これまでの長い美術史のなかで、誰が一番好きかと問われたら、迷わず「ピカソ」と答える。
そのくらい、実はピカソファンなわたくし。
ポーラ美術館の開館20周年記念展『ピカソ 青の時代を超えて』展に行ってきた。
目次
ポーラ美術館開館20周年記念展:ピカソ 青の時代を超えて
全体的に、「青の時代」の作品が中心かと想像していたが、それだけではない。まさに青の時代を超えて晩年まで、ピカソの生涯を通した作品の変遷が、非常によくまとめられていた。
「キュビズムってよくわからない、むずかしい」と感じてしまうピカソ初心者にも、楽しめる構成だ。
ピカソといえば、生涯の中で最も作風が変わった画家の一人。
キュビズムの色鮮やかなイメージが強いが、写実的なものから静かな色調のもの、古典的な描写、シュルレアリスム的な試みまで、本当に多岐にわたる作品を生み出している。
この展覧会では、その多彩な作品群を、ピカソの人生をなぞるように体験することができる。
ということで、展覧会と同じ構成で、個人的な感想を書いていこうと思う。
青の時代
若い頃のピカソ。
その名の通り、全体を青い色調が覆う、暗い作品が多い時代だ。
ピカソは、天才的で大胆不敵、エネルギッシュでパワフルな人物という印象があるが、妹を幼くして亡くし、友人の自殺を経験し、若くして死を間近に知ったという悲しい過去もある。
そんなやるせなさや不条理と向き合おうとしたのか、若い時代の作品は、悲愴感が漂い、静かに訴えかけるような人物像が多く描かれる。
しかし、青の時代の作品にあるのは、ただ沈鬱な「悲愴」だけではないようにも思う。
そこには、祈りのような静謐さや神秘性、人間に対する敬愛の念も感じられる気がするのだ。
本展覧会の目玉である「海辺の母子像」は、まさにそんな空気を纏った作品だろう。
幼い子を抱えて、祈るように海辺に立つ、痩せた女の姿。
刑務所内の収容者をモデルにしたそうだが、悲しみや苦痛といったネガティブな印象は、不思議とあまり感じられない。
目を閉じて祈る母の表情はおだやかで、彼女の足元に寄せる波は、とても静かに見える。朝凪のようにしんとした静謐な波音が聞こえてくるようだ。
母の美しい表情をじっと見つめていると、冷たい海のように見えた背景は、じんわりと温かみを帯びてくる。
中でも、母の手に包まれた小さな赤い花は、本当に美しい。
それはまるで、貧困の中にあっても、授けられた子の命を受けて鮮やかに輝く希望のよう。
「肘をつく女」という作品にも目を奪われた。
ベールで頭を覆った女性が物思いに沈む様子が描かれている作品で、その目の深さに釘付けになった。
どこを見るともなく、何か遠いものを見ているような目。貧困の中で、明日をどう生きていくか思い悩んでいるのか、とうに諦めきった気持ちなのか。
見れば見るほど、人の持つ複雑な感情や「思い」の奥行きをとらえて表現するピカソの力は、圧倒的としか言いようがない。
ちなみに青の時代は、一説には、青の絵具が安かったから、とも言われているらしい。
真偽のほどは不明だが、この時代、ピカソが売れない画家だったのは事実のようだ。
キャンバスを買うこともままならなかったピカソは、過去に描いたキャンバスの上に、新しい絵を塗り重ねた。
この展覧会のもう一つの面白さは、そんな絵画の裏に「隠された」幾重もの作品が、最新の研究によって明かされる様子を見られることだ。
★詳しくは展覧会特設ページへ
「海辺の母子像」の後ろにも、実は全く違う絵が描かれており、見ることのできない過去の絵画に想像をかきたてられる。
天才画家として超有名になった今では、なんとも惜しいことだが・・・
若く苦しい時代に、せっかく描いた絵を塗りつぶしてでも描き続けた、ピカソの情熱と努力が、彼を天才画家にしたと思えば感慨深い。
バラ色の時代、キュビズム
この時代は、言わずと知れた、まさに「ピカソ!!!」な作品が並ぶ。
中でも解説で興味深いと思ったのが、カタルーニャの山村オルタを訪れたというエピソードだ。
曰く、その地にある山と一体化するような、鉱物的な表現が見て取れるということで、なるほどそういう視点で見れば、鉱物をかち割った結晶のようにも見える。
「アヴィニヨンの女たち」で世界を驚かせたキュビズムの表現は、アフリカの彫刻に強い影響を受けているそうだが、
絵画に限らず、様々な創作物や自然の造形から着想を得ながら、ピカソ独自の表現がかたちづくられていったのだろう。
ピカソの圧倒的な才能の源流は、優れた表現技能だけでなく、その鋭い着眼点や感受性、吸収して再構築する能力に長けていたことにもあるのかもしれない。
古典への回帰、シュルレアリスム
結婚して子供ができ、ピカソにとって幸福な時代だったのか、この時期になると作風はがらりとまた変わる。
古典的で温かみのある肉厚な表現だ。
ただし古典的とはいっても、手足が不自然に大きかったり、キュビズムで研究されたデフォルメ的な技法が取り入れられることで、唯一無二の表現になっているのが面白いところ。
ふくよかな「母子像」には幸福な雰囲気が漂い、「海辺の母子像」を描いた同じ画家とは思えないほど、その作風は変容している。
さらにその後は、シュルレアリスム運動との交流もあったようで、「眠り」や「夢」といった精神的なテーマが多く描かれるようになる。
私は、個人的にシュルレアリスムが結構好きなのもあって、この時代のピカソ作品は特に好きだ。
青の時代にもみられた「人間の感情の深み」を表現する力は健在で、抽象性が高いにもかかわらず、ピカソが描く眠る女性像の顔には「なにか」が宿っている。
ただ睡眠中の無表情な顔というわけではなく、たしかになにか「夢を見ている」顔なのだ。
この展覧会には無い作品だが、「夢」という作品は、中でも私の大好きな作品のひとつ。
また、この時代は、かの有名な「ゲルニカ」が描かれた時期でもある。
その影響もあってか、静物画のモチーフは、ろうそくの光やミノタウロス(あるいは牡牛)の頭部など、ゲルニカを想起させるものが多く登場する。
ここでのオススメは、
二つの作品を比較してみること。
前者には、こうこうと明るく光を放つろうそくや、色鮮やかなパレット、抽象性の高いカラフルな牡牛が描かれる一方で、
後者は一転して色味がおさえられ、煙のように黒い放射状の線を放つろうそく、すすけたパレット、黒く実態感があり、不気味な存在感を増した牡牛と、様相が様変わりする。
さて、これらが表すものは・・・?
そうやって深読みしながら見ていると、時間がいくらあっても足りない。おもしろい。
晩年の作品たち
60歳を超えても、絵画だけでなく、彫刻や陶器に至るまで、幅広く創作を続けたピカソ。
この時代になると、様々なしがらみから解放されたように、自由で遊び心に富んだ作品が増えていく。
純粋に創作を楽しんで、心の赴くままに創造していく、そんな明るい自由が感じられる。
最後には、ピカソ本人が絵を描いていく様子が収録された「ミステリアス・ピカソ」の一部が上映されていて、これがまたおもしろい。
せっかく描いた絵を消しては描きなおし、子供の落書きのように延々と描いては消しを繰り返して、しまいには、最初に描いた構図は跡形もなくなってしまう。
永遠に完成するということがない、まさにクリエイティブの現場そのものだ。
破壊と創造。
これがピカソのクリエイターとしての神髄なわけだが、躊躇なく描いたものを捨てて塗り替えてしまう様子を見ていると、
青の時代、キャンバスすら買えない貧しさのなかで、それでも書き続けた時代があったからこそ、獲得されたものだったのかもしれない。
そう考えると、ここまでピカソの人生に寄り添うように、各時代の作品を追っていくことで見えてくるものがありそうだ。
ピカソの人生と作品について思うこと
考えてみれば、ピカソの作風のめまぐるしい変遷は、案外、創作者にありがちなものと言えなくもない。
もちろん、まるで別人のように大きく変容を遂げたピカソは圧倒的なものがあるが、
例えば文学においても、さらには一般的な社会人の人生においても、共通点があるようにも思うのだ。
まだまだスキルが大成されておらず、未来に報われるとも知れない努力を積み上げなければならない若い時代には、絵画も文学も、暗く沈鬱な内向的な作品になりがちだ。
現代人でも、若い時代に何の苦労もなく明るい日々を過ごしたという人は、あまり多くないだろう。
誰しも悩み多き時代なのだ。
その後家庭を持つようになると、生き方は大きく変わる。
守るべき家族や、未来に満ちた子供の圧倒的な光を受けて、生まれ変わるような気持ちになる人もいるかもしれない。
そして自分の能力も徐々に高められていき、実績も伴うようになれば、人生は明るいものに見えてくるはずだ。
そして、子も独り立ちして、再び自分自身に立ち返るとき・・・
世間体を気にせず、残された人生を謳歌しようという気持ちが、晩年になって開放的な作品を多く生み出したのではないだろうか。
つまり、ピカソの作品を追うことは、人間という生き物が普遍的に持つ「人生」を知ることでもあるように思うのだ。
人生100年の時代と言われる昨今。
91歳まで生き、生涯を通して描き続けたピカソを知ることは、
私たちにも何か、人生のヒントを与えてくれるかもしれない。
***
関連書籍
***
関連記事
artinspirations.hatenablog.com
artinspirations.hatenablog.com
artinspirations.hatenablog.com