大人になって哲学を勉強しなおしたいと思うようになり、最近、手始めに現代思想入門という本を読んでいる。
まだ途中だが、今のところ興味深いと思ったのが、ドゥルーズだ。
一部を引用すると、
P65「同一的だと思われているものは、永遠不変にひとつに固まっているのではなく、諸関係のなかで一時的にそのかたちをとっている、という捉え方」
(これを筆者は「仮固定」と呼んでいる)
P66「あらゆる事物は、異なる状態に「なる(becoming)」途中である。事物は多方向の差異「化」のプロセスそのものとして存在しているのです。事物は時間的であり、だから変化していくのであり、(中略)プロセスはつねに途中であって、決定的な始まりも終わりもありません」
「仮固定」という世界認識の手法は、世界の見え方がまるで変わって見えて面白いし、ある意味、宇宙的視点とも言えそうだ。仏教思想にも通ずるものがあり、興味深い。
そんなドゥルーズの章を読み終えて間もないタイミングで、上野の国立西洋美術館に足を運んだ。
待ちに待った(個人的に)今年の目玉、キュビズム展だ。
ドゥルーズの哲学が頭にあったせいか、
キュビズム展を見ていて、これって哲学だ!とハッとした。
ピカソの「裸婦」を見ていたときだ。
山と女を一緒くたにしてしまい、鉱物のような絵画に再構築してしまったこの絵は、見ていると、境界線が曖昧になり、すべてがカケラのように寄り集まってできた不確定なものに見えてくる。
そういえば、そもそも、私たちが「山」とか「人間」を別のものとして当たり前にとらえているこの境界線は、果たして本当に確かなものだろうか?
「一見バラバラに存在しているものでも実は背後では見えない糸によって絡み合っている――という世界観」を、哲学的に提示したのがドゥルーズだと、筆者は言う。
つまり、ピカソの「裸婦」をその考え方に基づいて解釈しようとすると、
山と女は仮固定のものであり、それらは相互に関係しているかもしれないもの。
ということになる。
確かに、山の景色を見ていて自分自身も洗われるような心地がしたり、山の空気を吸えば、自分まで植物のように光合成をして生き返るような心地がしたりするし、
分子レベルまで分解すれば、たまたま今私の小指の爪になっている分子が、実ははるか昔には山の土だったかもしれないわけだ。(科学的にどうかは知らないので詳しい方ご教授ください…)
私たちが当たり前にとらえているこの現実は、果たして本当に固定的なものか?
この問いは、なかなかに面白い思考実験だし、ゆらぎや不確かさを許容する心理状態は、ある意味では世界に優しい。
精神的にも、物事に強く固執することがなくなり、健全な気がする。
もう1つ、キュビズム展で印象的だったのが、エレーヌ・エッティンゲンの「無題」。
不思議と吸い寄せられる絵画で、
夢を現実にひきずりだしたみたいだ、と感じた。
夢を見ているときの人物の捉え方(あるいは記憶かもしれないが)に近い気がしたのだ。
夢を見ているとき、視覚で「見て」いるようでありながら、何か視覚だけではない、より原始的な知覚でとらえているような感覚はないだろうか。
輪郭は頼りなく曖昧で、不確かで、固定的な定義を失った剥き出しの生身のようなあやうさ。自分になったり別の人間になったり、視点がめまぐるしく変わったりして、変わり得るという不安さが付きまとう。
そんな夢を見ているときの漠然とした不安に近いと感じたのだ。
そこでなぜか連想して思い出したのが、今年のハロウィーンに、バーガーキングが出した「不気味なCM」のことだった。
AIが生成した映像だそうだが、これがもう見ていると気分が悪くなる気持ち悪さ。
人間の口が不自然に開いてモンスターのようにバーガーを取り込み、バーガーと同化していったり…
この動画を見て感じた不気味さ、気持ち悪さ、不穏さは、夢を見ているときのそれとすごく似ていると思った。
自分という存在が固定されていない、生身の「本質」が剥き出しになって、外部と溶け合ってしまいそうな「存在のゆらぎ」のグロテスクさ。
とりとめもなくそんな連想を次々と膨らませながら、
展示を見終わったあと、キュビズムの意義について改めて考えた。
共通して言えるのは、キュビズムが「美の革命」であった理由は、
それまで当たり前だった絵画の常識を覆しただけでなく、
人間の思想・哲学もゆるがすような、ショッキングなものだっただろうということだ。
キュビズムの画家たちは、
それまで人間の視覚が確固たるものとしてとらえていたはずの事物の「輪郭」を疑い、一面のみが見えている物質の外見を疑って、
三次元の多重的な現実を、二次元のキャンバスの上に再構築しようとした。
写実絵画のように「私たちにはこう見えている」という一面を写し取ることで零れ落ちていくものを見つめ直し、もっと存在そのものを包括的に捉えようとして、
「私たちが見ているものは本当はこのようなものではないか」
ということを示して見せたキュビズム。
この「美の革命」はおそらく、人間の世界認識をゆるがし、世界の境界線をゆるがす「哲学の革命」とも呼応するものだったのではないだろうか。
「哲学×絵画」なんてアプローチで歴史を紐解いてみても面白いかもしれない。
(・・・と、知ったような顔で書きましたが、まだ入門の本を読み始めただけの知識の浅い人間なので、もしドゥルーズの哲学の理解に不足・勘違いがあればぜひご指摘・ご教示お願いしますっ!)
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