環境音に「耳を澄ませる」ということを、あまりしなくなった。
外を出歩くときは、できるだけ外界からのストレスをシャットアウトするために、耳にイヤホンを押し込み、視界はスマホのスクリーンの世界に潜ったまま、目的地まで、まっすぐ足早に歩く。
満員電車の重苦しい沈黙に包まれたり、ビジネスマンや賑やかな学生たちの会話に思考を揺さぶられたりするより、好きな音楽を聴いていたほうがいい。
どこに視線を移しても目に入ってくる車内広告に惑わされるより、自分専用にカスタマイズされたSNSのフィードを追いかけるほうがいい。
情報過多になった今の時代、特に都会で生きるには、それが健全な精神を守るための最適な生き方なのかもしれない。
けれど、この習慣が災いして、何か大事なことまで「見えない」「聞こえない」状態になってはいないだろうか。
東京都現代美術館では、鈴木昭男氏の「点 音(おとだて)」と “no zo mi” という作品が設置されている。
二週間ほど前、リニューアルオープン後にようやく初めて足を運んだのだが、偶然にもこの作品と出会えたおかげで、都会に生き慣れて鈍感になった感性を、再び呼び覚ましてもらえた気がする。
以下、パンフレットから引用。
「点 音(おとだて)」は、サウンド・アーティストのパイオニアとして知られる鈴木昭男の代表的なシリーズで、(中略)耳と足を合わせたマークをエコーポイントとして公共空間に設置し、人々の「聴く意識」の覚醒を誘いながら、日常を刷新する「道草=気づき」の感覚をもたらすものです。
この少しかわいらしさもあるマークが、美術館敷地内のいたるところに配置されていて、その上に立って、しばし「耳を澄ませる」ということを体験することができる。
そして、この作品の最終地点は、コレクション展エリアの入り口付近にある、屋外展示場への扉を開けた先にある。
扉をあけると、残暑の空気が肌を撫で、館内の強めのクーラーに冷え切った身体が、少しほぐれる。
浅く水が張られた閑静な空間だ。
脇の小道をさらに進み、左へ曲がると、裏庭のような細長い敷地があり、そこに5つほど、凸凹になった石の階段が等間隔に並んでいる。
この階段のいくつかの場所に、耳と足のマーク。
導かれるまま、ひとつひとつ、マークに両足を重ねて、奥へ進んでいく。
それぞれのポイントに立つと、五感が感じとるものは、不思議なくらい様々だ。
深緑色の生垣の葉にじっと目を凝らしたかと思えば、
生垣の向こうに人が見えたり、高いマンションのベランダに人の生活が垣間見えたり、車の音が聞こえたりする。
あるポイントでは、美術館のコンクリートの外壁しか見えないところもある。
壁をじっと見つめていると、いたたまれなくなって視線がさまよい、上を見上げると、夏の終わりの真っ青な空が見えた。
空を見上げて、雲の流れを追っていると、風が吹いて、さわさわと生垣が揺れる音が耳に届いてくる。
最後の階段に立つと、建物の影がなくなり、太陽の熱を肌で感じる。
そうやって少しずつ、五感の感度を取り戻していくのだ。
最後の行き止まりの部分には、正方形の開けた場所があり、その中央に、石垣に向かってマークが設置されている。
そこに佇み、しばらくじっとしていると、驚くほどいろんなものが流れ込んでくる。
面前に並んだ壁の石組みはなかなか複雑で、哲学的なアート作品のように見えなくもない。
右側の道路を挟んだ向こう側では、新しいマンションの建築現場で、カンカンと仕事をする音が空に響いている。視線を石壁に戻すと、いつの間にか蝶がひらひらと飛んでいて、そこでようやく、上のほうに咲いたピンク色の花が目に入ってくる。
高い石壁の途切れたところから、雲がもくもくと姿をあらわし、風に吹かれて滑っていく。
眩しくなって視線を落とすと、石畳の上を、大きなアリが何匹もうろうろしていることに初めて気が付く――。
世界が、圧倒的な存在感と、溢れんばかりの情報に満ちて、私の身近なところへ戻ってきた気がした。
周囲の環境を、ただの情報としてだけでなく、環境そのものとしてようやく知覚し直した、そんな感じだった。
周囲の環境のなかに佇む自分を再発見すると、なぜだか、肩の荷が下りる。
自分の存在感が相応のサイズに戻った感じがして、ほっとする。
道草を食って、明確な「情報」ではないものを見つめる、聴く、感じ取る。
子供の頃は、道草ばかりで、世界は驚くほどの天然の情報に満ちていたのに、だんだんとそれを享受するアンテナが縮んでいき、人工の「情報」だけを選択して他は何も見ず、何も聞かず、何も感じ取れなくなっていた。
もちろん、館内まで入らなくても、この「佇み」ポイントは美術館の外にも点在しているので、何も考えずにただその上に佇んでみるのも良いかもしれない。
「佇む」という行為も、現代では、意識しないと案外しないものだ。
最近読んだ本で『デジタル・ミニマリスト』という本がある。
その本の中で、こんな言葉がある。
「単に技術革新を忌避したり、反対に漫然と受け入れたりするのではなく、意図と目的をもって利用するなら、新しいテクノロジーはよりよい生活を生み出すものである」
(カル・ニューポート『デジタル・ミニマリスト: 本当に大切なことに集中する』p227)
便利な世の中やテクノロジーに「使われる」のではなく、あくまでも自分の生活を軸にするということ。
この本に感化されて、ちょうどいま私も「デジタル片付け」の最中なのだが、スマホの中から脇腹をつついてくるSNSやアプリの通知に惑わされない自律的な生活は、自己肯定感も高まり、なかなか気分が良いものだ。
外界のストレスを回避するのは有益だとしても、やりすぎもよくない。
受動的なものにばかりアンテナを向けていると、強制的な音と言葉と映像の洪水を浴びて、だんだんアンテナの感度が鈍くなっていく。
自分という人間を軸に、自ら能動的に目や耳を開き、何でもない「道草」の中にあるものをとらえて、とりとめもなく雑念を遊ばせる。
ぽん、ぽん、と脈絡もなく湧き出てくる思考を、自由に浮遊させて湧き出るまま放っておく。
そういう時間が、心を豊かにし、鈍ったアンテナの感度をチューニングしてくれる。
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鈴木昭男氏のウェブサイト。「点 音」プロジェクトは各地で行われているようです。
会期終了間近の「オラファー・エリアソン展」も、あわせて見たい。
artinspirations.hatenablog.com
『デジタル・ミニマリスト』 とあわせて読みたい・見たい、ミニマリズムの作品。
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