なんだか、ここ数年、人類という種の存在を見つめ直すターニングポイントの上に立っているような、ただならぬ雰囲気を感じる。
少し前、ユヴァル・ノア・ハラリ氏の『サピエンス全史』がベストセラーになった。
最近は、サステナビリティを意識した企業の取り組みや、国の政策、雑誌の特集も目立つようになってきている。
コロナ禍の影響もあって、「ニューノーマル」を目指す風潮が一気に加速しつつある。
私たちは、急速な技術発展を遂げるなかで、自然をコントロールできるようになり、「ただの生き物」であることを忘れてしまっていた気がする。
遺伝子組み換えやiPS細胞など、もはや生命や人間自体を改編するテクノロジーさえも手に入れてしまっているのだから、まあ無理もないかもしれない。
が、その反面、コロナウィルスの蔓延に対しては、私たちはほとんど成すすべもなかった。
地球という星の上の、自然の中に生きるただの有機的な生物であることを思い知らされ、その弱さを思い知らされた。
そしてその星は今や、温暖化による気候変動で、ゆっくりと荒涼し始めている。
私たちがすべてを知っていると思い込んでいるこの世界は、本当は、謎と神秘に満ちていて、私たちが知っているよりもはるかにおそろしく、そして美しく、不可思議なことばかりなのだ。
そのことを、オラファー・エリアソン展で改めて感じたので、今回はその感想です。
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東京都現代美術館で開催されている『オラファー・エリアソン―ときに川は橋となる』は、インスタ―レーションを得意とするデンマークの芸術家オラファー・エリアソン氏の個展だ。
日本での大規模な個展は10年ぶりとのこと。
オラファー・エリアソン ときに川は橋となる(展示風景)/"Olafur Eliasson: Sometimes the river is the bridge" [Installation view]
彼の作品は、自然現象に焦点を当てたインスタレーションが多く、そのアプローチはまるで、表現というよりは、媒介する立場に徹しているようにも見える。
今回の個展で一貫して感じたのは、「世界の可視化」だろうか。
私たちが棲む世界を可視化し、人間が見ることのできない美にかたちを与える。
「見えないが既にそこにある美」を見せてくれる、そんな媒介者のようなアーティストだ。
彼がかたちを与えてくれるものは、大きく分けてふたつある。
ひとつは、人間という生き物の活動に潜在している美。
もうひとつは、自然そのものの美だ。
まず、入ってすぐに目につくのは、細いペンでぐじゃぐじゃと線を書きなぐったような12枚もの円形のパネル。
嘘発見器の針が自由自在に動き回ったようにも見える。
この作品には『クリティカルゾーンの記憶(ドイツ―ポーランド―ロシア―中国―日本)』というタイトルがつけられていて、カッコ書きの中にある通り、今回の個展の展示品を日本まで輸送する道のりを、とある方法で記録したものらしい。
解説曰く、「旅にかたちを与えた」作品だ。
地球上をあっちこっちに動きまわる人間の動線が、白い紙の上に書き写されたことになる。
まるで餌を運ぶアリの動線を追うように、その運動は、摩訶不思議な習性のように見えてくる。
『サンライト・グラフィティ』『あなたの光の動き』といった作品では、人間の身体の動線そのものを、光で可視化する。
手に持った光源が残していく軌道は、虫の飛行のようでもあり、ミステリーサークルのようでもあり、なんとも魅惑的だ。
同様に、『あなたに今起きていること、起きたこと、これから起きること』という作品でも、光を使って人の動きを映し出すしかけを作っている。
いずれも「人間が動かなければ何も生まれない」作品だ。
人間の肉体が活動することそのものや、手足や人と人とが交差する偶然性にさえも、アートが隠れていることに気づかされる。
人間は、地球上の生き物のなかでも、特に目が悪い。
エリアソンの作品には、そんな人間の目にも映るように、自然の美を媒介してくれる作品も多い。
『氷の研究室』では、ダイヤモンドビーチと呼ばれるアイスランドの海岸が舞台だ。
氷河が流れ着き、寄せる波に洗われながら少しずつ溶けていくさまがダイアモンドの輝きに似ていることから、こんな呼び名がついたそうだ。
エリアソンは、そこに転がっている氷河のかけらを3Dプリンタで写し取り、再現している。
儚い自然の奇跡を再構築することによって、私たちは、自然の美を再認識できる。
今回の個展のために新たに制作されたという『ときに川は橋となる』という作品は、中でもとりわけ美しい。
水面に伝わる微細な振動を、丸い光源を使って頭上に映し出し、まるで揺れ動くステンドグラスのような様相を成す。
やがて、水と光によって映し出された丸窓は、水面の揺れが激しくなるにつれ、ただの円から複雑な幾何学模様へと変化し、グラフィックデザインのように多様なかたちを描き出して踊り続ける。
いつまでも見飽きない、天然のデザイン。
また、『ビューティー』という作品でも、ミスト状になった水に光を当て、虹のカーテンとして私たちの前に自然の美を表出させてくれる。
五感がとりわけ鈍感な私たちには、水ひとつとっても、その物質そのものから美を発見することは難しいが、
こうしてエリアソンが媒介してくれる自然の美を目の前にすると、私たちが何気なく生きているこの世界は、おどろくほど美しいことに気づく。
本当はもっともっと、私たちのいかなる感覚を持ってしても知覚することさえできないような、神秘に満ちているのかもしれない。
そう思うと、めまいがするほどのこの世界の美の可能性に、圧倒されずにはいられない。
物理的に移動せずともオンラインで対話ができるし、旅ができなくてもバーチャルで自然を体験することができる。自然の疑似体験どころか、生きた細胞を作り出すことさえ可能だ。
では、人工的に自然を模倣することさえもできるようになった今、例えば、すべてを人工的に作り出した世界の中でも、私たちは生きられるのだろうか?
答えは、「可能」かもしれない。
でも、そこにはきっと、何かが無い気がする。
失われるのは、おそらく、人間ごときでは知覚できないものに満ち満ちた世界の美だ。
ましてや、自然の美を垣間見るためには、人間そのものが目や耳や肉体を使わなければ、交流することさえできない。人間の肉体そのものが、世界の美へアクセスするための奇跡のツールなのだ。
可能か不可能かで言えば、自然をすべて人工的に作り出した環境下でも、もっと言えば肉体がなくても、極論、脳さえあれば「生きて」いくことは可能なのかもしれない。
しかし、知覚できないものだらけの世界の中で生きることにこそ、きっと意味がある。
今、私たちがもし、人類の在り方を見つめ直すターニングポイントの上に立っているのなら、「私たちの技術はどこまでできるか?」ではなく、「私たちはいかに良く生きるべきか?」を、考えなければならないはずだ。
“Well-being”という言葉があるように、人間が良くあるために必要なのは何か。
つつましい五感をめいいっぱいに使って世界を感じ、それでも決して知覚することのできない、しかしきっとそこにある自然の美を予感しながら、生きる。
それが、きっと、美しい人間の生き方なのだと信じたい。
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オラファー・エリアソン展は、9/27まで開催中です。連休に足を運んで、かたちを与えられた自然の美を、楽しんでみるのはいかがでしょうか。
話題となったユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史』。
本書の最終章でも、著者は「人間はどうなりたいのか」を問いかけています。
"Well-being"を考えるきっかけになったのは、雑誌WIREDのvol.32。
デジタルはWell-beingといかに共存し貢献していけるか、というアプローチが興味深い。
『サピエンス全史』やオラファー・エリアソン展とリンクさせて読むとなかなか面白いのでおススメです!