Art Inspirations

素人作家のメモ箱

アートと活字を愛するアマチュア作家が運営するブログ。

ジャンルを超えて、広義の「アート」から得た様々なインスピレーションやアイデアを文章で表現していきます。
絵画、彫刻、インスタレーション、音楽、ダンス、デザイン、ファッション、建築などなど。





暗がりを知るということ

 

仕事も趣味も目ばかり使うくせに、昔から目が弱いので、寝る前には間接照明やキャンドルに切り替えるようにしている。

枕元に積んである本をあれこれ拾い読みしながら、眠気が来るのを待つ。

 

最近、常々気になっていた、谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』を読み始めた陰翳礼讃 (中公文庫)

まだまだ冒頭だが、その名の通り「陰影」について書かれたエッセイで、なかなか面白い。

ちょうど今は、昔の厠は母屋と離れたところにあるので外の自然音が聞こえて風流である、昨今のタイル張りのやけに純白なトイレと比べて、清潔と不潔とが曖昧になるぼんやりさがかえって良い、と谷崎潤一郎が大真面目に語っているところである。

日本家屋にはやはり行燈や障子がいい、ガラス戸や蛍光灯や電気ストーブがあると風情が削がれてどうもよくない、などとプンプンしているのは、何だかいつの時代も、ノスタルジーは同じだなあと少し可笑しい。

 

しかし、楽しく読みつつも、言われてみれば、確かに最近は「暗がり」を感じることが少なくなり、そのせいで何だか気疲れするような気もする。

実際、夜は夜相応の明るさにして、薄暗い部屋でゆっくりするのが、一番ストレスがなくて心地いい。

キャンドルの火がふわふわ揺れるのに合わせて、部屋の四隅にうずくまっている「陰」がゆらゆら動くと、ちょっと不気味だけど、どこかほっとする。

そこでふとトイレに立とうものなら、鋭い明かりを浴びて目がチカチカして、途端に目が冴えてしまう。

人間は、隅々まで見えてしまうより、多少の「陰」があったほうが心身ともにしっくりくるらしい。

 

そんなことを、昨晩つらつらと考えながらキャンドルの火や影を眺めていたら、いつか京都の田舎のほうに泊まったときのことを、ふと思い出した。

就職で東京に引っ越すまでの2カ月間ほど、国内外を放浪していた頃のことだ。

当時はまだ学生だからお金もないので、大学時代の家も引き払い、バックパックとスーツケースひとつで安宿を転々としていた。

ゲストハウスのドミトリー生活にもさすがに気が疲れ、たまには贅沢をと、旅館の個室(といっても安い民宿だが、当然ゲストハウスのドミよりは割高)に一人で泊まった。

 

夜、広々と畳に布団を広げ、大の字で寝転がる至福のひととき。

ベッドの上の小さなテリトリーに、歯ブラシやタオルや財布や生活用品を、こまごまと並べてコクピット化しなくてもいいし、思いっきり手足が伸ばせる。シェアスペースで飲み明かす外国人バックパッカーの笑い声もなければ、隣のベッドで動く人の気配もない。トイレだって専用のものが部屋についている。

そんな笑えるくらい単純なことが、涙が出るほど嬉しかった。

放浪生活をしなければ味わうことのできなかった貴重な体験だったが、その小さな幸福と一緒に、私は「完璧な暗闇」を初めて知ったのだ。

 

閑静な住宅街の中にぽつんと佇む旅館だったので、カーテンを閉めてしまえば、文字通りの真っ暗闇だった。

街灯の光でも漏れ出てきそうなものだが、月光さえ入ってこない。

古い和室だからか、ホテルによくあるような足元のぼんやりした照明もなく、加湿器や何やらが稼働しているときの人工的な光もない。

大抵、旅先で寝るときは、初めは真っ暗でも次第に目が慣れてくるものだが、その旅館は、不思議といつまでたっても明るくならなかった。

それどころか、目をあけて「完璧な暗闇」を見つめていると、自分の瞼が閉じているのか開いているのか、起きているのか眠っているのか、手足はちゃんとあるか、自分はちゃんと存在しているかどうかさえ、物事の境界がどんどん曖昧になっていく気がして、ほんとうに空恐ろしかった。

ああ、本当の暗闇ってこうなのか。

こんなに怖いのか。

たった一人で、四角い暗がりの中にしんと横たわっていた時間は、当時、ノンストップで駆け回って何事にも前のめりだった私に、良いショックを与えてくれたと思う。

怖かったけれど、本当の静謐さは恐怖も伴うものなのだと、知ることができた。

やがてその暗がりを受け入れると、それまでのゲストハウス生活で、どことなく周囲を気にしながら生きる癖がついていたのがすとんと剥がれ落ち、何か月かぶりに、とても深く眠った。

 

 

眠らない街とはよく言ったもので、今の人間の生活は常に明るく「照らされて」いる。

照らされてばかりいると、常に何かを「魅せ」なければならない気がしてくる。

何か魅せよう、価値あるものを誇示せねばと思考が働き続けると、隠れる場所がなくなる。

隠れられないということは、ちょうど舞台の演者のように、素晴らしいものを披露するための準備をする「ウラ」がないということ。

そうなると、常に演じ続けて疲弊するか、あるいは完成度が高まらないまま醜態をさらしてしまうのがおちだ。

 

谷崎潤一郎が愛でた「陰翳」のある風景を見習って、こころにも、ちょっと怖いけど心地の良い、「完璧な暗闇」が棲む場所を設けておきたいものだと思う。

 

 

 

ちょっと系統は違うけれど、最後に、「影」で思い出した私の好きな言葉をひとつ。

“If you don’t have any shadows, you’re not standing in the light.” - Lady Gaga

(あなたにひとつも影がないというなら、あなたは光の中に立っていないということだ。)