Art Inspirations

素人作家のメモ箱

アートと活字を愛するアマチュア作家が運営するブログ。

ジャンルを超えて、広義の「アート」から得た様々なインスピレーションやアイデアを文章で表現していきます。
絵画、彫刻、インスタレーション、音楽、ダンス、デザイン、ファッション、建築などなど。





新・北斎展|世界に誇る日本絵師の虜になる

日本は言うまでもなく、世界でも知らない人はいない天才絵師、葛飾北斎

海外では“The Great Wave”という名で親しまれる『富嶽三十六景 神奈川沖浪裏』はあまりにも有名だ。

また、浮世絵だけでなく、コミカルでユーモラスな『北斎漫画』も、よく知られた作品かもしれない。

 

本日は、そんな有名どころの作品も含めた、圧巻の展示作品数を誇る「新・北斎展」へ行ってきた。

hokusai2019.jp

 

 

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まずもうポスターの絵面からかっこいい。

有名すぎる『神奈川沖浪裏』は、改めて見ても、やはりデザインがずば抜けて秀逸だ。

そびえたつ高波と、それに揉まれる小舟の間隔、そしてはるか遠くに鎮座する富士の位置。どこをとっても完璧。

また、北斎ブルーと対をなす『弘法大師修法図』には、法師と戦う赤鬼が描かれ、屈強な巨躯をねじったその姿は、まるで今にも動き出しそうだ。

『神奈川沖浪裏』とは対照的に、黒く塗りつぶされた背景が、赤鬼の波打つ肌を浮き上がらせ、よりいっそう気迫あるものにしている。

 

 

 

作品は、北斎の生涯を辿って順に展示されている。

北斎は、その長い生涯の中で、たくさんのペンネームを使ったことでも知られている。

春朗、宗理、葛飾北斎、戴斗、為一、画狂老人卍・・・

と名を変えながら、さまざまな方面で、類まれな才能を発揮していく。

その作品数と、どの時代も衰えない質の高さに、見る側は息をつく間もない。

 

 

私が個人的に圧倒されたのは、龍の絵だ。

龍はどの時期にも描かれるテーマだが、動物を描いた中でもとりわけ奥行きがあり、魂がこもっている。

 

宗理期の『玉巵弾琴図』は、雲間の闇の中に、下方から舐めるようにこちらを見据える竜が描かれており、全体に筆を振って散らせたような墨のしぶきが、重く垂れ込める雲の水気を感じさせ、そこに描かれていないはずの雷の光や音までも感じることができる。

卍時代の『富士越龍図』では、白く美しいなだらかな線を描く富士の向こう側に、遠く、黒煙が空をのぼり、その中を龍が身をくねらせて昇っていく。真っ白な富士の輪郭と、目に焦げつくような黒煙の龍との対比はすばらしく、ハッと息をのむ。

 

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『富士越龍図』

 

ほかにも、龍だけでなく、猿、狸、狐、虎、鬼、蝶、鶴、燕といったさまざまな動物を描いており、どれも緻密でリアリティに富んでいる。

動物の特徴を正確にとらえる観察眼と、それを筆や技法を使い分けて紙面に躍らせる表現力の高さに度肝を抜いた。

 

 

また、「カッコイイ」「スゴイ」だけではないのが北斎の魅力で、『北斎漫画』シリーズや、デフォルメされた落書きのようなラフ画が、これまた悶絶するほどかわいい。

思わず笑ってしまうようなふざけた顔を並べたものや、ひょっとこ踊りのように滑稽なしぐさをする江戸っ子をコミカルに描いたシリーズなど、さまざまだ。

超がつくほどの天才絵師なのに、可笑しくて不真面目な(でもくやしいほど上手い)絵を描くものだから、ますます北斎という小粋な画伯の虜になってしまう。

中には、刀を呑んだり蜂の大群を口から出したり手から水を出したりと、現代でいうマジシャンのような離れ技をする人も描かれていたりして、全く時代の古さを感じない。

また、私が特に気に入ったのは、一筆書きでさまざまな所作をする人々をデッサンした作品で、これはもう秀逸すぎて笑うしかなかった。

たった一本の曲線で、これほどまでに人間の何気ない所作の特徴を捉え、表現するとは、まさにおそるべし。

一筆書きでの画力の高さは、私の大好きな画家ピカソも負けていないが、北斎のほうが、「無心」(しゃがみこんで読書に没頭している様子)や「放屁」といったタイトルもあり、妙にふざけていて愛らしい。ニクイ。

 

 

 

そして北斎といえば、忘れてはならないのが、やはり代表作『富嶽三十六景』シリーズだろう。

『神奈川沖浪裏』をはじめどれも有名すぎる作品ばかりだが、中でも、『駿州江尻』と『東都浅草本願寺』には嘆息した。

 

『駿州江尻』は、道行く人々を突風が襲い、紙束と笠が風にさらわれて飛んでいく様子が描かれている。

細木がしなり、葉を散らして、びゅうと一瞬のうちに風が過ぎ去っていくさまは、実にリアルだ。

紙束と笠をさらわれてしまった人の驚きと焦りまで手に取るように感じられ、彼の二の舞にはなるまいとして腰をかがめ、必死に笠を押さえる人々のしぐさもいじらしい。

そして、風にもてあそばれる人間を見下ろし見守るように、はるか向こうに、微動だにしない一筆書きの富士の輪郭が、すっくと見える。

なんだか自然の中に生きる人間の暮らしが愛おしくなるような、物語のある絵だ。

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富嶽三十六景 駿州江尻』 

 

 

『東都浅草本願寺』は、なんといっても構成美がすばらしい。

本願寺」というだけあって寺を描いたものだが、その全体像は見えず、ただ寺の屋根部分のてっぺんだけが、画面右側に見切れた状態で配置されている。

中央には、雲間を越えた遠くのほうに、ちょうど寺の屋根のなだらかな曲線をまねるようにして、青い富士山が堂々と据えられている。

そしてその富士の手前を、凧が高々と気持ちよく昇っている構図だ。

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富嶽三十六景 東都浅草本願寺』

このアングルが本当に見事だ。

北斎が今の時代に生きていたら、さぞかしすばらしい写真家になったことだろう。

 

 

 

今回の北斎展で、私はまんまと、このスゴくてかっこよくてかわいい北斎作品の虜になってしまった。 

表現力をとっても、デザイン力をとっても、北斎の絵はこれ以上改良しようのない、極められたものであるように思う。

だからこそ、今も決して、その魅力は薄れることがない。

むしろ、今の時代にあっても新鮮に映るほどだ。

優れた芸術は普遍的なものであるということを、身をもって知ることができた。

 

 

ちなみに北斎は、90歳にして画風を改め、100歳以降に絵画の世界の改革を目指そうとしていたのだという。

残念ながら90歳にこの世を去ったが、あと10年あれば真の絵描きになれたのに・・・と悔やみながら息を引き取ったのだとか。

どこまでも驚かされるスーパー爺である。

 

葛飾北斎は、間違いなく、日本が世界に誇る美術界のバケモノだ。

 

 

 

 

 

北斎 富嶽三十六景 (岩波文庫)

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北斎原寸美術館 100%Hokusai! (100% ART MUSEUM)

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北斎漫画入門 (文春新書)

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豆本 北斎漫画 全6冊セット

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カタストロフと美術のちから展|わたしたちがアートでできること

 

アートで、私たちは何ができるか。

戦争、テロリズム、天災、人種差別、性差別、ヘイトクライム、経済格差・・・
9.11に代表される同時多発テロ事件、そして3.11を経て、社会の変容の只中にある今の時代のなかで、つくるということ、表現するということ。
それは一体どういうことか。

そんな問いを投げかけたセンセーショナルな展覧会が、森美術館で催されている。

 

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www.mori.art.museum




会場には、世界中で活躍するアーティストたちの渾身の作品が並ぶ。


ゲリラ的なアートワークで社会を逆撫でし、度々話題をさらってきたChim↑Pomは、原発の目と鼻の先に、日の丸が放射能へと化した白旗を掲げる。

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Chim↑Pom 《REAL TIMES》

 

かたや、デジタル数字を使った現代アートで知られる宮島達男氏の作品は、切なる祈りのようで、ただただ美しい。

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宮島達男 《時の海-東北》

 

そのほか、カテジナ・シェダーやスウーンは、自らの作品を通して、何かを表現しアートとして昇華することで、絶望から抜け出すことの証明を果たした。
また、以前、震災後に見て個人的に大きな衝撃を受けた池田学氏の作品もあり、とにかく圧巻だった。

 


そして、展覧会のプロモーションでも話題の、オノヨーコさんの参加型のインスタレーション

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オノ・ヨーコ 《色を加えるペインティング(難民船)》

平和へのメッセージを、訪れた人々が青と白のチョークで刻み、またその上に別の誰かがことばを記していく。
ことばは、ひとつひとつ沈殿していき、部屋の真ん中に打ち捨てられた難民船は、いつしか、人が生み出す美しいことばの海に、深く深く潜っていく。


子供が描いたらくがきも、人知れず訪れた著名人のサインも、外国から来た誰かが記した世界の言葉も、自分を生きるのに夢中な若者の相合傘も、不躾な誰かが書きなぐった汚い言葉さえも、すべてが等しく「海」になっていく。

それらはすべて、人がつくり出したアートの原石だ。

 

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展示室内に記されたことば


つくることは、生きること。


アートがこの世界につくられるということは、それだけで、希望なのだと思う。

たとえそれが、大惨事を表象するものであっても、苦しく虐げられたものであっても、身を削るような表現のなかに、きっと何か大きな力が宿るはずだ。

それがアートそのものであり、私たちがアートでできることなのかもしれない。

 



最後に、オノヨーコの参加型の作品に、私もことばを記してきた。

以前ベトナム旅行中に偶然出会った、とあるアートポスターに描かれていたことばである。

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"Make art, not war."

 


第二次世界大戦のさなか、「絵は戦争の道具である」とピカソは言った。

怒りと祈りが入り混じった、痛々しく、激しいことばだ。

スペイン内乱の大惨事を描いた大作『ゲルニカ』の前で、「これを描いたのはあなたたちだ」と兵士に向かって言い放ったというエピソードはもはや伝説になりつつあるが、

芸術家ピカソは、惨禍が続く時代のなか、惨事そのものをアートに写すことで「カタストロフ」と闘った。

 


芸術で天災を防ぐことはできないが、立ちあがる力を再び灯し、先導することはできる。

死をよみがえらせることはできないが、失った悲しみと怒りを代弁することはできる。

戦争を止めることは難しいが、血を流すことなく、戦争そのものと闘うことができる。

絶望はなくせないが、希望を託せる。

アートはときに、旗となり、武器となり、祈りになる。

それはきっと、世界を動かし、変えることもできるはずだ。

 


アートの無限大の力を、私は強く、信じたいと思う。

 

 

www.mori.art.museum

 

 

*** 

カタストロフと美術のちから

カタストロフと美術のちから

 
ピカソの戦争 《ゲルニカ》の真実

ピカソの戦争 《ゲルニカ》の真実

 

 

暗幕のゲルニカ (新潮文庫)

暗幕のゲルニカ (新潮文庫)

 

 

建築の日本展|空間をつくる、未来をつくる

森美術館の美術展は、いつもセンスがいい。

その内容の濃さは、美術鑑賞というにはあまりに味気ない、もはや哲学の域だ。

以前の「宇宙と芸術展」も素晴らしかったけれど、今回の「日本の建築展」も、期待を裏切らない面白さだった。

 

www.mori.art.museum 

古代から現代にいたるまで、日本が誇る建築の技術や美しさを、様々なアプローチで紐解いた展覧会である。

章ごとのテーマを並べてみると、こんな感じ。

 

01 可能性としての木造

02 超越する美学

03 安らかなる屋根

04 建築としての工芸

05 連なる空間

06 開かれた折衷

07 集まって生きる形

08 発見された日本

09 共生する自然

 

建築好きとしてはこれだけでむずむずしてくる・・・

まさに、ロマンと美と技術が詰まった、誇るべき日本建築の集大成といったところ。

 

展示作品は、なんと400点を超える圧巻の内容だ。

ギャラリー内に入ると、まずは「会津さざえ堂」の模型が目をひく。

ファンタジーな香り漂う、今の時代も古びないミステリー建築である。

さざえ堂(国指定重要文化財)|観光スポット|会津若松観光ナビ

www.fukushimatrip.com

 

 

続いて、まるでパルテノン神殿さながら、古代のロマンくすぐる出雲大社の本殿。

太古の出雲大社本殿は、50m近くにも及ぶ壮大なお社だったとか。

 

言わずと知れた、安藤忠雄の「水の教会」ももちろん登場する。

自然との完璧な融合美を実現した、美しい傑作。

tomamu-wedding.com

 

あとは、個人的にお気に入りの鈴木大拙館。ここは、いつか訪れて以来、あの静謐な美しさが未だに忘れられない。

www.kanazawa-museum.jp

 

他にも、寝殿造や、千利休の茶室、厳島神社東大寺南大門から、スカイツリー、ルイヴィトン銀座店に至るまで、時代を超えた高度な建築デザインが目白押しである。

 

 

また、展示物もさることながら、解説の言葉にも考えさせられるものが多かった。

そのひとつが、

日本の建築は、「目の前にある実体を超えた何かを感じる」

というもの。

確かに、数れた建造物のなかにいると、ただ「建物」という合理的で物質的なものだけではない、筆舌に尽くしがたい「気」のようなものを感じることがある。

木という生きた素材が息をしているからなのか、日本家屋特有の奥行きと陰影が生み出す光のコントラストがそう錯覚させるのか。

仏閣しかり、寺院しかり、建造物というのは、精神的な「何か」をその懐に宿す芸術でもあるのかもしれないと思うと、建築の奥深さにますます魅了される。

 

また、もう一つ興味深かったのが、日本建築が持つ「ぼんやりとした境界」という特徴だ。

家屋で言えば、たとえば土間や縁側。平安時代寝殿造も、御簾などを隔てて緩やかにつながり、不動な壁とは違う流動的な構造をしている。

家と外の「あいだ」で、ご近所さんと話をしたり、庭の自然を愛でたり。

源氏物語の世界を覗いてみれば、御簾を隔てて様々なドラマが繰り広げられていたり。

独特なこの建築の構造が、日本人の「あいだ」という空間観を醸成したのではないか。

そういう分析もナルホドと妙に納得してしまう。

この「あいだ」にある生活空間の伝統が、もしかすると、日本人のコミュニティ意識や人間関係における空間観の形成にも一役買っている、と考えると、さらに面白い。

建築といい暮らしといい、日本人は「ゆるやかにつながる」というグラデーションのようなものづくり・関係づくりが元来得意なのかもしれない。

建築は、生活様式やコミュニティデザインにまで、どんどん裾野が広がっていく。

 

「Power of Scale」というバーチャルな展示にも感嘆した。

四畳半くらいの立方体の空間のなかに、様々な「部屋」の映像が映し出されるのだが、これが極めて立体的で、超リアルなのだ。

はじめは線で描かれた図面的な絵でしかないが、そのすぐ後に、実際の部屋のイメージが浮かび上がる。部屋の外には街並みや自然などが映し出され、周囲の空間ともゆるやかにリンクする。

図面的なのに実体感があり、設計図と空間感覚が同時に認識される不思議な体験だ。

映し出される空間は、電話ボックス、カプセルホテル、被災時の避難所で区分けされるボールハウス、茶室と、どれも小さな空間ばかり。

それらを見ていると、私たちの暮らしは、案外小さなハコのなかに収まっているのだなと思い直す。

私たちの五感は、テクノロジーの発展に伴ってどんどん拡張されてきたが、実体そのものが必要とする空間は、ごくごく小さなものなのだと気付かされた。

そもそも、人間の暮らしは、空間のなかにできている。

その空間をつくるのが、建築なのだ。

建築と人の暮らしは、古代からずっと、密接に関わり合ってきたのだろう。

 

 

建築は、精神的な「空気」も、コミュニティ意識も、人の暮らしもつくりだす。

それらが紡ぎ合わされて人の歴史が刻まれていくのだとすれば、建築は気が遠くなるほど壮大な空間芸術だ。時空すら超えるとも言えるかもしれない。

そして、建築が歴史をつくってきたのなら、人間の未来さえも、つくることができる。

 

日本が誇る建築の技術と美は、どんな未来をもたらしてくれるのだろう。

私たちの未来は、どんな建造物のなかで繰り広げられるのだろう。

そんなことを考えていたら、帰り道、目に映る東京の建造物が、どれもものすごくロマンに満ちたものに見えてきた。

 

 

***番外編***

「待庵」の展示エリアでは、実際に茶室の中に入ることもできます。

…が、私は、窓の外の景色に圧倒されて、入る余裕をなくしてしまいました(笑)

というのも、実はこの「待庵」、窓のある部屋に設置されていて、展示エリアに入るなり、質素な庵の向こうに六本木の霞がかった摩天楼がどーんと。

53階から見下ろす広大なシティービューと、内なる宇宙の広がりと向き合う小さな茶室。この対比、シビれる・・・

まるで、古と新、内と外が、同時に存在しゆるやかにつながっているような演出に、すっかりやられてしまいました。いつもこういう小粋な演出をする森美術館、やっぱりすてき。

ちょっと邪道な楽しみ方かもしれませんが、みなさんもぜひ、窓の外にもご注目を!

art-view.roppongihills.com

 

今回は、思わず画集を衝動買い・・・

このカタログ、ものすごく内容が贅沢!!!ご興味ある方はぜひ。

建築の日本 その遺伝子のもたらすもの

 

宇宙と芸術展|思考の幅を広げる魅惑の物件 - Art Inspirations

ルドン―秘密の花園|いのちとことばの芽吹き

二カ月ほどものを書くことから離れていて、随分とご無沙汰になってしまった。

スランプというのか、どうにもこうにも言葉が出てこず、ただただ飢えたように読むばかりの二か月間だった。

自分のことばを文字で綴っていくという行為そのものが、まるではらわたに刃を入れて血を絞り出すような、途方もなくしんどい作業に感じられて、書こうとしても、どうしても怖くて書けなかった。文字に昇華できない思考ばかりが渦巻いて、苦しかった。

 

それが先日、ルドン展に行ってみたら、ことばがようやく動きだしたので、勇気を出して筆を取ってみようと思います。

 

 

ルドンー秘密の花園|三菱一号館美術館(東京・丸の内)

mimt.jp

 

ルドンといえば、森の上に一つ目の巨人がのっそりと立っている絵が鮮烈に残っていて、個人的には「目玉の絵」というイメージが強い。

ルドン画集: 象徴というグロテスク (世界の絵画)

(後から知ったが、一つ目の巨人は、キュクロプス(もしくはサイクロプス)というギリシャ神話に出てくる生物らしい。よくルドンがモチーフにしたのだそう。)

 

が、優雅な三菱一号館美術館で催されていたルドン展の副題は、「秘密の花園」。

ポスターを見ても、随分と上品な絵なので、ルドンとは一体何者なのか、初めて対面するつもりでどきどきしながら足を踏み入れた。

 

もっと知りたいルドン―生涯と作品 (アート・ビギナーズ・コレクション)

 

 

作品は、大きく分けて、無彩色と彩色に二分される。

リトグラフや木炭、エッチングで描かれた白黒の不気味な絵と、色彩豊かで穏やかな筆致の油絵や水彩画。一見すると同じ画家とは思えないが、作品をひとつひとつ見ていくにつれて、一貫したテーマが見え始める。

絵画の中で、胞子のようにふわふわと漂う何か。

不気味だがどこか滑稽で物憂げな人面花。

ふけばふっと散ってしまう綿のように、幻めいた淡い草花。

じっと見ていると、鼻がむず痒くなってきそうな絵。

説明によれば、ルドンは植物学者と親しく、木々や草花、動植物の存在に多大な関心を持っていたらしい。

顕微鏡の普及や、天体望遠鏡の発展、ダーウィンの進化論と時代を同じくしたことも、大きな影響を及ぼしたのではないかと考えられているそうだ。

 

「画家」の誕生 〔ルドンと文学〕

 

それまで見えなかったものが、見え始めた時代。

それは一体、人をどんな気持ちにさせただろう。

私たちは何者なのか?生命とは何か?

きっと、そんな気の遠くなるほど大きな問いに、直面したのではないだろうか。

 

ルドンが描いたリトグラフのシリーズは、タイトルを見ても非常に興味深い。

「植物人間」や「孵化」「発芽」といった分かりやすいものから、

「おそらく花の中に最初の視覚が試みられた」(『起源』II)

「不格好なポリープは薄笑いを浮かべた醜い一つ目巨人のように岸辺を漂っていた」(『起源』III)

「目に見えぬ世界は存在しないのか?」(『陪審員』V)

など、実験的な表現や、作品自体を通して問いを追求するような姿勢もうかがえる。

ルドンは、見えないもの(あるいはそれまで見えていなかったもの)を視覚表現の舞台に引っ張り出し、それらにタイトルをつける行為によって、科学の進歩と共にゆらぎはじめた世界認識と、向き合おうとしたのではないか。

科学によって暴かれた世界を神話と結び付けてみたり、植物と人間を混合させてみたり、様々な実験をしながら、「いのちとは何か?」を問い続けたのではないか。

そんなことを考えながら、今一度、咲き誇る花の絵と対面すると、普段なら「キレイだなあ」で済ませてしまうはずの花々が、何だか摩訶不思議な生命の神秘に見えて、ざわざわと胸が騒いだ。

 

 

 

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見終わったあとは、ルドンの草花の余韻に浸りつつ、バラの花が可憐に咲き誇る中庭をゆっくりと歩いた。

すると、頭の中に、”bloom”という英単語が浮かんだ。

「花が咲く」という意味の言葉だが、日本語に訳そうとすると、とても含蓄のある言葉だ。

芽吹く。息吹く。開花する。栄える。咲き誇る。

奇妙な胚芽のような人面花が闇に浮かぶ絵画は「芽吹く」と表現したいし、様々な花が可憐に咲き誇るブーケの絵は「いのちあふれる」と表現したい。

そう思ったとき、私自身も、ことばが”bloom” していくような――芽吹き、花開いて、次々と咲き誇り、種子を飛ばし、いのちあふれるような――静かで壮大で神秘的な気持ちに襲われた。

命の在り方を追求したルドンの絵画と、目の前で美しく息吹く草花のおかげで、自分のことばが再び発芽する、豊かな潤いを感じることができた。

 

 

思えば、思うように書けなかったこの二か月間、私の思考はずっと自分の内側を向いていて、風の通らない密室のような状態だったのだと思う。

使えることばは次第に底をつき、部屋中に同じ思考ばかりが停滞する。息が詰まって、文字に起こして昇華する余裕すら持てなくなる。

ちょうど、空気や水のないところでは生命が育たないのと同じだ。

 

きっと、いのちもことばも、外界と触れて初めて、息吹くものなのだろう。

 

 

谷川俊太郎展|人の心はことばに育てられる

詩人・谷川俊太郎さん。

ことばの匠、というとちょっと似合わない、優しくて穏やかで聡明な、ことばのご友人。

今振り返ると、絵本や教科書や、いろんなところに谷川さんのことばが散らばっていて、私は知らず知らずのうちに、この方のことばに育てられたのだなあと思う。

谷川俊太郎の『ことばあそびうた』が面白くて、工藤直子の『のはらうた』が楽しくて、その頃からちょっとずつ詩作の真似事を始めて。金子みすゞの『わたしと小鳥とすずと』が心を形作って、茨木のり子の『自分の感受性くらい』で雷に打たれて。

私がことばのファンになった発端は、思えば小説ではなくて詩だった。

そして生まれて初めて詩というものに触れたのは、なんとなく、谷川さんの詩だったような気がしてならない。

 

そんな私の心の育ての親のような、谷川俊太郎さんの「谷川俊太郎展」。

子供の頃の、丸裸の自分に出会うような気持ちで、行ってきました。 

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谷川俊太郎展|東京オペラシティアートギャラリー

 

 

まず初めに度肝を抜かれるのは、モニターが壁一列に並んだ、不思議な詩の部屋。

読み上げられている詩は『いるか』『かっぱ』『ここ』の三編。

「いるかいるか、いないかいるか…」のあの有名な詩が、

「い」「る」「な」「か」「い」「る」「か」

と、それぞれのモニターにひらがながひとつずつ映し出され、谷川さんらしきおじさんの声が文字を一音ずつ発音し、一音一音がランダムに、ちかちかと点滅する。

モニターの背景はそれぞれに色があったり、「い」と発音する声に合わせて音階のようなものも付随しはじめたり、まるで、五感ぜんぶを使って詩を体験しているかのよう。

その空間すべてが詩そのものみたいに、谷川さんの詩が、一語一語、一音一音、一色一色、響き渡る。

そして無作為に発せられる音が、ふとした瞬間に、聞き覚えのある「いるか」になったり、「とってちってた」という『かっぱ』の好きなフレーズになったり、何だか言葉を初めて発見した赤子のようにワクワク楽しい気分になる。

 

この演出には、すっかり魅了されてしまった。

詩は文字だけで作られているが、色があり、音がある。

それらが織り成されて物語になり、絵画になり、音楽になる。

詩というものは何なのか、答えがそこに示されていたような気がした。

 

 

さて、五感いっぱいに詩を浴びたあとは、いよいよ展示コーナーへ。

 

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ポスターにもあった『自己紹介』という詩が、棚や柱になって展示室じゅうに散らばり、谷川さんの持ち物や手紙や写真とあわせて、様々な詩がこれまた無作為に置いてある。

展示物もひとつひとつ味があって、ことばのフォントも美しい。

壁の裏側に貼ってある手書きのメモも、なんだか谷川さんの声を聴いているみたいに、穏やかで優しくて深い。

 

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散らばった詩を拾い集めるように読んでいくうちに、さっきの詩の演出の余韻も相まって、まるで絵画鑑賞をしているような、あるいは音楽を聴いているような、豊かな気持ちになっていった。

 

 

谷川さんは、そのお人柄もあるのか、ことばを駆使しているという感じはしない。

ことばを統べているのではなくて、ことばと「上手くつきあっている」という感じ。

クセのある親友のことを「全くしょうがない奴だなあ」と笑うみたいに、諦めや呆れや感謝や愛情を持って、長年つきあってきた方なのだなと感じた。

だからこそ、ことばのほうも谷川さんのことを信頼して、人見知りせずに生き生きと息づいているのかもしれない。

 

 

一通り展示を見終わって、一緒に連れていった母が追いつくのを待つ間、壁際に立って、広い展示室を眺めた。

そこで気付いたのが、詩を読む人たちの表情だ。

面白い詩を読む人の口角は自然と上がっていて、優しい詩を読む人の目は細く穏やかで、意味深い詩を読む人は眉間に力を入れて考え込んでいる。

中には、感動が顔に出るのをこらえているのか、泣いているような怒っているような、妙な顔になっている人もいて、人々の表情の豊かさに心を動かされた。

詩って、しあわせだなあ。

ことばって、すごいなあ。

改めてそう感じて、展示を見終わっても、その空間が名残惜しくてしばらく立ち尽くしてしまった。

 

 

 

人の心は、ことばに育てられる。

ことばには風景があり、物語があり、音楽があり、色があり、息さえもしている。

生きたことば。

だからこそ、ただの文字の羅列にすぎないはずのものに、人は微笑んだり涙を流しさえするのだ。

 

ことばは扱うものではなくて、ましてや操るものでもない。

いつか私の友人にもなってもらえることを夢見て、ことばに対して、真摯に、大切に向き合い続けていたいと思う。

 

 

 

谷川俊太郎さん、たくさんの素晴らしいことばをありがとうございます。

これからもお元気でいてください。

 

 

 

***

谷川俊太郎展」に展示された詩は、書籍でも購入することができます。

内容は同じで、赤・青・黄の3色。(なぜかぜんぶ欲しくなる)

私は一番文字が映える黄色を選びました(^^)

こんにちは

こんにちは

 

  

子供の頃好きだった、谷川俊太郎さんの絵本たち。「あ、これもそうだったのか!」というものばかり。  

ことばあそびうた (日本傑作絵本シリーズ)

ことばあそびうた (日本傑作絵本シリーズ)

 
アレクサンダとぜんまいねずみ―ともだちをみつけたねずみのはなし
 
もこもこもこ (ぽっぽライブラリ みるみる絵本)

もこもこもこ (ぽっぽライブラリ みるみる絵本)

 
わたし (かがくのとも絵本)

わたし (かがくのとも絵本)

 

 

 

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