今よりもっと五感や感性で小説や絵画を楽しんでいた頃は、漠然と、「奥行き」のある作品だなあ、と感じることがよくあった。
しかし最近は、職業病というのか(といっても相変わらずアマチュアなのだけど)、表現技法とか着眼点なんかについつい目がいき、それに素人覚えの学術的な考察が無駄に絡まって、随分技巧的な読み方や鑑賞をすることが増えていたような気がする。
この表現は上手いなあとか、この色は何を象徴しているのかなあとか、あれこれと頭で考えるうちに、感性で捉えることが疎かになっていたのかもしれない。
しかし、最近『世界泥棒』という小説を読んで、久しぶりに忘れていた感覚が研ぎ澄まされた。
凄まじいまでの「奥行き」のある小説だったのだ。
- 作者: 桜井晴也
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2013/11/11
- メディア: 単行本
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2013年に文藝賞を受賞したこの『世界泥棒』は・・・
と普段なら概要を説明をしたいところなのだが、そもそもこの小説は、説明したり、何かに分類できるたぐいのものではない。
舞台設定とストーリーは一応あるし、主人公も登場人物ももちろん普通の人なのだが、どこかすべておぼろげで、読者との断絶がある。物語を物語として読ませてくれないというか、何かを描いているはずなのにそれが何かわからないというか、まるで無声映画を見ているような感覚になるのだ。
本来の小説なら、読者を断絶させるなどそんなあるまじき行為はご法度なのだけれど、不思議とそれが心地良く、心惹かれてしまい、切なくもある。
さらにこの小説には、表現技法とかそういうものを学び取ろうとする姿勢すら、真向からはじかれてしまう。会話文は地の文に紛れ込み、漢字とひらがなの使い方も奇妙で、そもそも小説なのか詩なのか、SFなのか日常風景なのかファンタジーなのか、何かの尺度で「測る」ことを決して許さない。
全然紹介にも感想にもなっていなくて恐縮なのだけれど、正直、こんな小説は初めて読んだといっても過言ではないほど、ほんとうに高度な小説だった。
改めて、この小説の「奥行き」について考えると、『世界泥棒』は、まさに世界そのものを描いた小説だったような気がしてならない。
限られた場面や会話を描いただけの小説が、その後ろに広がる世界をぼうっと浮かび上がらせ、その先にいる人間やその人間の心の動きや、生命のあり方、日々の生活のひとつひとつまで、神の視点で一つ残らず見えてしまいそうな錯覚をもたらす。
これが、作品の持つ「奥行き」なのではないかと思う。
例えば、シュルレアリスム絵画のように、意味の分からないものが描かれているのになぜか心がざわざわするとか。
環境音楽のように、歌詞もメロディーラインもない音の連なりが不思議な安らぎをもたらすとか。
芸術には、五感に訴えても絶対に表現できないものを、色と色、音と音、言葉と言葉の「あいだ」、あるいは「余白」でもって表現できてしまうことがあるのだと思う。
それが成功すると、「余白」はどんどん広がって目に見えないはずのものが浮かび上がり、感じ取れるようになり、それが「奥行き」になって見る者の琴線に触れて揺さぶられるのではないだろうか。
芸術作品と呼ばれるものの魅力の本質は、五感で感じ取れる範囲のところにはないのかもしれない。
その余白がもたらす、作品の背後に広がる奥行き。
その大きさが作品の良しあしを決めているような気もする。
読後に、世界を丸ごと見てしまったようなショックを与える、奥行きのある小説。
いつかそんな小説を大成してみたいものです。