川崎市岡本太郎美術館|「爆発」の根源にあるもの
目次
ここ数年、仕事や勉強やいろんなことが忙しかったのと、コロナ禍で美術展にもあまりいけなくなってからというもの、なんとも長い間このブログを放置してしまった。
過去のエントリーを見ると、なんと1年半あまり・・・!汗汗汗
本当に久しぶりに筆を取るので、さぞ読みづらいこととは思いますが、何卒お許しください。
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川崎市岡本太郎美術館
さて、先日の連休、本当に久しぶりだったアートとの再会場所はこちら。
生田緑地という自然豊かな公園の中に位置する、言わずと知れた巨匠・岡本太郎氏の美術館だ。
ピクニック日和の五月晴れの午後、日光と新緑を存分に浴びたあと、涼しげな林を抜け、美術館へ続く階段を上っていく。
この季節らしい、こいのぼりがそよそよと・・・
と思ったら、これ岡本太郎!!
いかにも岡本太郎な色づかいと、ぎょろんとした大きな目玉が妙にかわいくて、バシバシ写真を撮る。
モニュメント「母の塔」
こいのぼりの下をくぐりぬけて階段を登りきると、眩しい日差しの中に、ドーンと巨大なモニュメントが現れた。
ぽってりとふくよかな、木の根のような白い胴体は、見上げるほど高い。
そしてその上部に、両手を広げたたくさんの黒い人の姿。躍動感があって、いまにも踊り出しそうだ。
陽気な昼下がりの光もあいまって、楽しげなモニュメント・・・と言いたいのだが、なぜか、どうも岡本太郎の作品にはちょっとだけ「こわさ」がある。
この構図から見上げると特に、この黒い人影たちが、ずいっとこちらへ身を乗り出してうごめているようで・・・
あまり見つめていると、そのうちわらわらと降りてきて群がってきそうな気がしてぞっとしてしまう。
こいのぼりと一緒で、かわいげのあるフォルムだし陽気な雰囲気なのだけど、なーんかちょっとだけ、こわい。
これが私の個人的な岡本太郎の印象なのだ。
館内へ
さて、そんな巨大モニュメントの迫力にどぎまぎしながら、いよいよ館内へ。
入口早々、ドーン、とこれである。岡本太郎だなぁ。
館内はぐるぐると迷路のようになっていて、絵画作品だけでなく、グラスなどの小物作品を展示したエリア、岡本太郎の年譜や生い立ちを知れるエリア、彫刻のエリアと、実にさまざまだ。
絵画だけでなく、彫刻や家財道具、食器など、多岐にわたる表現を試みてきた岡本太郎の作品群は、彼が多大な影響を受けたピカソとも通ずるものがある。
遊んでいるようなユーモラスな筆致や、有機的な表現はピカソと似ている感じもする。ピカソファンとしては二倍に面白く鑑賞できるというものだ。
途中に、椅子コーナーがあって、岡本太郎がつくった様々なかたちをした面白い椅子が置いてあるエリアがあり、子どもも大喜びの楽しげな作品がたくさんある。
手形の椅子、無限大マークのようなかたちをしたうねるような椅子、「坐ることを拒否する椅子」なんてタイトルもユーモラスでたのしい。
「夜」と「まひるの生物」
絵画の中では、有名なのは「夜」という作品のようだ。(私は恥ずかしながら初見でした)
圧倒的な存在感!
岡本太郎といえば渋谷駅の抽象画のイメージが強いが、これは幾分物語性があって、比較的わかりやすいかもしれない。
花田清輝による解説文から一部抜粋すると、
岡本は、夜を描くばあい、どうしても夜のなかに、昼をつつみこまずにはおれないのだ
とある。
なるほど夜という作品には、夜の暗さの中に、稲妻のような光が鋭く差し込まれていて、夜闇をひきさく閃光に不穏な夜の正体が鮮明に浮かび上がっているようだ。
強烈な輪郭で描かれた髑髏やナイフを手にした女の姿は、一度この絵を見てしまったが最後、いやというほどくっきりとまぶたの裏に焼き付く。
女が対峙しているのは、枝か手か、怪物のような魔手を画面いっぱいに伸ばしてうごめく、怪物のような――具現化した「夜」なのだろうか。
そして、この「夜」とその隣にある作品とが、ちょうど対照になっているのも興味深い。
隣は「まひるの生物」である。
こちらは昼とあって、明るい黄色の画面にほっとする・・・
なんてことを岡本太郎が許してくれるはずもなく、ど真ん中に、黒々とした底なしの「夜」が陣取っていて、こちらもまた不穏な居心地の悪さを伴っている。
夜には光が、昼には暗闇が、内包されているのだ。
なぜ、この矛盾をはらんだ作品に、見る者の心はムズムズするのだろう?
手放しに「面白いなぁ」「きれいだなぁ」と安全に楽しむことを許されず、「母の塔」にもあったような不気味さ、居心地の悪さが常に付随するのはなぜだろう?
彫刻作品は樹のモチーフが多い
ムズムズざわざわしながらさらに進み、大小さまざまな彫刻を眺めて回る。
「樹人」「樹霊」など、木をテーマにした作品が多い。
そういえば有名な「太陽の塔」も、太陽と言いながらもその姿は樹木に近いし、内部には生命の進化を表現したまさに「生命の樹」があったそうだ。
彼にとって、生命のシンボルは「樹」だったのかもしれない。
たしかに岡本太郎独特の筆致は、木の枝がうねうねと伸びていく様にも見える。
樹という有機的なモチーフのためか、どの作品も不思議と温度があり、「おかしみ」と「こわさ」が同時に感じられる。
最初は不気味に感じた「樹霊」も、じっと見ているうちになんだか愛着がわいてくるし、
パンフレットやグッズにもたくさんあったこの作品も、ニンマリしてかわいいんだけれども、なーんか、こわい。
心地よく「かわいい」と愛でるのとは違う、何か別のかわいげがあるのだ。
根源にあるもの
私が作品を通してみていくうちに感じたのは、その根源は、生命のこわさなのではないか。
害もないのに小さい虫がこわいとか、綺麗な花をよくよく見たら結構グロテスクで気持ち悪いとか、そういうたぐいの恐怖。
それは生命が生命に対して感じる、原始的な感情だ。
生命を愛でる気持ちと、自分自身のいのちを脅かす存在になり得るかどうかを見極めようとして生じる、こわごわとした恐怖心。
その矛盾する両方の感情を内包するのが、人間という生命。
・・・なのだとすると、岡本太郎は、まさに「いのち」そのものを表現することにまったく成功している。
彼の作品を見て生じる感情は、単なる芸術鑑賞とはちょっと違う、「いきもの」に対峙するときの感情に似ているからだ。
岡本太郎は「芸術は爆発だ」と言ったが、爆発のタネは、いきものが持つ「いのち」そのものだったのかもしれない。
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番外編:ミュージアムショップ
ミュージアムショップのグッズがどれもこれもかわいくて(それこそちょっとこわくて「キモかわいい」のだけど)、迷いに迷った挙句、入口でのっけから心奪われた「岡本太郎なこいのぼり」のサコッシュをゲットしちゃいました。
むうう、かわいい。。
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関連:草間彌生とも通じるものがありそう?
以前このブログにも書いた草間彌生の美術表現にも、岡本太郎と似た、「生」を剥き出しにするような「居心地の悪さ」があったように思います。
改めて振り返ってみると興味深いかも?
artinspirations.hatenablog.com
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