ジャコメッティ展|視覚と精神に見えるもの
ついに、念願のジャコメッティ展へ行ってきた。
学生の頃にシカゴ美術館で見てからというもの、その独特の存在感が忘れられず、たちまちファンになったジャコメッティ。
没後半世紀の大回顧展とあって、大満足の展覧会だった。
(私がジャコメッティを好きになった所以はこちら。)
artinspirations.hatenablog.com
シカゴで見たものとは違ったけれど、それとよく似た「歩く男」(画面左)という作品は、やはり今回の一番の見どころだろう。
折れそうに細いのに、独特な存在感のある不思議さ。
何か確固たる行く先を目指しているようでもあるし、ただ淡々と物静かに歩いているだけのようにも見える。
まるで人の影を写し取ったような、あるいは人の「芯」だけを取り出したような、極めて精神的な佇まい。
気が済むまで長いこと、その立像と対峙することができたのが嬉しかった。
さて、ジャコメッティ展では、それまでよく知らなかった彼の芸術への探求心やフィロソフィーにも触れることができる。
今回は、それについて思ったことや感じたことを、書き残しておこうと思う。
解説によると、ジャコメッティは、不可能とも言えるテーマを真摯に追求した人であったらしい。
「見えるものを見えるままに」。
対象との物理的な距離もひっくるめて、目に見えるヴィジョンを丸ごとそのままに、表現しようとしたのだという。
「見えるものを見えるままに」写し取ることを追い求めたジャコメッティの作品が、結果として写実とかけ離れた姿に至ったことは、逆説的にも思われる。が、なるほどその試みは、見えない部分も描くことでリアルを表現しようとしたキュビズムにも通ずるところがあり、初期の作品にキュビズムやシュルレアリスムの類が多く見受けられたのも、彼の探求心と試行錯誤を表しているようで面白い。
中でも釘付けになったのは、「3人の男のグループI」と「広場、7人の人物とひとつの頭部」という2つの作品だった。
「3人の男のグループI」は、ちょうど冒頭の「歩く男」が三体、交差するように歩いている像である。
肩と肩が触れ合わんばかりに接近した3人の男は、絶妙な間隔で距離を保ち、つかずはなれずの位置で神妙に通りすがる。四方八方どこから見ても、その3人はぶつかることはない。
しかし、3人の姿が類似しているからか、そこに不思議と他者同士の冷たい断絶はなく、連続的で、まるで3体でひとつの人格を形成しているようにも感じられる。
そう思ったら、ふと、足早にすれ違う東京の群衆を想起した。
同じ人間が、しかし見知らぬ人間同士が、狭い空間を交差するときの、独特の連帯と疎外の入り混じった空気感。
見れば見るほど、その歩くスピードさえ想像できそうな気がしてくる。
「なんだか、不思議と人らしく感じるね」
「人間って動くものだからね。だから静止した写実的な像よりもそう感じるのかも」
隣にいた大学生くらいの3人組が、真剣な面持ちで話している言葉に、ナルホドと内心唸ってしまった。
もう一つの「広場、7人の人物とひとつの頭部」は、高さのまちまちな7人の立像に加え、なぜかひとつだけ大きさの違う人の頭部が佇む作品である。
(気に入ってポストカードも買ってしまった。画面左。)
この作品を見て、「見えるものを見えるままに」という意味が少し咀嚼できた気がする。
タイトルの示す通り、広場を眺めたときに目に飛び込んでくる群衆の見え方と、よく似ていると感じたからだ。
手前にいる人、遠くにいる人、知人と他人。知らない人の像は、顔や容姿といった個性は見たそばから消えていき、ぼんやりしたおぼつかない存在感だけが残る。
それはまるで、人間の限られた視界の中で、他人を「認知」することの精神の動きが表されているようにも思われ、人の目に「見えるもの」がいかに刹那的であやふやであるかを考えさせられる。
また、ジャコメッティは、「書物のための下絵」というシリーズでリトグラフの作品も描いている。(ポストカードの真ん中)
どのスケッチも、彼らしくて何だか微笑ましい。
顔も服も描かれない単純な絵なのに、不思議とその人影たちが、手足を動かし、言葉を発し、せわしなく「生きて」いるように見えるのだ。
モデルを前にしてスケッチした作品も興味深かった。
説明によると、ジャコメッティは、生者を死者から隔てるまなざしを捉えることに執着し、モデルを見る毎に変化するわずかな異なり(これを彼はヴィジョンと呼んだらしい)を捉えようと試みたそうだ。
言われてみれば、それらはまるでモデルが身動きする一瞬一瞬の残影を重ね合わせた集合体のようにも見えてくる。
「見えるものを見えるままに」ということの奥深さに、思わず腕組みをして考え込んでしまった。
これまで私は、ジャコメッティの彫刻を、無駄な血肉を削ぎ落して掘り出した、人間の「核」の姿であるように感じていた。
でも、今回、その捉え方が少し改められた気がする。
ゆるぎない確かさを帯びた「核」という言葉で表すには、どうも様子が違うのだ。
どうやらジャコメッティの作品は、私たちの精神が他人を認知し、認知したそばから抜け落ちてかろうじて記憶に残った、頼りない人間の「残滓」の寄せ集めであるらしい。
記憶の中の人間認識は、ここまで細々としたものなのかと、拍子抜けするほどである。
しかし、表面上の装飾が記憶から零れ落ち、残った「残滓」が人の本質だとするのなら、その寄せ集めは人の「芯」であることに変わりはない。
視覚的に「見えるもの」は美しくても、時と共にうわべが淘汰され、最後に残る精神的に「見えるもの」がつまらなければ、「芯」も貧弱になる。
もしも、ジャコメッティに今の自分を写し取ってもらえるとしたら、その像はどんなふうに立つだろうか。
存在感と魅力のある、すっくと立った凛々しい姿であってほしいものである。
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