【感想】久石譲&ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団 スペシャルツアー2025
※本記事は、コンサートの内容に関する詳細な感想です。セットリストや演出の概要などを知りたくない方はご注意ください。
先日、大変ありがたいことに、久石譲 スタジオジブリフィルムコンサート ツアーファイナルに当選し、コンサートへ行ってきた!
本当に素晴らしかったので、演奏を聞きながら感じたたくさんの思いや感動を、忘れずにとじこめておきたくて、ブログに書きとめておこうと思う。
熱が冷めないまま書くのでたぶんすごーく長くなりますが、何卒ご了承ください。笑
***
思えば私は、ジブリと共に育ってきた。
ナウシカやもののけ姫の壮大な世界観からストーリーテリングの力に魅了され、
趣味で小説を書くようになってからは、いつも宮﨑駿さんの創作に向かう姿に憧れていたし、
時には久石譲さんの音楽を助けにして、情景描写に取り組むこともあった。
大人になってからは、また作品の受け取り方が変わってきて (紅の豚の良さが分かるようになったし、昔は悪役だと思っていたクシャナやクトロワやエボシ御前にぐっとくるようになった)
現実に忙殺されそうになると、トトロの『風の通り道』を聴いて、失いかけた感性を繋ぎとめたりもした。
子供の頃に久石譲のジブリ音楽の楽譜を買ってもらい、クラシックの練習曲は全然やる気を出さないくせに、その楽譜だけは夢中で練習したのも、良い思い出だ。
伝統的なクラシック音楽とはまるで違う複雑な和音や音階やリズムに、久石さんのクリエイティブさに改めて驚いたのを覚えている。
だから、生涯に一度は、生で久石さんご本人に会いたい!と、ずっと思っていた。
そんな念願叶い、幸運にも当選!
(今回のコンサートには約120万人が応募したらしい…本当に神さま譲さまありがとうございます…)

以下、セットリストに沿って書きとめていきます。
***
一曲目にふさわしい圧巻のスケール。
物語に負けず劣らず、勇壮で美しい組曲だ。
久石さんの最初のピアノのワンフレーズが、心の琴線に触れた。
オーケストラが神話のように荘厳な大スペクタクルを描き出すなか、久石さんのピアノがあるからこそ、壮大さの中にも血の通った「人間」らしさを失わない。
かわいくて軽快な音楽と記憶していたけれど、キキがスランプに陥る場面の『傷心のキキ』には、予想外に涙が出た。
バイオリンソロがとにかく美しくて心に響く。
『アシタカせっ記』は大河ドラマのような勇壮たる音楽に圧倒され、『タタリ神』は和太鼓がものすごくカッコいい。
この曲、焦燥感のあるバイオリンの細かい旋律が、タタリ神のあの気味の悪いにょろにょろした感じにぴったりなんだよなぁ。(伝われ)
ソプラノ歌手 エラ・テイラーさんが歌う『もののけ姫』には、息をのんで聞き入った。
美しい孤独があり、祈りのようでもあり、しかし芯のある強さをそなえた名曲。
ドームいっぱいに響き渡るビブラートの余韻のなか、割れんばかりの拍手だった。
マリー・ビュルーさんのマンドリンの力を借りて、どこか牧歌的な雰囲気漂う音楽。
それでいて、スクリーンに映し出される『風立ちぬ』の儚く切ない物語とのギャップが絶妙。
戦時下の複雑な情勢を舞台に語られるこの物語に、もしもっと深刻な音楽が添えられていたら、
世に揉まれながらもただ飛行機づくりに真摯に向き合って生きた、二郎の純粋さは、ここまで引き立てられなかっただろうと思う。
マンドリンの明るさが、作品に希望を残してくれているのだと知った。
もう一度映画を見たくなった。
ぽーにょ、ぽーにょぽにょ…の大合唱が楽しくて、音に乗って自然と身体が揺れる。
子供らしい軽快さはもちろんのこと、海の神秘や力強さもしっかり表現されているのがすごいところ。
アリーナ席を行進する自衛隊のマーチングバンドがピシッと揃っていてかっこいい。
『ハトと少年』にマーチングバンドをあわせるこの演出、最高でした!
名曲中の名曲『君をのせて』は、改めて名曲だなと再確認。
いやもーホントいい曲作るなぁ!!!と思わず叫びたくなる楽曲ばかり。
ゆったりとした大人の余裕あり、愛の切なさあり、ノスタルジックな哀愁漂う風情あり。
ジャジーなアレンジが粋で、久石さんのピアノがここでもぐっと心に迫る。
音楽は紅の豚が一番素敵なんじゃないかしら。
ポルコやジーナのように、旧友や愛する人を大事にしようと、改めて思わされる。
個人的には、ハウルが一番オーケストラが似合う楽曲だと思った。
オーケストラの楽器すべてが惜しみなく魅力を発揮していて、聴きがいがある。
軽快なワルツに乗って、めくるめくファンタジックな世界に酔いしれる。
『Cave of Mind』の透き通るようなトランペットが、まさに満天に広がる夜空のようで美しかった。
娘・麻衣さんの透き通った歌声と、優しい久石さんのピアノの掛け合いに胸が熱くなる。
ここでは久石さんのトークもあり、お声が聞けたぁぁぁと、じーんと感動。
何年も世界を回っていたせいか、とっさに英語が出ちゃいそうになっていたのがちょっと面白いやらすごいやらで終始ニコニコしてしまった。
千と千尋の音楽は、いわずもがなパーフェクトです。
ホントこの映画は完成度半端ないって。。。
大大大好きな『風の通り道』には大号泣。
この曲、トトロの映画にも描かれる、ちょっとだけおそろしくて、でも温かさのある「暗がり」をすごく感じる気がするのです。
昼夜明るい蛍光灯に照らされた世界には無い、真っ暗闇を吹き抜ける夜風や、
蝉音いっぱいの大木の木陰をさわさわと揺らしていくそよ風。
夕暮れの薄暗い田んぼのあぜ道をふうっと吹き抜け、遊び疲れた気だるい背中を押していく、
泥や土の匂いと、遠いカラスの声と、近所で煮炊きする夕飯の香ばしさとが混じった空気。
そんな懐かしくて温かい「暗がり」の気配を帯びたこの曲を聴くと、現実社会で賢く生きるためにしまい込んでしまった、人間らしい感性を思い出すことができる気がするのだ。
ヒトは考える脳ばかりではなくて、血の通った身体を持ち、地に足をつけて、全身で生きている生き物の一つに過ぎないのだと、当たり前のことを思い出させてくれる。
今回のコンサートでは比較的短かかったけれど、そのわずかな旋律だけでも、じわーっと懐かしい思いが湧き上がった。
その後は、誰もが知る『さんぽ』と『となりのトトロ』で大合唱。
これまでの人生を走馬灯のように駆け抜けてきたような、お腹いっぱいな気持ちで、鳴りやまない拍手に包まれた。
- アンコール
静かに語り掛けるような『君たちはどう生きるか』のメインテーマに続き、
紅の豚の『Madness』でぐんぐんボルテージを上げ・・・
フィナーレは、もののけ姫の『アシタカとサン』。
ジブリ音楽で一番と言っていいほど大好きな曲が最後に来るとは・・・最後までしっかり泣かされました。
しかし、ピアノの音は、なぜこうも心を震わせ、涙を誘うのだろう。
命の通った「木」でできているからだろうか。
映画の中でも、おどろおどろしい戦いの後、少しずつ芽吹いていく新たな命のシーンで流れる『アシタカとサン』だが、
音楽だけで聴いても、戦争とは、平和とは何か、人間はどうあるべきか、と、深く静かに考えさせられる。
こんな美しい情景を聴いてしまったら、きっと戦争なんてしない、という気持ちになる。
AIや暗号資産やトランプ関税や地政学リスクや中東情勢や、複雑化した難しい世の中に生きる私たちだが、
案外、良く豊かに生きるということは、すごくシンプルなことなのかもしれないと。
澄んだ自由な空気の中で息をして、愛する人と一緒にいて、美しいものに心を動かされながら、生きていくこと。
それだけで、私たちはきっと幸せでいられるはずなのだ。
そんなふうに、「生きる」ことをまっすぐに問いかけてくる音楽だと思った。
***
宮﨑駿さんの描くジブリの世界観と、久石譲さんが作品に息を吹き込んだ音楽とには、
共通して、地に足をつけた人間らしい息づかいが感じられる。
スマートで完璧なだけではない、リアルで泥臭くて素朴で、でもだからこそ圧倒的に美しい、愛すべき人間らしさ。
だからこそ、老若男女に広く愛されるのではないだろうか。
『天空の城ラピュタ』は、『ガリバー旅行記』に登場する、天空に浮かぶ科学都市ラピュータがモデルと言われているが、
原作のラピュータは、形而上的な学問に没頭するあまり、実生活もままならず、都市として機能しなくなっているという痛烈な皮肉として描かれる。
賢さを極めすぎて、滅びに瀕していることに気づかない、と言ってもいいだろう。
これは、現代にも通じると思わずにはいられない。
まだまだ今はSFの域を出ないものの、惑星探査に繰り出して移住先を真面目に探したり、脳神経をデジタル化してクラウドにアップロードするなんてことを夢想している。
確かにそれはそれでロマンがあってワクワクするけれど(現に私もIT業界で働いているし宇宙やSFは大好物だ)、
人類が極度に高度化した先には、一体何があるのか。
期待と裏腹に、茫漠とした不安を孕んだ未来を前に、足がすくんでしまうこともある。
そんな今の時代にこそ、久石譲の血の通った音楽が、必要な気がする。
脳で考えるばかりではなく、感性を研ぎ澄ませて、美しさを美しさのまま味わう。
豊かな体験とは、きっと、こういうことを言うのだ。
久石さん、この時代に、音楽をありがとうございます。
本当に素晴らしいコンサートでした。
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ミロ展|子どもたちに、自由なアート体験を。
先週末は、ルドン展に続き、ミロ展へ。
ミロの絵画表現の変遷がよく分かる、良い展覧会だった。
初期には、時代を牽引した画家たちの表現技法を様々に模倣して研究し、学びながら独自の表現を追求していった様子が分かるし、
後期になればなるほど、表現はより自由に、抽象化・記号化していき、やがてデザインの領域にも緩やかに繋がっていく予感がした。
やはりこの時代の画家は面白い、と改めて思う。
何より、晩年に近づいても、新たな表現を目指して探求を怠らず、様々な挑戦をし続けていたミロのマインドには、刺激を受けた。
本当は、大好きなミロの作品について、つぶさに考察を重ねてみたいのだけど、
ミロの作品は、なんだか言語化するのが億劫で、 言葉という限られた表現に閉じ込めてしまったら、ミロの良さ・面白さが半減してしまう気がして。
どうにも筆と気が進まないので、今回は展覧会の内容については割愛しようと思う。
では、なぜブログを書こうと思い立ったかというと、
ミロ展に来ていた子どもたちの様子を見て、思うことがあったから。
実は私自身、アートに関心を持つようになったきっかけは、 子どもの頃に、地元の美術館で出会ったミロだった。
その美術館は、当時子どもも楽しめるような展覧会を工夫してくれていて、
例えば、マグリットの『ピレネーの城』の背景だけのパネルに、「岩や色々なものを貼りつけてみよう!」と、
磁石のステッカーを貼って『ピレネーの城』を完成させたり、別の『ピレネーの○○?』を創造してみたり。
子どもが絵を眺めるだけではない「参加型」のイベントだった。
これが、どれもとっても楽しかった記憶が残っていて、
中でも一番楽しかったのが、「ミロの真似をして絵を描いてみよう!」というもの。
一通り鑑賞した後、ミロの絵画で頻繁に用いられるモチーフを真似して、勝手に「ミロ風」の絵を描いてしまおうという遊びなのだ。
今回のミロ展でも解説されていたように、
ミロは、好んで「星」「女」「鳥」、格子型の柄といった記号的モチーフを多用している。
その真似をして、アスタリスクみたいな「星」をちりばめてみたり、
格子模様を描いてカラフルに塗りつぶしてみたり、
幼い子どもが描くようなデフォルメされた人物像を描いてみたり。
学校の美術の授業のように何かを模写するだけではない、純粋な「絵を描く楽しさ」と、「こんな絵もアリなんだ」というアートの自由さを、そのとき初めて実感したのではないかと思う。
その証拠に、我が家の壁には、おそらく私も欲しがったのだろう、額縁に入ったミロの小さなアートポスターが、長いこと飾られていたのを覚えている。
だから、ミロは、私の中で特別な、アート体験の原点とも言える存在なのだ。
そんな思い出を懐かしみながら行ったミロ展では、子どもたちの姿もちらほら。
ある男の子は、お母さんと手をつなぎ、感想を言い合いながら鑑賞していて、
中期のミロ作品に描かれた、単純化された人間の姿を見ながら、
「おばけみたい~」
とはしゃいでいる。
別の女の子は、じっくりと鑑賞する両親の後ろに静かにくっついて、
スケッチブックほどの大きさの、書いたり消したりできるお絵描きボードを首からぶらさげ、
まさに私が子どもの頃に体験したように、ミロのモチーフを描き写したりしながら、黙々と落書きに勤しんでいる。
なんてすてきな鑑賞体験をしているのかしら…!
と、心の中で思わず叫んだ。
この子たちのように、芸術鑑賞は、本来自由で楽しいものであっていいのだ。
歴史的背景とか、フォーヴィズムだのキュビズムだのといった難しい美術用語を知らなくっても、
誰かが描き残した道端の落書きを面白がるように、笑いながら、遊びながら、鑑賞したっていいじゃないか。
作品を見て、自由に思いを巡らす原体験こそが、アートの営みそのものであり、豊かな感性を育むのだから。
私にとってミロがアートの入り口だったのと同じように、
どんな出会いが、子どもたちのアートの扉を開くか分からない。
だから、美術館がもっともっと、子どもを連れて気軽に遊びにいけるような場所になりますように!
と、私は願ってやまない。
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オディロン・ルドン―光の夢、影の輝き|研究者のまなざし
今週末で会期終了間近のルドン展に、滑り込みで行ってきた。
ちなみに、行きがけの電車で予約チケットを買おうとしたら、まさかの週末まで完売、
ダメ元で飛び込み受付したところ、整理券を頂けてなんとか無事に入館できました・・・(よかった・・・)
ルドンを初めてちゃんと知ったのは、2018年の三菱一号館美術館で開催された「ルドン:秘密の花園」展だった。
そのときに、学生時代に美術の教科書で見て強烈に印象に残っていた、一つ目の巨人『キュクロプス』を描いた画家が、ルドンだと知った。
ファンタジックで、少し不気味で、でも神話的で、寓話的でもあって。
一言で魅力を言い表すのが難しい、魅惑的なルドンの世界に、今回の展覧会でよりいっそうハマってしまった。
個人的にルドンで好きなのはモノクロの作品なのだが、展覧会の絵も、この「闇」や「黒」が大半を占める。
例えば、冒頭に展示されている『光』という作品はとても示唆的で、暗い室内と、大きな窓から差し込む光の対比が目を引く。
ちょうど室内から巨人を眺めるような構図で、光の中に大きな人間の横顔が描かれていて、その横顔は思案にふけっているようにも、何かを憂えているようにも、慈悲深い神さまのようにも見える。
あるいは、『守護天使』という作品は、儚げなモノクロ色調の中に、天使が人間に寄り添う美しい構図が描かれる。それは幸福なようにも、また同時に悲愴に満ちているようにも感じられる。
(ちなみに、人間の横顔はその他の作品でも多く見られる表現だった。「横顔」というものは、見る者を意識しない内省の表情を備えているせいか、どの作品の横顔にも不思議と神々しさが漂い、より多くを語る気がして魅入ってしまう)

これらモノクロの作品群を眺めていると、私の心には、しんと静けさが染み渡った。
誰もいない、気が遠くなるほど広大な石の回廊の中に、一人佇んでいるような。
静謐さと、神秘と、孤独と、幸福と恐怖と悲哀とがない交ぜになったような。
そんなひっそりとした静けさを感じるのだ。
また、『夢のなかで』シリーズや『起源』シリーズにも見られるように、
植物学と神話をかけあわせたような幻想的な表現も、非常にユニークで、強烈な印象を残す作品群だろう。
一見シュルレアリスムのようでもあるが、少し違う。
言葉でどうしても的確に言い表せないのがもどかしいのだが、
謎をかきたてる「違和感」と「静けさ」を巧みに操る独特の表現は、デ・キリコや、エドワード・ゴーリーにも共通する魅力があるように思う。
こういった類の作品は、言葉で説明しようとするよりも、ただじっと眺めて、頭の中で思考を巡らせて楽しむほうが、より深く鑑賞できるのかもしれない。
名前のついていない「何か」を感じ取る感性を、開かれるような心地がした。
そして、ルドンの代表的作品といえば、やはり「眼」と「顔のついた植物」だろう。
私は見ていないのだが、聞くところによると、アニメ「惡の華」でもルドンの目玉のモチーフが用いられたようで、
ルドンの「眼」にまつわる作品は、見る者の想像をかきたてる魅惑的なものばかりだ。

今回のルドン展で展示されていたこちらの作品では、
よく見ると、気球に扮した巨大な目玉は、かごに頭を乗せて上昇しようとしている。
視線はぐんと上を向き、一方で頭は無感情で虚ろな表情で控えめに座っている。
様々な解釈ができそうな面白い作品だが、私には、人間の探求心の化身のようにも感じられた。
時にモラルを逸脱してまで高みを目指そうとする底の無い探求心の不気味さと恐ろしさ、それでいて、純粋で無邪気な好奇心を原動力とする、人間の奇妙な性が、コミカルに表されているようにも感じた。
もう一つ、「顔のついた植物」のモチーフも、非常に含蓄のある作品が多い。
特に印象的だったのは『沼の花』だ。
モノクロで暗い沼の風景の真ん中に、大きな人間の顔をした黒い花がうなだれるように咲いている。表情は暗く物思いに沈んだよう。背景には、白い鳥が遠くで飛び回っている。
この作品にも静けさが満ちているが、ここでの静けさは、少し神秘的な静謐さとは違って、どろどろと暗い印象を受ける。
沼というタイトルから連想すると、私には、沼という、神々しさ・純粋さ・美しさとは対極にある暗い場所に生まれてしまった、植物の運命の憂いのように見えた。
暗い沼で動けない植物の運命とは対照的に、背後では、白い鳥たちが自由に飛び回っている。
もし花に顔があったなら、なるほどこの作品のような、虚しさや悲しさ、諦念の入り混じった複雑な表情を浮かべるかもしれない。
終盤にかけて展示されている晩年の作品群は、うってかわって、淡い色彩に満ちた美しい作品ばかりだった。

「闇」をテーマにした時代が、精神的な思考に没頭するような、緻密な幻想世界だったとするなら、
晩年の「光」の時代は、夢を見ている時に近い、もっと感覚的で、曖昧さを受容する大らかさをもった、自由な幻想世界といったところだろうか。
満ち足りた幸福な夢から目覚めたような不思議な気持ちで、展覧会の出口を出ることになった。
まとまりのない感想になってしまったが、
展覧会を通じて、ルドンの作品について、共通する何かを語るのは難しい。
各時代の表現、ひとつひとつの作品が、どれも示唆に富んでいて、それぞれが独自の思想を無言で語るようなものばかりだ。
それは、絵画表現への探求を重ねるアーティストというよりはむしろ、論文を書く研究者のようにも感じられる。
植物学者や文学者と親しかったというのも理由の一つなのだろうが、その少しアカデミックな気配のするルドンの眼差しは、ルノワールやドラクロワ、ピカソといったいわゆる美の巨匠たちとは、一味違う面白さがある。
研究成果物を一つ一つ丁寧に読んでみたいと思わせる、知的な刺激を私たちに提供してくれるルドン。
私はもう完全に彼のファンになってしまった。
番外編。「蜘蛛」が、絶妙にコミカルでかわいかった。。

***
余談ですが、鑑賞しながら「これは画集絶対買う!」と決めたのに、画集も完売・・・
行きたい展覧会は会期開始すぐに行かねばと反省したのでした。涙
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マシン・ラブ:ビデオゲーム、AIと現代アート|未来の「美」を考える
今週末は、気になっていた森美術館の企画展へ。
まがりなりにもIT業界で働くアート好きとしては、なかなかモチベーションの上がる興味深い内容だった。
今回は展示内容とは直接関係ないのだが、
デジタル時代のアートについて考えていたら、
「美」とは何か?
という根源的なテーマにぶつかったので、
展示を見ながら考えたとりとめのない思考をメモしておこうと思う。
映像作品が多いので、椅子に座って、没入感のある作品をじっくりと眺めていたとき。
サイケデリックで現実離れした、人工的な風景を前に、心がざわざわするのを感じた。
自然の造形や感性だけではなく、徹底的にエンジニアリングな方法で築き上げられた、人工的な海、荒野、砂丘、町並み。
そして、そこに置かれる人工的なモノや人、キャラクターたち。
彼らのどこか不自然な計算ずくの動きに多少の気持ち悪さを感じながらも、デジタル世界の風景に、確かに私は何かしらの「美」を感じた気がするのだ。
思えば、なぜ人間は、人工物にも「美」を感じ取ることができるのだろう。
生物学的には、人間の脳は何万年も前から大して変わっていないと言うが、
ヒトという生物の脳が知覚してきた動植物や自然環境には決して存在しなかったはずの、ビル群の夜景や宇宙や仮想空間にでも、私たちは確かに「美しい」と感じることができる。
でも、よくよく心の動きを観察してみると、その働きは少しずつ違っているようにも思えるのだ。
例えば、花や空に美しさを感じるとき、それはどちらかというと、誰しもがおいしいと感じる食べ物を味わうように、満たされ、至福に浸るような「美」の感覚だ。
一方で、夜景や近代的な建造物に美しさを感じるとき、それは味わうというよりも「構造美」に感嘆している感覚に近い。
語弊を恐れずに言えば、全体のコンビネーションを観察して評価する行為、とも言えるかもしれない。
では、デジタルアートは?
それは、ただ味わうのでも、構造を観察するのでもない、
「違和感」に対峙した時の、もっと不穏で得体の知れない心の揺れではないだろうか。
現実にはあり得ないはずの世界を目の当たりにして、脳が活性化する。心がざわつく。
SFで「未知との遭遇」という言葉がよく使われるが、まさにその体験に近いのかもしれない。
「思考」を強いる「美」。
それが新時代のアートなのだろうか。
だとすれば、それは果たして「美しい」という言葉が適しているのかどうか。
最近、芸術や美術を「アート」と呼ぶことが増えたように感じるのも、「美」というものが時代と共に変容し、境界線がゆらいできていることの証なのかもしれない。
かつて、ピカソがキュビズムで美術界に風穴を開け、デュシャンがレディメイドの作品で芸術の在り方を根本から問い直したように、
「美とは何か」は常にアップグレードしていくのだ。
高度にデザインされたモダンな近未来アニメの町並みに夢見たり、
サイコホラー映画のビビットな配色に背筋を凍らせたり、
ファンタジックなゲームの世界をワクワクしながら進むように、
私たちは時代を移り変わりながら、どんな「美」に遭遇し、創造し、求めていくのだろう。
そして芸術家たちは、どんな「美」で世界をゆさぶっていくのだろう。
いつか仮想現実や拡張現実の世界にシームレスにアクセスする日常が到来したとき、
違和感という"バグ"を意図的に仕込む、バンクシーのようなデジタルストリートアーティストなんかも現れたりするのかもしれない。
未来のアートが楽しみだ。
* * *
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ル・コルビュジエ―諸芸術の綜合|「詩的環境」への試みと自然へのまなざし
ル・コルビュジエといえば、言わずと知れた建築の巨匠。
日頃、目にとまった建築系の雑誌を買っては、オシャレな建築をただ眺めて満足する程度の私でも、その名を知っている著名な建築家だ。
でも、今パナソニック汐留美術館で開催されている展覧会のポスターを見て、
「え、ル・コルビュジエってこんな絵描くの?」
と純粋に驚いた。

たしかに、ル・コルビュジエが描いた抽象画を、アートブックの表紙だかなにかで見たことがあるような気もするが、建築デザインの延長で描いたりしたのだろう、というくらいにしか捉えていなかった。
が、ポスターに描かれた作品「マッチ箱と二人の少女」は、明らかにデザインだけでは片付けられない何かがありそうだ。
そのれっきとした「絵画作品」としての強烈な印象につられて、きちんと彼の絵画を見てみたいと思った。
さて、建築家が描く絵画とはいかなるものか?
まず知ったのは、後年のル・コルビュジエは、幾何学的構造から有機的な自然物の構造へと、関心が移り変わっていたということ。
貝殻の造形に通じる絵画や建築のデザインからは、自然物が織り成す「構造美」へのまなざしが感じられる。
巻き貝の螺旋や、風雨や波に晒され生み出された石の絶妙な曲線。
それらにインスピレーションを得ていたことがよくわかる。
そして、その自然の構造美へのまなざしからゆるやかに繋がるのが、この展覧会のテーマでもある「諸芸術の綜合」としての表現だ。
絵画、素描、彫刻、タペストリー、建築、都市計画はすべて、彼にとって「一つの同じ事柄をさまざまな形で創造的に表現したもの」であり、人の全感覚を満たす詩的環境を創り出すために、互いに関わりながら集結するものでした。
(HP解説より引用)
この「詩的」という表現は、解説の各所に登場する。
捉え方が少し難しい言葉だが、私は「感性でものごとをとらえる感覚」に近いのではないかと思った。
例えば、海の絵を見てただ「これは海だ」と説明的・事実的にとらえるだけではなく、きらきらと光る水面の動きを想起したり、波音を聴いたり、潮風を匂いを嗅いで、「この海の絵を見ていると平和への祈りを感じる」などと自分なりの意味付けをする。
そんな作品との対話を通じて行われる感性の営みを「詩的」と呼ぶならば、
ル・コルビュジエが目指したのは、建築そのものだけで存在する作品ではなく、
その場に存在しうるすべての芸術作品が相互に関係しあって構築される、大きな「環境全体としての芸術表現」だったのかもしれない。
ちなみにもう一つ、作品を見ながら思ったことがある。
ピカソやカンディンスキーなどの抽象画に似ていながらも、どこか非なる印象を感じた点だ。
それは、非常に緻密で几帳面な「構造」を感じたこと。
同時代の画家たちが、表現力のスイッチを「感性」の目盛りに最大限に振り切って描いていたとすれば(特に岡本太郎なんかはそうかもしれない)、ル・コルビュジエの絵画は、どこか理性的で冷静な面があるように思えてならないのだ。
単に、彼の出自が建築家であるという先入観からくるものかもしれないが、
まるで子供が積み木を使って城を建てるように、絵画的モチーフを使って、注意深くキャンバスに作品を建設していくような几帳面さを感じずにはいられない。
そもそも、芸術表現とは根本的に、感性と理性を行き来しながら行われる営みともいえる。
とある抽象的な概念を絵にしようにも、ある程度の技術的な表現技法は必要だからだ。
しかし、建築ともなると、
それは巨大な、しかも物理法則に縛られた、制約の多い世界の中に創出しなければならない作品であり、理性・論理を避けては通れない。
否応なく、理性と感性の目盛りを激しく行き来することを強いる芸術なのだ。
だとすれば、ル・コルビュジエが目指した「諸芸術の綜合」は、非常に高度な試みだ。
圧倒的に環境制約を伴う建築と、物理的制約の少ない絵画。その間に位置するタペストリーや彫刻。そして環境と密接に繋がる音。
それらを一連の巨大な「詩的環境」としての作品に仕立て上げようとする試みが、いかに壮大で野心的であったかがよく分かる。
後年、ル・コルビュジエの視線は、有機的な自然物の構造美へと移り変わっていた。
そのことは、彼が築き上げようと試みた「詩的環境」にゆるやかにつながっているように見える。
自然の構造美は、例えば石や貝そのものだけでは生み出されない。
風雨の流れや、波の強さ、天敵の存在、生存戦略など、多くの要素が作用しあった結果として、生み出されていくものだ。
ル・コルビュジエは、その気の遠くなるほど複雑で美しい構造をなぞるように、「諸芸術の綜合」を目指したのではないか。
そのまなざしは、建築の領域を超えて滲み出す、構造美へのまっすぐな探求心のように感じられてならない。
工業化の時代、情報化の時代を経て、いま私たちはようやく環境に視線を戻し、サステナブルな生き方を模索し始めている。
私たちの世界は、実は人間の世界だけでは完結しえず、自然環境と密接に相互作業しあって存在しているもの。
今の時代にこそ、ル・コルビュジエの包括的な広いまなざしが、必要なのかもしれない。
<おまけ>
展示の中で特に面白かったのが、「小さな世界」シリーズ。
カンディンスキーの絵画作品と、それに対応する建築の写真とのペアリングがされているという、ユニークな展示方法だ。
解説の言葉にあるように、まさに”視覚的なハーモニー”を楽しめる。
* * *
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