すべてを人工的に作り出した世界の中でも、私たちは生きられるのだろうか?

答えは、「可能」かもしれない。

でも、そこにはきっと、何かが無い気がする。

失われるのは、おそらく、人間ごときでは知覚できないものに満ち満ちた世界の美だ。

ましてや、自然の美を垣間見るためには、人間そのものが目や耳や肉体を使わなければ、交流することさえできない。人間の肉体そのものが、世界の美へアクセスするための奇跡のツールなのだ。

 

可能か不可能かで言えば、自然をすべて人工的に作り出した環境下でも、もっと言えば肉体がなくても、極論、脳さえあれば「生きて」いくことは可能なのかもしれない。

しかし、知覚できないものだらけの世界の中で生きることにこそ、きっと意味がある。

今、私たちがもし、人類の在り方を見つめ直すターニングポイントの上に立っているのなら、「私たちの技術はどこまでできるか?」ではなく、「私たちはいかに良く生きるべきか?」を、考えなければならないはずだ。

“Well-being”という言葉があるように、人間が良くあるために必要なのは何か。

つつましい五感をめいいっぱいに使って世界を感じ、それでも決して知覚することのできない、しかしきっとそこにある自然の美を予感しながら、生きる。

それが、きっと、美しい人間の生き方なのだと信じたい。

 

 ***

オラファー・エリアソン展は、9/27まで開催中です。連休に足を運んで、かたちを与えられた自然の美を、楽しんでみるのはいかがでしょうか。

www.mot-art-museum.jp

オラファー・エリアソン ときに川は橋となる  Olafur Eliasson: Sometimes the river is the bridge

 

話題となったユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史』。

本書の最終章でも、著者は「人間はどうなりたいのか」を問いかけています。

サピエンス全史 上下合本版 文明の構造と人類の幸福

 

"Well-being"を考えるきっかけになったのは、雑誌WIREDのvol.32。

デジタルはWell-beingといかに共存し貢献していけるか、というアプローチが興味深い。

『サピエンス全史』やオラファー・エリアソン展とリンクさせて読むとなかなか面白いのでおススメです!

WIRED (ワイアード) VOL.32 「DIGITAL WELL-BEING」デジタルウェルビーイング特集(3月14日発売)

 

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シュルレアリスムと絵画|思考に風景は必要か?

 

ダリ、マグリットタンギー・・・しばしばシュルレアリスム絵画として分類される画家たちの絵を見ていると、思うことがある。

それは、私たちが思考するとき、そこには果たしてどんな「風景」が広がっているのか?ということだ。

そもそも、思考や精神というものは目に見えないものなのだから、それを絵画という目に見えるものにしようとする時点でおかしな話なのだが、

果たして「思考するとき私たちの精神は何を“見て”いるか?」という問いそのものが、シュルレアリスムの根本的な関心であるように思うからだ。

 

 

そもそも「シュルレアリスム」というと、日本では「シュール」に互換されてしまいがちだが、厳密にいえば本来の意味とはちょっと違うらしい。

普段「シュールな」という文脈で使われるのは、普段見慣れたものから逸した奇妙な構図だったり、現実にはあり得ないものがあり得ない組み合わせで配されたりして、何とも言えない「違和感」を醸し出しているものを指すことが多いように思う。

感覚的にいうなら「非現実的な情景と対峙することで精神をざわつかせる」ような雰囲気に近いかもしれない。

しかし、本来のシュルレアリスムはむしろ逆の意味だ。

シュルレアリスム=超現実と訳されることからも分かるように、非現実的な情景を生み出して見る者に刺激を与えようとする理性的・戦略的なものではなく、あくまでも「現実」、それも「超」現実をとらえようとする試みであって、そのアプローチは極めて原始的と言ってもいい。

 

ここで、「シュルレアリスムと絵画」展から言葉を借りると、

フランスの詩人アンドレ・ブルトンが中心となって推し進めた「シュルレアリスム」は、(中略)理性を中心とする近代的な勧化方を批判し、精神分析学の影響を受けて無意識の世界を探求することで「超現実」という新たなリアリティを追い求めました。

とある。 

要するに、シュルレアリスムの精神とは、「合理性を批判し、現実を新たにとらえなおそうとする」ものだった。

この定義に即したものとして、ブルトンは自動記述(オートマティズム)という技法を編み出し、体系立った見慣れた現実になる前の「無意識の世界」をとらえようと試みたのだ。

www.polamuseum.or.jp

   

つまり、シュルレアリスムとは、人間が美について感じたり、思考したりするときの原始的な風景をとらえようとする試みともいえる。

例えば、花の美しさを絵に写し取るときに、「美しい花」を模写するのではなく、花はなぜ美しいか→なぜその花を美しいと思うのか→美しいと感じることはどういうことかと、「この花は美しい」の根源的なリアルを深く発掘しようとする。

そうすると、おのずと、外面的な花というモノ自体を描くことは必ずしも必要ではなくなり、色や形を冠することさえも必然ではなくなり、「美しい」という感性そのものの原風景を見出していくことが求められる。

詩人のブルトンが試みたオートマティズムは、おそらく、言葉や文法という理性的な枠組みを構築し始める暇を脳に与えないことによって「感性の原風景」を抽出しようとしたのだろう。

それが絵画においては、何かの形を描くことを辞め、それ以前に感性や思考に浮かび上がってくる「造形を結びきっていない何か」を掬い取ろうとしたことがうかがえる。

 

言葉を使役してきたはずの詩人が、表現したい対象物を、言葉の枠から解放しようとする。

モノの輪郭を描き造形を与え色を付けることを得意としてきた芸術家が、本来視覚的にとらえることのできないものを捉え、色を付けようとする。

この絶対的な逆説を内包した試みが、シュルレアリスムの面白いところだ。

 

 

 

さて、そういったシュルレアリスムの精神を胸に画家たちの作品を見ていくと、その表現方法は大きく二分化されているように感じる。

 

一つは、ダリやマグリットタンギーによく見られる表現で、一言でいうなら、「荒野」。

草木のない、砂漠のような、あるいは無機質な部屋のような広大な空間に、原始的な心象風景が繰り広げられているといったイメージだ。

最も有名なダリの作品『記憶の固執』は、赤茶けた荒野のなかに存在しているし、ダリの作品にしばしば登場する異様に足の長い象も、危なっかしく地に足をつけ、天を闊歩している。

ダリ・「記憶の固執」 プリキャンバス複製画・ 【ポスター仕上げ】(6号相当サイズ)

Salvador Dali ジクレープリント アート紙 アートワーク 画像 ポスター 複製(ドリームフライトザクロミツバチ目覚めダリ) #XZZ

 

イヴ・タンギーはといえば、より原始的なものに近く、砂漠のように波打つ荒野に「粒」が散らばっている風景が描かれることが多い。

それらは、人間のかけらやモノの残滓、心情の切れ端のようにも思われる。

Yves Tanguyジクレープリント アート紙 アートワーク 画像 ポスター 複製(イヴ・タンギーxxx(オルパイル・ユーズ)

 

 

ピレネーの城』や、山高帽の紳士が無数に宙に浮かぶ『ゴルゴンダ』で有名なマグリットは、もっとわかりやすく、のっぺりとした平らな風景、いかにも作り物めいた建造物や物体が、やはり無機質な空間に配され、デフォルメされた夢の断片のようだ。

マグリット展公式図録

 

また、少し脇道に逸れるが、形而上絵画として知られるジョルジョ・デ・キリコも、気の遠くなるような広大で殺風景な、黄色い風景が印象的である。

Giorgio de Chirico ジクレープリント キャンバス 印刷 複製画 絵画 ポスター (プラザデイタリア)

キリコ・「通りの神秘と憂鬱」 プリキャンバス複製画・ 【ポスター仕上げ】(6号相当サイズ)

 

 

これらの画家は、表現はさまざまだが、共通して言えるのは、そこには明らかに「距離」や「天地」があるということ。

シュルレアリスムの精神をもってこれらを見ると、私はどうも疑念がわいてくる。

理性的・合理的な絵画のルールにのっとって表現される前の、原始的な風景には、果たして、滑らかな線や「面」はあるのか?

まだ形や色を持たないはずの精神世界には、「荒野」という舞台はあるのか?

特に、マグリットなどは、「これを表現するには壁は必要、だから壁を配した」といったふうに、かなり便宜的に表現しているような印象も受ける。

そう考えると、ダリやマグリットは、けっこう実験的で計画性があるような気もする。

すなわち、彼らは実は、きわめて「合理的」「理性的」ではなかっただろうか?

ここにも、シュルレアリスム絵画が抱える決定的な矛盾があると思えば興味深い。

 

 

一方で、シュルレアリスム絵画には、もう一つ、荒野とは異なる表現方法を用いたものもある。

一言でいうなら、こちらは「浮遊」だろうか。

日本のシュルレアリストにも比較的よくみられる表現だが、ミロの晩年の作品がその代表かもしれない。

ポスター ジョアン ミロ The Melancholy Singer 額装品 アルミ製ベーシックフレーム(ゴールド)

ポスター ジョアン ミロ ABSTRACT

カンディンスキーなどもそうだが、より後期に近い画家たちは、荒野や空部屋といった「空間」や「天地」すらなく、心象の原始細胞のようなものが、方向も奥行きもない絵画空間のなかにただぞんざいに配され、「浮遊」している。

つまり、こちらはモノが配される舞台すらないのだ。

ブルトンが提唱したオートマティズムをつきつめると、そこには荒野のような空間が創造される余地すらなく、より「浮遊」した心象風景になるのではないだろうか?

そしてそれがさらに加速化すると、表現はよりミニマルになり、記号化されていく。

そして記号化された美は、本来の絵画という枠組みから越境していく・・・

そう考えると、ここから「抽象絵画」と呼ばれるジャンルへ、さらにはデザインの領域へと変遷していく原点が垣間見えるような気もして、シュルレアリスムの提唱は、現代にいたるまでの芸術の定義を根本から揺るがした大事件だったことがよくわかる。

合理性を排し、原始的な何かを掬い取ろうとするアプローチをつきつめると、逆に、単純化されたきわめて理性的で記号的な表現にたどり着いてしまいかねない。

このらせんのような矛盾!

だからやっぱり、シュルレアリスムは面白い。

 

 

何かを感じるとき、何かについて思考するとき、そこには、予め「荒野」のような風景があり、感性や思考の熟成によって豊かになっていくのか?

あるいは、そこには“何も無く”、色や形を持たない記号でしかその風景を表すことができないのか?

では、造形をなす前の、可視的なものになる前の「原始」の美・思考・精神は、果たしていかなるものか。

 

そんなことを思うと、何かに表そうとする芸術そのものが決して「真」現実に辿り着けないものであることに気づくが、

それでも、美の本質に向かって限りなく掘り進んでいくこと自体を、あるいは「芸術」と呼ぶのかもしれない。

 

 

美術展感想:

ポーラ美術館 企画展『シュルレアリスムと絵画~ダリ、エルンストと日本の「シュール」』より。

www.polamuseum.or.jp

 

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こちらはシュルレアリスムとは何かを分かりやすく解説していて、おすすめの本。

シュルレアリスムとは何か (ちくま学芸文庫)

シュルレアリスムとは何か (ちくま学芸文庫)

  • 作者:巖谷 國士
  • 発売日: 2002/03/01
  • メディア: 文庫
 

『20世紀の美術』は、印象派からキュビズムシュルレアリスムから抽象絵画へと、時代とともに発展していく絵画技法の変遷がよくわかります。

増補新装 カラー版 20世紀の美術

増補新装 カラー版 20世紀の美術

 

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未来と芸術展|無機物が有機物化した世界、人類はどこへいくのか

六本木の森美術館で開催されている「未来と芸術展」へ行ってきた。

www.mori.art.museum

 

2018年に開催された「建築の日本展」とも通じる部分もあり、森美術館の集大成のようにも感じられる企画展だった。

特に、人の暮らしや文化を形作る都市・建築の可能性に大きくスポットが当てられているあたり、まさに森美術館の真骨頂といったところ。

 

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それもそのはず、今回の企画展の着想は、「メタボリズム建築」にあるという。

展覧会冒頭の館長のお言葉をそのまま引用させて頂くと、

1960年代に日本人建築家たちが提唱した『新陳代謝し成長持続する都市』の概念は、世界の都市論の発展に大きく貢献しました。

そして、今もし、高度に発達した情報処理技術やバイオ技術を援用したら、メタボリズム都市は実現可能だろうか、という問いが、本展の出発点となりました。 

 

メタボリズムとバイオテクノロジー

今回の企画展は、これらがキーワードになっている。

 

f:id:numbernotes:20200104112413j:plain

展示室の冒頭にある館長のメッセージ。分野を超えた広視野なアプローチが、森美術館の企画展の面白さのゆえんである。

 

 

「未来と芸術展」で提起されている未来へのイメージは、一貫して、より有機的なものへと移行してきているようだ。

ひと昔前の未来のイメージといえば、電子回路が張り巡らされ、メカニックで四角くて、ストイックで無機質な冷たいイメージではなかっただろうか。

それが今や、スマートシティやスマートハウス、AI、バイオテクノロジーといった言葉に表れているように、生き物のように思考し人間の生活に合わせて流動する、より柔らかく温度を帯びたイメージになっている。

展示物を通して、近未来は「無機物が有機物化した世界」である可能性に改めて気づかされる。

 

例えば、今回の企画展で大きくフォーカスされている建築の領域では、モジュール型海洋都市のプロトタイプをはじめとして、レゴブロックのように組みなおされては再構築される、ダイナミックに「変容」する建築の未来が試みられている。

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「ポロ・シティ」では、より開いた外向的な建築空間をめざし、レゴを組み合わせて様々な形態を示すことで、ダイナミックな建築デザインの可能性を提示している。

 

そのきわめて流動的なシステムは、分裂して増殖したり、結合して多様な器官を形成する、動植物の「細胞」を思わせる。

さらに、資源や廃棄物など、持続可能な都市を目指そうとするアプローチは、まさに、循環する自然の生態系(エコシステム)の再現にほかならない。

まるで近未来の都市そのものが、学習して思考して成長し、エコシステムのなかでエネルギーを消化して排泄して再生する、一つの巨大な生命体のようなものに見えてくる。

無機物で構成された建造物やインフラの集合体でしかなかった都市が、自ら生命のように運動し、活動する有機物的なものに変容しつつあるのだ。

 

 

それはバイオ素材の「生きた」人工物にも表現されている。

内部の人とシンクロして呼吸する家屋。

菌糸と木材が融合し、息吹く家具。

キノコのように白いものを表出し、角のない動物的な構造をしたそれらのモノは、一見気味の悪いものに見えるが、その気味悪さは、「生きた人工物」を抵抗なく受け入れてしまえるかもしれない可能性の裏返しとも言える。

「生きた人工物」という、本来は明らかに矛盾を孕んだ言葉だが(人工物が文字通り生きていたらそれはもはや生命の創造にほかならない)、その体感的なイメージは、私たちは既に容易に想像することができる。

現に、愛玩ロボットのように目も口もついているわけではない、ごく機能的なお掃除ロボットに愛着を覚えたり、うまく作動しない機械に「機嫌が悪い」という擬人法を使ったりすることの延長に、「生きた人工物」との思想的共存の先駆けがあるようにも思えてくる。

機械が作られ始めた発明の黎明期には、人の暮らしを便利にするただの道具としての機械に感情移入するなんて、きっと想像もしなかったはずなのだから。

家具が息をし、人が家と対話する未来も、そのうち未来とは気づかずに現実になっていくのかもしれない。

 

 

これまでいかにも機能的だった人工物が、よりソフトに、ある種の「温度」を持つようになる。

この未来像のシフトを、「球体」という作品がうまく象徴化している。

作品の解説から引用すると、

《球体》は、地球を愛する人たちのための鏡であり、SF愛好者のための新しい惑星であり、旅行者の道しるべであり、パーティー好きの人たちのための巨大なミラーボールである。

なるほど確かに、球体というかたちは、メタリックな色合いはきわめて人工的・非自然的でありながら、丸みを帯びていることで不思議と生命的な親近感や神秘、裏返せば気味悪さや不可解さを感じ取ることができる。

家屋、ビル、扉、窓、テーブル、箱、携帯電話、家電、コンピュータ――。

人類が、自ら創造した四角い無機質なものに囲まれて暮らし始めてからもう長い。

ヒトが、角のとれた曲線的な、言い換えるならば有機的なフォルムを求め始めていることは、心理的な面からみても大変興味深い。

そういえば、近年に制作されたスターウォーズシリーズの新たな“愛らしい”ロボットが、どことなく箱型に近かったR2-D2から、ころころと球状の体を転がして滑らかに動き回るBB-8へ、より曲線的な造形になったのも、なんだか偶然ではないような気がしてくる。

スター・ウォーズ BB-8 & R2-D2 1/12スケール プラモデル

 

 

未来像をつきつめると、蠢く生命体のような有機的なイメージにたどりつく。

この逆説は面白い。

胸を張って機械化を進めてきた人間が、いま生命や自然を模擬的に繰り返そうとするのは、ヒトがやはり自然の産物だからか、あるいは、人類の罪悪感からくる原状回復の願望なのか。

 

たとえばもし、人類の生活が、持続可能な循環型システムに完全に移行したら、地球の生態系は原始へ戻っていくのだろうか。

ヒトは動植物を殺さずに培養肉のみを摂取し、生態系を邪魔しないバイオ素材の道具を用い、再生可能エネルギーを循環して使い続け、資源に頼らず自己再生する都市に住む。

その光景は、自然との共存へ立ち戻ったとも言える明るい未来だ。

しかし同時に、人類がついに「人工の自然」、つまり人類が原始の自然に介入せずに生存していくためのもう一つのエコシステムを創造してしまう空恐ろしさも感じる。

まるで地球の表面にもう一つの地球を生み出してしまったかのような、宙に浮いた自然。

 

そのとき、都市は、社会は、どうなるのだろう。

そして、人間はどこへ行くのだろう。

海や空にも新たな居住空間を構築して、原始の自然に触れない神のような静かさで、地球に生き続けるのか。

自然を模造して人工のエコシステムを再起させ、共存し、疑似的な「自然回帰」を果たすのか。

はたまた、地球の資源に頼る必要もなくなったとき、ヒトは別の星へ移住し、ついに地球史上「絶滅」するのか。

 

想像をより先の未来へと延長させていけばいくほど、人間とは何か、生命とは何か、根源的な問いにぶつかる瞬間が訪れる。

この途方もない思考の遊びが、とんでもなくおもしろいのだ。

 

 

「未来と芸術展」は、3/29まで。

大げさに言うと、この企画展を見ておくのとそうでないのとでは、いつか未来が現実になったときの感じ方がまるで違うはず。笑

ぜひ足を運んでみてください!

www.mori.art.museum

 

 

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「無機物の有機物化」という視点で、これまで時代を攫ってきたSF作品を振り返ってみるのも面白い。そこにはやはり共通した未来イメージがあることに気づくことができる。

 

ハーモニー (ハヤカワ文庫JA)

ハーモニー (ハヤカワ文庫JA)

 

伊藤計劃SF小説『ハーモニー』では、ビルはまさに息づくように活動しているし、遊具は子供の動きにあわせて血肉を通わせた腕のようにその安全を守る。

  

あなたの人生の物語 (ハヤカワ文庫SF)

あなたの人生の物語 (ハヤカワ文庫SF)

 

 映画『メッセージ』(原作はテッド・チャンSF小説あなたの人生の物語』)に登場する宇宙船は、メカニックとは程遠い、美しい曲線を描いている。  

メッセージ (字幕版)

 

 

いわずと知れたSFアニメ「エヴァンゲリオン」シリーズでも、乗り手はただボタンやハンドルで機械を動かすのではなく、神経接続を通してあたかも自己の延長であるかのように「有機的な」巨大な武器を動かす。またその舞台である町そのものも、まるで山が動くように建造物が起伏することで、要塞都市の役割を担っている。その様相はメタボリズム建築の思想に通ずると言えなくもない。

 

また、ちょっと飛躍かもしれないが、最近話題になったビジネス書『ティール組織』では、組織そのものが生き物のように流動的に動く、生命体のような次世代の組織論が提唱されている。このようなジャンルを超えた思想のシンクロも興味深い。 

 

そのほか、『星を継ぐもの』や『大きな鳥にさらわれないよう』は、人間とは何か?人間はどこへいくのか?を考えさせるSF小説だ。このあたりも改めて読み返したい。 

星を継ぐもの (創元SF文庫)

星を継ぐもの (創元SF文庫)

 
大きな鳥にさらわれないよう (講談社文庫)

大きな鳥にさらわれないよう (講談社文庫)

 

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