Art Inspirations

素人作家のメモ箱

アートと活字を愛するアマチュア作家が運営するブログ。

ジャンルを超えて、広義の「アート」から得た様々なインスピレーションやアイデアを文章で表現していきます。
絵画、彫刻、インスタレーション、音楽、ダンス、デザイン、ファッション、建築などなど。





WIREDカンファレンスと「私たちのエコロジー」展|AI時代の"アートとは何か"を考える

 

随分前のことになるが、昨年12月、雑誌「WIRED」が主催するカンファレンスに参加した。

wired.jp

終日イベントのうち午後は「Sci-Fiプロトタイピング」ワークショップの方に参加していたので、その間聞き逃したトークセッションを、今更ながら少しずつアーカイブ配信で追っている。

中でも、梶谷健人氏のトークセッションが非常に興味深く、色々と考えさせられた。

「生成AI”再”入門」と題したトークセッションで、氏は様々な事例を紹介しながら、AIの本質的価値は何か、それを受けて人間とAIの関係性は、人間はどうなっていくか、といった問いを立て、様々なアイデアを提示していた。

その中でやはり印象的だったのが、「AIとクリエイティブ」の議論。

生成AIの登場によって、「創造」はもはや人間の専売特許ではなくなった

國分功一郎氏×森健氏の「AI+Humanity」のセッションでも議論になっていたが、AIによって「アイデアの生産性」が向上し、「創造」の効率化が実現する時代が来たのだ。

 

これは「アートとは何か」を再定義する必要に迫られている、ということだと思う。

 

既に数々のアートの第一人者が議論しているテーマだとは思うが、

WIREDのトークセッションを見た翌日に美術展に足を運んでみたら、それを実感として強く感じたのだ。

 

行ったのは、現代アートを得意とする森美術館の「私たちのエコロジー:地球という惑星を生きるために」である。

www.mori.art.museum

 

 

生成AIは、「創造」という行為に関しては、すでに人間よりも卓越している。

固定観念に縛られた人間にはなかなか生み出せないようなアイデアの組み合わせを、しかも高速に、大量生産できる。

「表現」という行為を、仮にアイデアのヴィジュアライズととらえるなら、これもたぶんAIの方が長けていくだろう。

こんな感じの雰囲気の画像・映像を作って、と指示するだけで、人間よりもはるかに速く精度の高いものを生み出せるのだから。

 

では、人間にしかできないことはあるのか。

私は「私たちのエコロジー」展で、ある、と確信した。

展示されていたアート作品の数々を見て・体験して、これは人間にしかできない、と感じたのだ。

 

例えば、ニナ・カネルの貝殻を用いた作品は、「オホーツク海の海生軟体動物の殻」をびっしりと敷き詰めた上を、実際に自分の足で歩いていくインスタレーション

普段はあまり意識しない「生き物の殻」を、誰かが砕いたものをさらに砕きながら、自分の足が踏みにじっていくことで、嫌でも「命だったものの残骸を踏んでいる」という気持ちにさせられる。

ビデオインスタレーションも示唆的だ。

蛍光灯に照らされた寝室を無数の羽虫やトカゲが這いまわる、アピチャッポン・ウィーラセタクンの「ナイト・コロニー」や、

人工建造物が海に沈んだ様子を映し出す、エミリヤ・シュカルアヌリーテの「時の矢」では、

人間という生き物や、その生態の中で生み出される人工物や「コロニー」でさえ、羽虫の飛ぶリズムや、海がかすかに波打つ惑星の呼吸と、何ら変わらないことに気づかされる。(この視点で見ると、AIでさえ人間の生態が作り出した奇妙なものに映る。例えば、イワシの大群が作り出す巨大魚の影のように)

 

いずれの作品も、気づけば私は、アート作品自体を体験しているようでいて、実はアートを媒介して自分の五感や感性を見つめている

世界をとらえる自分の枠組みを再構築しようと、脳が働いている。

つまり、「エコロジーについて考える」というアート作品を介した行為自体は、人間の内面に展開されていくものであり、AIには介入できない領域だと感じたのだ。

 

この内なる行為を「アート」と呼ぶなら、AIは、これからの人間は、何ができるだろうか?

 

メッセージを包含した「理性では説明しきれない何か」を提示すること。

「なんだかよくわからないもの」を見て、意味を持たせること、解釈をすること、自分の中に答えらしきものを探すこと。

 

これが人間が行う「アート」であり、「創造」「クリエイティブ」「デザイン」「アイデア」といった表現行為をさらに昇華させた領域ではないか。

 

作り手としても、鑑賞者としても、このプロセスの中でAIが請け負うことができるのは、せいぜい補助的な役割でしかない。手を動かすことはAIができても、それに意味付けをするのは人間にしかできないはずだ。

 

私も趣味で小説を書く際に、何かいいアイデアはないかと、舞台設定やキャラクター設定などの基本情報を与えて、Chat-GPTにストーリーのアイデアを求めたことがあるが、どれもどこかで見聞きしたことのあるような、ハリウッド映画のようにハズレのない面白さをそなえた、しかし既視感のあるお手本のような物語しか提示されなかった。

ネット上に既に存在している情報から生み出すのだから、当然といえば当然だろう。

時に突飛なアイデアを提示することはあっても、そこに作者が伝えたい「メッセージ」「伝えたさ」はない。

 

 

AIが無感情に作り出した偶発的な表現を使って、人間が「アート」する。

 

そんな未来が、近いうちに訪れるのかもしれない。

それはそれで、私は楽しそうに思うのだ。

だって、「アート」することが人間の美しさなのだから。

創造スキルの壁から解放され、その美しい活動に専念できる時代というのも、私は悪くないように思う。

 

 

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キュビズム展 美の革命|境界線をゆるがす思想・哲学

 

大人になって哲学を勉強しなおしたいと思うようになり、最近、手始めに現代思想入門という本を読んでいる。

 

まだ途中だが、今のところ興味深いと思ったのが、ドゥルーズだ。

 

一部を引用すると、

P65「同一的だと思われているものは、永遠不変にひとつに固まっているのではなく、諸関係のなかで一時的にそのかたちをとっている、という捉え方」

(これを筆者は「仮固定」と呼んでいる)

 

P66「あらゆる事物は、異なる状態に「なる(becoming)」途中である。事物は多方向の差異「化」のプロセスそのものとして存在しているのです。事物は時間的であり、だから変化していくのであり、(中略)プロセスはつねに途中であって、決定的な始まりも終わりもありません」

 

「仮固定」という世界認識の手法は、世界の見え方がまるで変わって見えて面白いし、ある意味、宇宙的視点とも言えそうだ。仏教思想にも通ずるものがあり、興味深い。

そんなドゥルーズの章を読み終えて間もないタイミングで、上野の国立西洋美術館に足を運んだ。

待ちに待った(個人的に)今年の目玉、キュビズムだ。

cubisme.exhn.jp

 

 

ドゥルーズの哲学が頭にあったせいか、

キュビズム展を見ていて、これって哲学だ!とハッとした。

 

ピカソ「裸婦」を見ていたときだ。

山と女を一緒くたにしてしまい、鉱物のような絵画に再構築してしまったこの絵は、見ていると、境界線が曖昧になり、すべてがカケラのように寄り集まってできた不確定なものに見えてくる。

そういえば、そもそも、私たちが「山」とか「人間」を別のものとして当たり前にとらえているこの境界線は、果たして本当に確かなものだろうか?

 

ドゥルーズの哲学は、「存在の脱構築

「一見バラバラに存在しているものでも実は背後では見えない糸によって絡み合っている――という世界観」を、哲学的に提示したのがドゥルーズだと、筆者は言う。

つまり、ピカソの「裸婦」をその考え方に基づいて解釈しようとすると、

山と女は仮固定のものであり、それらは相互に関係しているかもしれないもの。

ということになる。

 

確かに、山の景色を見ていて自分自身も洗われるような心地がしたり、山の空気を吸えば、自分まで植物のように光合成をして生き返るような心地がしたりするし、

分子レベルまで分解すれば、たまたま今私の小指の爪になっている分子が、実ははるか昔には山の土だったかもしれないわけだ。(科学的にどうかは知らないので詳しい方ご教授ください…)

 

私たちが当たり前にとらえているこの現実は、果たして本当に固定的なものか?

この問いは、なかなかに面白い思考実験だし、ゆらぎや不確かさを許容する心理状態は、ある意味では世界に優しい。

精神的にも、物事に強く固執することがなくなり、健全な気がする。

 

 

 

もう1つ、キュビズム展で印象的だったのが、エレーヌ・エッティンゲンの「無題」。

不思議と吸い寄せられる絵画で、

夢を現実にひきずりだしたみたいだ、と感じた。

夢を見ているときの人物の捉え方(あるいは記憶かもしれないが)に近い気がしたのだ。

夢を見ているとき、視覚で「見て」いるようでありながら、何か視覚だけではない、より原始的な知覚でとらえているような感覚はないだろうか。

輪郭は頼りなく曖昧で、不確かで、固定的な定義を失った剥き出しの生身のようなあやうさ。自分になったり別の人間になったり、視点がめまぐるしく変わったりして、変わり得るという不安さが付きまとう。

そんな夢を見ているときの漠然とした不安に近いと感じたのだ。

 

 

そこでなぜか連想して思い出したのが、今年のハロウィーンに、バーガーキングが出した「不気味なCM」のことだった。

AIが生成した映像だそうだが、これがもう見ていると気分が悪くなる気持ち悪さ。

人間の口が不自然に開いてモンスターのようにバーガーを取り込み、バーガーと同化していったり…

www.youtube.com

 

この動画を見て感じた不気味さ、気持ち悪さ、不穏さは、夢を見ているときのそれとすごく似ていると思った。

自分という存在が固定されていない、生身の「本質」が剥き出しになって、外部と溶け合ってしまいそうな「存在のゆらぎ」のグロテスクさ。

 

 

 

とりとめもなくそんな連想を次々と膨らませながら、

展示を見終わったあと、キュビズムの意義について改めて考えた。

 

共通して言えるのは、キュビズムが「美の革命」であった理由は、

それまで当たり前だった絵画の常識を覆しただけでなく、

人間の思想・哲学もゆるがすような、ショッキングなものだっただろうということだ。

キュビズムの画家たちは、

それまで人間の視覚が確固たるものとしてとらえていたはずの事物の「輪郭」を疑い、一面のみが見えている物質の外見を疑って、

三次元の多重的な現実を、二次元のキャンバスの上に再構築しようとした。

写実絵画のように「私たちにはこう見えている」という一面を写し取ることで零れ落ちていくものを見つめ直し、もっと存在そのものを包括的に捉えようとして、

「私たちが見ているものは本当はこのようなものではないか」

ということを示して見せたキュビズム

 

この「美の革命」はおそらく、人間の世界認識をゆるがし、世界の境界線をゆるがす「哲学の革命」とも呼応するものだったのではないだろうか。

 

「哲学×絵画」なんてアプローチで歴史を紐解いてみても面白いかもしれない。

 

 

(・・・と、知ったような顔で書きましたが、まだ入門の本を読み始めただけの知識の浅い人間なので、もしドゥルーズの哲学の理解に不足・勘違いがあればぜひご指摘・ご教示お願いしますっ!)

 

 

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ワールド・クラスルーム―現代アートの国語・算数・理科・社会|大人にアートが必要な理由

私が好きな美術館トップ3の中に入る美術館のひとつが、森美術館

常設展示を持たず、企画展に特化した美術館としてはさすがというべきか、毎回企画展がものすごく面白い!

特に、現代アートや建築に強い印象があって、私の好みドンピシャの美術館なのだ。

www.mori.art.museum

 

ということで、今回は、

会期中の企画展「ワールド・クラスルーム―現代アートの国語・算数・理科・社会」と、

同ビルの東京シティビューで開催されている「ヘザウィック・スタジオ展―共感する建築」にハシゴしてきた。

www.mori.art.museum

www.mori.art.museum

 

・・・とはいえ、正直なところ、ピカソなどのいわゆる巨匠たちの作品展とは違って、森美術館現代アート展はいつも感想を書くのが難しい。

メモはとったし写真も撮ったけれど、作品を目の当たりしながら感じ、考えるというプロセスを経なければ、特に伝わりにくいのが現代アートだ。

 

なので、今回は簡単に、面白いと感じた作品とメモだけ記録しておこうと思う。

 

***

 

■スーザン・ヒラー「ロスト・アンド・ファウンド

絶滅した、あるいはしかけている希少な言語を話す声だけが流れ続け、その声の周波数を表す線図だけが揺れ動く動画。

もし言語がありながら、誰もそれを理解できなかったら?

それはただの音でしかなくなり、意味を付帯しない記号としての言語が表出してくる。

とともに、音に意味付けすることの不思議さを味わい、記号と音楽と言語の境界線が曖昧になっていく感覚が面白い。

 

畠山直哉陸前高田」シリーズ

被災地のしんとした静謐な海を前に、一人たたずむ男性は、何を思うのか。

復興の過程を思わせる黄色いクレーン車の群れと、その手前に咲き誇る黄色の野花。

地に根差す様々な生の在り方を考えさせられる。

 

■アラヤー・ラートチャムルンスック「授業」

声なき死体に向かって、死についての講義を垂れ続ける動画。

私は解説とはちょっと違った印象を持ったので、感じ方の違いが興味深い作品かも。

死者に死とはなにかを語り掛ける行為を、故人への寄り添いや関係構築ととるか、あるいは空虚な無意味さを感じるか。

死というものは必ず存在する確かなものなのに、その解釈は実に多様で不確定かなのが、人間の面白いところ。

 

李禹煥(リ・ウファン)「関係項」「対話」

ガラス板の上にぽつんと置かれた岩。河原や山にあれば何とも思わないかもしれない、何の変哲もない岩が、ガラスの上に孤立して置かれることで、モノとしての存在を強烈に放ってくる。人工の無機質なガラスと、土気や微生物、自然の気の遠くなるような歴史を身にまとった岩とが、圧倒的な対比をもって存在する。

さらにその向こうにある「対話」という絵画との対比も面白い。

モノとしてはカンバスに色素を塗ったものでしかない絵画と、無言で存在を主張する岩。

言語化できない不思議な感覚にとらわれてしばらく抜け出せなかった。

 

■宮島達男「Innumerable Life/Buddha CCIƆƆ-01」

個人的にファンなので言わずもがな。この人の作品は、やっぱり「世界」そのものなんだよなぁ。語り始めるときりがないのでこちらを参考に。

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奈良美智「Miss Moonlight」

今回はこれが一番刺さった。

この表情を見ていると、心が丸裸にされるようで。

描かれた子供は、世界にじっと耳を澄ませているようにも見えるし、その心は現にあらず、夢を見ているようにも見える。

多彩に入り乱れる髪のほのかな色の粒を眺めていると、夢見る人の、「心」という謎に満ちた神秘的な美しさに思いは馳せていく。

今まで大人になって、世界をただ受け止めて目を閉じる、そんなひとときがただ一瞬でもあっただろうか?よく五感を澄ませると、世界はとても豊かなのに。

この絵を前にしばらく佇んでいたら、そんなことを思い、なぜだかじんと、子供のころの美しかった世界の感覚が思いおこされて、温かいような、少し寂しいような、静謐な気持ちになった。

なんの関係もないけれど、世界は美しいなあと、ふと思った。

そんな祈りのような美しい作品だった。

 

杉本博司「観念の形」

数学の理論を形状化したさまざまな数理模型。

数学という形而上的な概念の極みのようなものが、具現化されて目の前に並ぶと、ものすごく不思議な心地。

数学も、実は唯物論的なところからきているのかしら?人間の脳が考え出す理論は、しょせんは自然原理の域を出ない、造形できるものなのかしら?形を説明するための理論にすぎないのかしら?理論から新たな造形が生まれることがあるのかしら?

こういう宇宙的・哲学的な思考実験はゾクゾクしてたのしい。

 

■瀬戸桃子「プラネットΣ」

マクロな宇宙とミクロな生物世界が重なることで、生命の神秘が強調される。

命とは、生きものが持つ身体とは、その造形とは、死とは?

個人的には、菌類好きなので、微小な菌類が菌糸をしゅわしゅわしゅわと枝分かれさせて伸ばしていく映像がツボでした(笑)

生命体って、ふしぎ。

 

***

 

今回はメモの羅列になってしまったけれど、この企画展を見終えたあとに感じたのは、世界認識がぐらぐらする感覚。

この感覚を、忘れてはいけない、といつも思う。

 

アートの最大の強みは、非言語のままでいられるということだ。

現代アートは、現代に浮遊している言語化されないままの粗雑な世界をぶつけてくる。

それはなんと呼んでいいかわからないけれど、私たちがいま生きているこの時代、この世界に、たしかにあるような気がする何か。感情かもしれないし、群衆社会が織り成すとらえどころのない文化かもしれないし、哲学かもしれない。名前のつかない何か。

それを感じ取るアンテナを、ときどきチューニングするのに必要なのが美術館、だと思っている。

 

大人になった私たちは、いつしか、言語化され、説明がつけられ、意味付けされたものだけを世界として受け取るようになった。

本当は不確かなのに、世界は確かなものだと思って生活している。

子供の頃に見えていた世界は、もっと不確かで予想不能で、説明できないぐにゃぐにゃきらきらざわざわしたもので満ちていたはずなのに。

その「間(あわい)」を、そのまま受け取ることを面倒がって、無いものとしてしまう。

本当はその「間(あわい)」こそに、世界の美しさがあるはずなのに。

 

曖昧なもの、間にあるもの、説明できないもの、ただそこにぼんやりと在るようなないようなものを、そのまま直接受けとれる感性の器を、アートは養ってくれる気がする。

 

大人にこそ、アートは必要なのだ。

 

 

***

同時開催中のヘザウィック・スタジオ展も、遊び心のある有機的な建築が印象的でした。

感情や生命など、人間という生き物的な要素を排除した無機的な建築よりも、こういう息をするような建築が好みだなあ。

人が生きものらしく、創造的に、感情的になれる空間が設計されれば、その器である建築も、生きている、と言える気がします。

建築も奥が深い。

 

***

 

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ピカソ 青の時代を超えて|人生と作品について思うこと

 

これまでの長い美術史のなかで、誰が一番好きかと問われたら、迷わず「ピカソ」と答える。

そのくらい、実はピカソファンなわたくし。

ポーラ美術館の開館20周年記念展『ピカソ 青の時代を超えて』展に行ってきた。

 

 

目次

 

ポーラ美術館開館20周年記念展:ピカソ 青の時代を超えて

www.polamuseum.or.jp

 

全体的に、「青の時代」の作品が中心かと想像していたが、それだけではない。まさに青の時代を超えて晩年まで、ピカソの生涯を通した作品の変遷が、非常によくまとめられていた。

キュビズムってよくわからない、むずかしい」と感じてしまうピカソ初心者にも、楽しめる構成だ。

 

ピカソといえば、生涯の中で最も作風が変わった画家の一人。

キュビズムの色鮮やかなイメージが強いが、写実的なものから静かな色調のもの、古典的な描写、シュルレアリスム的な試みまで、本当に多岐にわたる作品を生み出している。

 

この展覧会では、その多彩な作品群を、ピカソの人生をなぞるように体験することができる。

ということで、展覧会と同じ構成で、個人的な感想を書いていこうと思う。

 

 

青の時代

若い頃のピカソ

その名の通り、全体を青い色調が覆う、暗い作品が多い時代だ。

ピカソは、天才的で大胆不敵、エネルギッシュでパワフルな人物という印象があるが、妹を幼くして亡くし、友人の自殺を経験し、若くして死を間近に知ったという悲しい過去もある。

そんなやるせなさや不条理と向き合おうとしたのか、若い時代の作品は、悲愴感が漂い、静かに訴えかけるような人物像が多く描かれる。

 

しかし、青の時代の作品にあるのは、ただ沈鬱な「悲愴」だけではないようにも思う。

そこには、祈りのような静謐さ神秘性人間に対する敬愛の念も感じられる気がするのだ。

 

本展覧会の目玉である「海辺の母子像」は、まさにそんな空気を纏った作品だろう。

海辺の母子像(1902年)

 

幼い子を抱えて、祈るように海辺に立つ、痩せた女の姿。

刑務所内の収容者をモデルにしたそうだが、悲しみや苦痛といったネガティブな印象は、不思議とあまり感じられない。

目を閉じて祈る母の表情はおだやかで、彼女の足元に寄せる波は、とても静かに見える。朝凪のようにしんとした静謐な波音が聞こえてくるようだ。

母の美しい表情をじっと見つめていると、冷たい海のように見えた背景は、じんわりと温かみを帯びてくる。

中でも、母の手に包まれた小さな赤い花は、本当に美しい。

それはまるで、貧困の中にあっても、授けられた子の命を受けて鮮やかに輝く希望のよう。

 

「肘をつく女」という作品にも目を奪われた。

ベールで頭を覆った女性が物思いに沈む様子が描かれている作品で、その目の深さに釘付けになった。

どこを見るともなく、何か遠いものを見ているような目。貧困の中で、明日をどう生きていくか思い悩んでいるのか、とうに諦めきった気持ちなのか。

見れば見るほど、人の持つ複雑な感情や「思い」の奥行きをとらえて表現するピカソの力は、圧倒的としか言いようがない。

 

 

ちなみに青の時代は、一説には、青の絵具が安かったから、とも言われているらしい。

真偽のほどは不明だが、この時代、ピカソが売れない画家だったのは事実のようだ。

 

キャンバスを買うこともままならなかったピカソは、過去に描いたキャンバスの上に、新しい絵を塗り重ねた。

この展覧会のもう一つの面白さは、そんな絵画の裏に「隠された」幾重もの作品が、最新の研究によって明かされる様子を見られることだ。

★詳しくは展覧会特設ページへ

ピカソ 青の時代を超えて | 展覧会 | ポーラ美術館

 

「海辺の母子像」の後ろにも、実は全く違う絵が描かれており、見ることのできない過去の絵画に想像をかきたてられる。

天才画家として超有名になった今では、なんとも惜しいことだが・・・

若く苦しい時代に、せっかく描いた絵を塗りつぶしてでも描き続けた、ピカソの情熱と努力が、彼を天才画家にしたと思えば感慨深い。

 

 

バラ色の時代、キュビズム

この時代は、言わずと知れた、まさに「ピカソ!!!」な作品が並ぶ。

 

中でも解説で興味深いと思ったのが、カタルーニャの山村オルタを訪れたというエピソードだ。

曰く、その地にある山と一体化するような、鉱物的な表現が見て取れるということで、なるほどそういう視点で見れば、鉱物をかち割った結晶のようにも見える。

 

「アヴィニヨンの女たち」で世界を驚かせたキュビズムの表現は、アフリカの彫刻に強い影響を受けているそうだが、

絵画に限らず、様々な創作物や自然の造形から着想を得ながら、ピカソ独自の表現がかたちづくられていったのだろう。

www.artpedia.asia

ピカソの圧倒的な才能の源流は、優れた表現技能だけでなく、その鋭い着眼点や感受性、吸収して再構築する能力に長けていたことにもあるのかもしれない。

 

 

古典への回帰、シュルレアリスム

結婚して子供ができ、ピカソにとって幸福な時代だったのか、この時期になると作風はがらりとまた変わる。

古典的で温かみのある肉厚な表現だ。

坐る女(1921年

ただし古典的とはいっても、手足が不自然に大きかったり、キュビズムで研究されたデフォルメ的な技法が取り入れられることで、唯一無二の表現になっているのが面白いところ。

 

母子像(1921年

ふくよかな「母子像」には幸福な雰囲気が漂い、「海辺の母子像」を描いた同じ画家とは思えないほど、その作風は変容している。

 

 

さらにその後は、シュルレアリスム運動との交流もあったようで、「眠り」「夢」といった精神的なテーマが多く描かれるようになる。

赤い枕で眠る女(1932年)

私は、個人的にシュルレアリスムが結構好きなのもあって、この時代のピカソ作品は特に好きだ。

青の時代にもみられた「人間の感情の深み」を表現する力は健在で、抽象性が高いにもかかわらず、ピカソが描く眠る女性像の顔には「なにか」が宿っている。

ただ睡眠中の無表情な顔というわけではなく、たしかになにか「夢を見ている」顔なのだ。

この展覧会には無い作品だが、「夢」という作品は、中でも私の大好きな作品のひとつ。

また、この時代は、かの有名なゲルニカが描かれた時期でもある。

その影響もあってか、静物画のモチーフは、ろうそくの光やミノタウロス(あるいは牡牛)の頭部など、ゲルニカを想起させるものが多く登場する。

ここでのオススメは、

静物―パレット、燭台、ミノタウロスの頭部」

静物ローソク・パレットと牡牛の頭」という

二つの作品を比較してみること。

静物―パレット、燭台、ミノタウロスの頭部(1938年)

前者には、こうこうと明るく光を放つろうそくや、色鮮やかなパレット、抽象性の高いカラフルな牡牛が描かれる一方で、

後者は一転して色味がおさえられ、煙のように黒い放射状の線を放つろうそく、すすけたパレット、黒く実態感があり、不気味な存在感を増した牡牛と、様相が様変わりする。

 

さて、これらが表すものは・・・?

 

そうやって深読みしながら見ていると、時間がいくらあっても足りない。おもしろい。

 

 

晩年の作品たち

60歳を超えても、絵画だけでなく、彫刻や陶器に至るまで、幅広く創作を続けたピカソ

この時代になると、様々なしがらみから解放されたように、自由で遊び心に富んだ作品が増えていく。

純粋に創作を楽しんで、心の赴くままに創造していく、そんな明るい自由が感じられる。

 

最後には、ピカソ本人が絵を描いていく様子が収録された「ミステリアス・ピカソ」の一部が上映されていて、これがまたおもしろい。

 

せっかく描いた絵を消しては描きなおし、子供の落書きのように延々と描いては消しを繰り返して、しまいには、最初に描いた構図は跡形もなくなってしまう。

永遠に完成するということがない、まさにクリエイティブの現場そのものだ。

 

破壊と創造。

これがピカソのクリエイターとしての神髄なわけだが、躊躇なく描いたものを捨てて塗り替えてしまう様子を見ていると、

青の時代、キャンバスすら買えない貧しさのなかで、それでも書き続けた時代があったからこそ、獲得されたものだったのかもしれない。

 

そう考えると、ここまでピカソの人生に寄り添うように、各時代の作品を追っていくことで見えてくるものがありそうだ。

 

 

ピカソの人生と作品について思うこと

考えてみれば、ピカソの作風のめまぐるしい変遷は、案外、創作者にありがちなものと言えなくもない。

もちろん、まるで別人のように大きく変容を遂げたピカソは圧倒的なものがあるが、

例えば文学においても、さらには一般的な社会人の人生においても、共通点があるようにも思うのだ。

 

まだまだスキルが大成されておらず、未来に報われるとも知れない努力を積み上げなければならない若い時代には、絵画も文学も、暗く沈鬱な内向的な作品になりがちだ。

現代人でも、若い時代に何の苦労もなく明るい日々を過ごしたという人は、あまり多くないだろう。

誰しも悩み多き時代なのだ。

 

その後家庭を持つようになると、生き方は大きく変わる。

守るべき家族や、未来に満ちた子供の圧倒的な光を受けて、生まれ変わるような気持ちになる人もいるかもしれない。

そして自分の能力も徐々に高められていき、実績も伴うようになれば、人生は明るいものに見えてくるはずだ。

 

そして、子も独り立ちして、再び自分自身に立ち返るとき・・・

世間体を気にせず、残された人生を謳歌しようという気持ちが、晩年になって開放的な作品を多く生み出したのではないだろうか。

 

つまり、ピカソの作品を追うことは、人間という生き物が普遍的に持つ「人生」を知ることでもあるように思うのだ。

 

人生100年の時代と言われる昨今。

91歳まで生き、生涯を通して描き続けたピカソを知ることは、

私たちにも何か、人生のヒントを与えてくれるかもしれない。

 

 

www.polamuseum.or.jp

 

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川崎市岡本太郎美術館|「爆発」の根源にあるもの

目次

 

ここ数年、仕事や勉強やいろんなことが忙しかったのと、コロナ禍で美術展にもあまりいけなくなってからというもの、なんとも長い間このブログを放置してしまった。

過去のエントリーを見ると、なんと1年半あまり・・・!汗汗汗

本当に久しぶりに筆を取るので、さぞ読みづらいこととは思いますが、何卒お許しください。

 

***

 

川崎市岡本太郎美術館

さて、先日の連休、本当に久しぶりだったアートとの再会場所はこちら。

www.taromuseum.jp

生田緑地という自然豊かな公園の中に位置する、言わずと知れた巨匠・岡本太郎氏の美術館だ。

ピクニック日和の五月晴れの午後、日光と新緑を存分に浴びたあと、涼しげな林を抜け、美術館へ続く階段を上っていく。

この季節らしい、こいのぼりがそよそよと・・・

と思ったら、これ岡本太郎!!

いかにも岡本太郎な色づかいと、ぎょろんとした大きな目玉が妙にかわいくて、バシバシ写真を撮る。

 

モニュメント「母の塔」

こいのぼりの下をくぐりぬけて階段を登りきると、眩しい日差しの中に、ドーンと巨大なモニュメントが現れた。

母の塔

ぽってりとふくよかな、木の根のような白い胴体は、見上げるほど高い。

そしてその上部に、両手を広げたたくさんの黒い人の姿。躍動感があって、いまにも踊り出しそうだ。

陽気な昼下がりの光もあいまって、楽しげなモニュメント・・・と言いたいのだが、なぜか、どうも岡本太郎の作品にはちょっとだけ「こわさ」がある。

この構図から見上げると特に、この黒い人影たちが、ずいっとこちらへ身を乗り出してうごめているようで・・・

あまり見つめていると、そのうちわらわらと降りてきて群がってきそうな気がしてぞっとしてしまう。

陽光を背に受けて、顔が逆光になっているのも不気味・・・

 

こいのぼりと一緒で、かわいげのあるフォルムだし陽気な雰囲気なのだけど、なーんかちょっとだけ、こわい。

これが私の個人的な岡本太郎の印象なのだ。

 

館内へ

さて、そんな巨大モニュメントの迫力にどぎまぎしながら、いよいよ館内へ。

入口早々、ドーン、とこれである。岡本太郎だなぁ。

館内はぐるぐると迷路のようになっていて、絵画作品だけでなく、グラスなどの小物作品を展示したエリア、岡本太郎の年譜や生い立ちを知れるエリア、彫刻のエリアと、実にさまざまだ。

絵画だけでなく、彫刻や家財道具、食器など、多岐にわたる表現を試みてきた岡本太郎の作品群は、彼が多大な影響を受けたピカソとも通ずるものがある。

遊んでいるようなユーモラスな筆致や、有機的な表現はピカソと似ている感じもする。ピカソファンとしては二倍に面白く鑑賞できるというものだ。

 

途中に、椅子コーナーがあって、岡本太郎がつくった様々なかたちをした面白い椅子が置いてあるエリアがあり、子どもも大喜びの楽しげな作品がたくさんある。

手形の椅子、無限大マークのようなかたちをしたうねるような椅子、「坐ることを拒否する椅子」なんてタイトルもユーモラスでたのしい。

椅子コーナー

 

「夜」と「まひるの生物」

絵画の中では、有名なのは「夜」という作品のようだ。(私は恥ずかしながら初見でした)

「夜」

圧倒的な存在感!

岡本太郎といえば渋谷駅の抽象画のイメージが強いが、これは幾分物語性があって、比較的わかりやすいかもしれない。

 

花田清輝による解説文から一部抜粋すると、

岡本は、夜を描くばあい、どうしても夜のなかに、昼をつつみこまずにはおれないのだ

とある。

なるほど夜という作品には、夜の暗さの中に、稲妻のような光が鋭く差し込まれていて、夜闇をひきさく閃光に不穏な夜の正体が鮮明に浮かび上がっているようだ。

強烈な輪郭で描かれた髑髏やナイフを手にした女の姿は、一度この絵を見てしまったが最後、いやというほどくっきりとまぶたの裏に焼き付く。

女が対峙しているのは、枝か手か、怪物のような魔手を画面いっぱいに伸ばしてうごめく、怪物のような――具現化した「夜」なのだろうか。

 

そして、この「夜」とその隣にある作品とが、ちょうど対照になっているのも興味深い。

隣はまひるの生物」である。

まひるの生物」

こちらは昼とあって、明るい黄色の画面にほっとする・・・

なんてことを岡本太郎が許してくれるはずもなく、ど真ん中に、黒々とした底なしの「夜」が陣取っていて、こちらもまた不穏な居心地の悪さを伴っている。

 

夜には光が、昼には暗闇が、内包されているのだ。

 

なぜ、この矛盾をはらんだ作品に、見る者の心はムズムズするのだろう?

手放しに「面白いなぁ」「きれいだなぁ」と安全に楽しむことを許されず、「母の塔」にもあったような不気味さ、居心地の悪さが常に付随するのはなぜだろう?

 

 

彫刻作品は樹のモチーフが多い

ムズムズざわざわしながらさらに進み、大小さまざまな彫刻を眺めて回る。

「樹人」「樹霊」など、木をテーマにした作品が多い。

「樹人」

そういえば有名な「太陽の塔」も、太陽と言いながらもその姿は樹木に近いし、内部には生命の進化を表現したまさに「生命の樹」があったそうだ。

taiyounotou-expo70.jp

彼にとって、生命のシンボルは「樹」だったのかもしれない。

たしかに岡本太郎独特の筆致は、木の枝がうねうねと伸びていく様にも見える。

 

樹という有機的なモチーフのためか、どの作品も不思議と温度があり、「おかしみ」と「こわさ」が同時に感じられる。

最初は不気味に感じた「樹霊」も、じっと見ているうちになんだか愛着がわいてくるし、

パンフレットやグッズにもたくさんあったこの作品も、ニンマリしてかわいいんだけれども、なーんか、こわい。

心地よく「かわいい」と愛でるのとは違う、何か別のかわいげがあるのだ。

 

 

根源にあるもの

私が作品を通してみていくうちに感じたのは、その根源は、生命のこわさなのではないか。

害もないのに小さい虫がこわいとか、綺麗な花をよくよく見たら結構グロテスクで気持ち悪いとか、そういうたぐいの恐怖。

それは生命が生命に対して感じる、原始的な感情だ。

生命を愛でる気持ちと、自分自身のいのちを脅かす存在になり得るかどうかを見極めようとして生じる、こわごわとした恐怖心。

その矛盾する両方の感情を内包するのが、人間という生命。

・・・なのだとすると、岡本太郎は、まさに「いのち」そのものを表現することにまったく成功している。

彼の作品を見て生じる感情は、単なる芸術鑑賞とはちょっと違う、「いきもの」に対峙するときの感情に似ているからだ。

 

岡本太郎は「芸術は爆発だ」と言ったが、爆発のタネは、いきものが持つ「いのち」そのものだったのかもしれない。

 

 

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番外編:ミュージアムショップ

ミュージアムショップのグッズがどれもこれもかわいくて(それこそちょっとこわくて「キモかわいい」のだけど)、迷いに迷った挙句、入口でのっけから心奪われた「岡本太郎なこいのぼり」のサコッシュをゲットしちゃいました。

むうう、かわいい。。

 

 

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関連:草間彌生とも通じるものがありそう?

以前このブログにも書いた草間彌生の美術表現にも、岡本太郎と似た、「生」を剥き出しにするような「居心地の悪さ」があったように思います。

改めて振り返ってみると興味深いかも?

artinspirations.hatenablog.com

 

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