カタストロフと美術のちから展|わたしたちがアートでできること
アートで、私たちは何ができるか。
戦争、テロリズム、天災、人種差別、性差別、ヘイトクライム、経済格差・・・
9.11に代表される同時多発テロ事件、そして3.11を経て、社会の変容の只中にある今の時代のなかで、つくるということ、表現するということ。
それは一体どういうことか。
そんな問いを投げかけたセンセーショナルな展覧会が、森美術館で催されている。
会場には、世界中で活躍するアーティストたちの渾身の作品が並ぶ。
ゲリラ的なアートワークで社会を逆撫でし、度々話題をさらってきたChim↑Pomは、原発の目と鼻の先に、日の丸が放射能へと化した白旗を掲げる。
かたや、デジタル数字を使った現代アートで知られる宮島達男氏の作品は、切なる祈りのようで、ただただ美しい。
そのほか、カテジナ・シェダーやスウーンは、自らの作品を通して、何かを表現しアートとして昇華することで、絶望から抜け出すことの証明を果たした。
また、以前、震災後に見て個人的に大きな衝撃を受けた池田学氏の作品もあり、とにかく圧巻だった。
そして、展覧会のプロモーションでも話題の、オノヨーコさんの参加型のインスタレーション。
平和へのメッセージを、訪れた人々が青と白のチョークで刻み、またその上に別の誰かがことばを記していく。
ことばは、ひとつひとつ沈殿していき、部屋の真ん中に打ち捨てられた難民船は、いつしか、人が生み出す美しいことばの海に、深く深く潜っていく。
子供が描いたらくがきも、人知れず訪れた著名人のサインも、外国から来た誰かが記した世界の言葉も、自分を生きるのに夢中な若者の相合傘も、不躾な誰かが書きなぐった汚い言葉さえも、すべてが等しく「海」になっていく。
それらはすべて、人がつくり出したアートの原石だ。
つくることは、生きること。
アートがこの世界につくられるということは、それだけで、希望なのだと思う。
たとえそれが、大惨事を表象するものであっても、苦しく虐げられたものであっても、身を削るような表現のなかに、きっと何か大きな力が宿るはずだ。
それがアートそのものであり、私たちがアートでできることなのかもしれない。
最後に、オノヨーコの参加型の作品に、私もことばを記してきた。
以前ベトナム旅行中に偶然出会った、とあるアートポスターに描かれていたことばである。
"Make art, not war."
第二次世界大戦のさなか、「絵は戦争の道具である」とピカソは言った。
怒りと祈りが入り混じった、痛々しく、激しいことばだ。
スペイン内乱の大惨事を描いた大作『ゲルニカ』の前で、「これを描いたのはあなたたちだ」と兵士に向かって言い放ったというエピソードはもはや伝説になりつつあるが、
芸術家ピカソは、惨禍が続く時代のなか、惨事そのものをアートに写すことで「カタストロフ」と闘った。
芸術で天災を防ぐことはできないが、立ちあがる力を再び灯し、先導することはできる。
死をよみがえらせることはできないが、失った悲しみと怒りを代弁することはできる。
戦争を止めることは難しいが、血を流すことなく、戦争そのものと闘うことができる。
絶望はなくせないが、希望を託せる。
アートはときに、旗となり、武器となり、祈りになる。
それはきっと、世界を動かし、変えることもできるはずだ。
アートの無限大の力を、私は強く、信じたいと思う。
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