Art Inspirations

素人作家のメモ箱

アートと活字を愛する作家の卵が運営するブログ。

ジャンルを超えて、広義の「アート」から得た様々なインスピレーションやアイデアを文章で表現していきます。
絵画、彫刻、インスタレーション、音楽、ダンス、デザイン、ファッション、建築などなど。





未来と芸術展|無機物が有機物化した世界、人類はどこへいくのか

六本木の森美術館で開催されている「未来と芸術展」へ行ってきた。

www.mori.art.museum

 

2018年に開催された「建築の日本展」とも通じる部分もあり、森美術館の集大成のようにも感じられる企画展だった。

特に、人の暮らしや文化を形作る都市・建築の可能性に大きくスポットが当てられているあたり、まさに森美術館の真骨頂といったところ。

 

artinspirations.hatenablog.com

  

それもそのはず、今回の企画展の着想は、「メタボリズム建築」にあるという。

展覧会冒頭の館長のお言葉をそのまま引用させて頂くと、

1960年代に日本人建築家たちが提唱した『新陳代謝し成長持続する都市』の概念は、世界の都市論の発展に大きく貢献しました。

そして、今もし、高度に発達した情報処理技術やバイオ技術を援用したら、メタボリズム都市は実現可能だろうか、という問いが、本展の出発点となりました。 

 

メタボリズムとバイオテクノロジー

今回の企画展は、これらがキーワードになっている。

 

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展示室の冒頭にある館長のメッセージ。分野を超えた広視野なアプローチが、森美術館の企画展の面白さのゆえんである。

 

 

「未来と芸術展」で提起されている未来へのイメージは、一貫して、より有機的なものへと移行してきているようだ。

ひと昔前の未来のイメージといえば、電子回路が張り巡らされ、メカニックで四角くて、ストイックで無機質な冷たいイメージではなかっただろうか。

それが今や、スマートシティやスマートハウス、AI、バイオテクノロジーといった言葉に表れているように、生き物のように思考し人間の生活に合わせて流動する、より柔らかく温度を帯びたイメージになっている。

展示物を通して、近未来は「無機物が有機物化した世界」である可能性に改めて気づかされる。

 

例えば、今回の企画展で大きくフォーカスされている建築の領域では、モジュール型海洋都市のプロトタイプをはじめとして、レゴブロックのように組みなおされては再構築される、ダイナミックに「変容」する建築の未来が試みられている。

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「ポロ・シティ」では、より開いた外向的な建築空間をめざし、レゴを組み合わせて様々な形態を示すことで、ダイナミックな建築デザインの可能性を提示している。

 

そのきわめて流動的なシステムは、分裂して増殖したり、結合して多様な器官を形成する、動植物の「細胞」を思わせる。

さらに、資源や廃棄物など、持続可能な都市を目指そうとするアプローチは、まさに、循環する自然の生態系(エコシステム)の再現にほかならない。

まるで近未来の都市そのものが、学習して思考して成長し、エコシステムのなかでエネルギーを消化して排泄して再生する、一つの巨大な生命体のようなものに見えてくる。

無機物で構成された建造物やインフラの集合体でしかなかった都市が、自ら生命のように運動し、活動する有機物的なものに変容しつつあるのだ。

 

 

それはバイオ素材の「生きた」人工物にも表現されている。

内部の人とシンクロして呼吸する家屋。

菌糸と木材が融合し、息吹く家具。

キノコのように白いものを表出し、角のない動物的な構造をしたそれらのモノは、一見気味の悪いものに見えるが、その気味悪さは、「生きた人工物」を抵抗なく受け入れてしまえるかもしれない可能性の裏返しとも言える。

「生きた人工物」という、本来は明らかに矛盾を孕んだ言葉だが(人工物が文字通り生きていたらそれはもはや生命の創造にほかならない)、その体感的なイメージは、私たちは既に容易に想像することができる。

現に、愛玩ロボットのように目も口もついているわけではない、ごく機能的なお掃除ロボットに愛着を覚えたり、うまく作動しない機械に「機嫌が悪い」という擬人法を使ったりすることの延長に、「生きた人工物」との思想的共存の先駆けがあるようにも思えてくる。

機械が作られ始めた発明の黎明期には、人の暮らしを便利にするただの道具としての機械に感情移入するなんて、きっと想像もしなかったはずなのだから。

家具が息をし、人が家と対話する未来も、そのうち未来とは気づかずに現実になっていくのかもしれない。

 

 

これまでいかにも機能的だった人工物が、よりソフトに、ある種の「温度」を持つようになる。

この未来像のシフトを、「球体」という作品がうまく象徴化している。

作品の解説から引用すると、

《球体》は、地球を愛する人たちのための鏡であり、SF愛好者のための新しい惑星であり、旅行者の道しるべであり、パーティー好きの人たちのための巨大なミラーボールである。

なるほど確かに、球体というかたちは、メタリックな色合いはきわめて人工的・非自然的でありながら、丸みを帯びていることで不思議と生命的な親近感や神秘、裏返せば気味悪さや不可解さを感じ取ることができる。

家屋、ビル、扉、窓、テーブル、箱、携帯電話、家電、コンピュータ――。

人類が、自ら創造した四角い無機質なものに囲まれて暮らし始めてからもう長い。

ヒトが、角のとれた曲線的な、言い換えるならば有機的なフォルムを求め始めていることは、心理的な面からみても大変興味深い。

そういえば、近年に制作されたスターウォーズシリーズの新たな“愛らしい”ロボットが、どことなく箱型に近かったR2-D2から、ころころと球状の体を転がして滑らかに動き回るBB-8へ、より曲線的な造形になったのも、なんだか偶然ではないような気がしてくる。

スター・ウォーズ BB-8 & R2-D2 1/12スケール プラモデル

 

 

未来像をつきつめると、蠢く生命体のような有機的なイメージにたどりつく。

この逆説は面白い。

胸を張って機械化を進めてきた人間が、いま生命や自然を模擬的に繰り返そうとするのは、ヒトがやはり自然の産物だからか、あるいは、人類の罪悪感からくる原状回復の願望なのか。

 

たとえばもし、人類の生活が、持続可能な循環型システムに完全に移行したら、地球の生態系は原始へ戻っていくのだろうか。

ヒトは動植物を殺さずに培養肉のみを摂取し、生態系を邪魔しないバイオ素材の道具を用い、再生可能エネルギーを循環して使い続け、資源に頼らず自己再生する都市に住む。

その光景は、自然との共存へ立ち戻ったとも言える明るい未来だ。

しかし同時に、人類がついに「人工の自然」、つまり人類が原始の自然に介入せずに生存していくためのもう一つのエコシステムを創造してしまう空恐ろしさも感じる。

まるで地球の表面にもう一つの地球を生み出してしまったかのような、宙に浮いた自然。

 

そのとき、都市は、社会は、どうなるのだろう。

そして、人間はどこへ行くのだろう。

海や空にも新たな居住空間を構築して、原始の自然に触れない神のような静かさで、地球に生き続けるのか。

自然を模造して人工のエコシステムを再起させ、共存し、疑似的な「自然回帰」を果たすのか。

はたまた、地球の資源に頼る必要もなくなったとき、ヒトは別の星へ移住し、ついに地球史上「絶滅」するのか。

 

想像をより先の未来へと延長させていけばいくほど、人間とは何か、生命とは何か、根源的な問いにぶつかる瞬間が訪れる。

この途方もない思考の遊びが、とんでもなくおもしろいのだ。

 

 

「未来と芸術展」は、3/29まで。

大げさに言うと、この企画展を見ておくのとそうでないのとでは、いつか未来が現実になったときの感じ方がまるで違うはず。笑

ぜひ足を運んでみてください!

www.mori.art.museum

 

 

***

 

「無機物の有機物化」という視点で、これまで時代を攫ってきたSF作品を振り返ってみるのも面白い。そこにはやはり共通した未来イメージがあることに気づくことができる。

 

ハーモニー (ハヤカワ文庫JA)

ハーモニー (ハヤカワ文庫JA)

 

伊藤計劃SF小説『ハーモニー』では、ビルはまさに息づくように活動しているし、遊具は子供の動きにあわせて血肉を通わせた腕のようにその安全を守る。

  

あなたの人生の物語 (ハヤカワ文庫SF)

あなたの人生の物語 (ハヤカワ文庫SF)

 

 映画『メッセージ』(原作はテッド・チャンSF小説あなたの人生の物語』)に登場する宇宙船は、メカニックとは程遠い、美しい曲線を描いている。  

メッセージ (字幕版)

 

 

いわずと知れたSFアニメ「エヴァンゲリオン」シリーズでも、乗り手はただボタンやハンドルで機械を動かすのではなく、神経接続を通してあたかも自己の延長であるかのように「有機的な」巨大な武器を動かす。またその舞台である町そのものも、まるで山が動くように建造物が起伏することで、要塞都市の役割を担っている。その様相はメタボリズム建築の思想に通ずると言えなくもない。

 

また、ちょっと飛躍かもしれないが、最近話題になったビジネス書『ティール組織』では、組織そのものが生き物のように流動的に動く、生命体のような次世代の組織論が提唱されている。このようなジャンルを超えた思想のシンクロも興味深い。 

 

そのほか、『星を継ぐもの』や『大きな鳥にさらわれないよう』は、人間とは何か?人間はどこへいくのか?を考えさせるSF小説だ。このあたりも改めて読み返したい。 

星を継ぐもの (創元SF文庫)

星を継ぐもの (創元SF文庫)

 
大きな鳥にさらわれないよう (講談社文庫)

大きな鳥にさらわれないよう (講談社文庫)

 

 ***

 

 

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新・北斎展|世界に誇る日本絵師の虜になる

日本は言うまでもなく、世界でも知らない人はいない天才絵師、葛飾北斎

海外では“The Great Wave”という名で親しまれる『富嶽三十六景 神奈川沖浪裏』はあまりにも有名だ。

また、浮世絵だけでなく、コミカルでユーモラスな『北斎漫画』も、よく知られた作品かもしれない。

 

本日は、そんな有名どころの作品も含めた、圧巻の展示作品数を誇る「新・北斎展」へ行ってきた。

hokusai2019.jp

 

 

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まずもうポスターの絵面からかっこいい。

有名すぎる『神奈川沖浪裏』は、改めて見ても、やはりデザインがずば抜けて秀逸だ。

そびえたつ高波と、それに揉まれる小舟の間隔、そしてはるか遠くに鎮座する富士の位置。どこをとっても完璧。

また、北斎ブルーと対をなす『弘法大師修法図』には、法師と戦う赤鬼が描かれ、屈強な巨躯をねじったその姿は、まるで今にも動き出しそうだ。

『神奈川沖浪裏』とは対照的に、黒く塗りつぶされた背景が、赤鬼の波打つ肌を浮き上がらせ、よりいっそう気迫あるものにしている。

 

 

 

作品は、北斎の生涯を辿って順に展示されている。

北斎は、その長い生涯の中で、たくさんのペンネームを使ったことでも知られている。

春朗、宗理、葛飾北斎、戴斗、為一、画狂老人卍・・・

と名を変えながら、さまざまな方面で、類まれな才能を発揮していく。

その作品数と、どの時代も衰えない質の高さに、見る側は息をつく間もない。

 

 

私が個人的に圧倒されたのは、龍の絵だ。

龍はどの時期にも描かれるテーマだが、動物を描いた中でもとりわけ奥行きがあり、魂がこもっている。

 

宗理期の『玉巵弾琴図』は、雲間の闇の中に、下方から舐めるようにこちらを見据える竜が描かれており、全体に筆を振って散らせたような墨のしぶきが、重く垂れ込める雲の水気を感じさせ、そこに描かれていないはずの雷の光や音までも感じることができる。

卍時代の『富士越龍図』では、白く美しいなだらかな線を描く富士の向こう側に、遠く、黒煙が空をのぼり、その中を龍が身をくねらせて昇っていく。真っ白な富士の輪郭と、目に焦げつくような黒煙の龍との対比はすばらしく、ハッと息をのむ。

 

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『富士越龍図』

 

ほかにも、龍だけでなく、猿、狸、狐、虎、鬼、蝶、鶴、燕といったさまざまな動物を描いており、どれも緻密でリアリティに富んでいる。

動物の特徴を正確にとらえる観察眼と、それを筆や技法を使い分けて紙面に躍らせる表現力の高さに度肝を抜いた。

 

 

また、「カッコイイ」「スゴイ」だけではないのが北斎の魅力で、『北斎漫画』シリーズや、デフォルメされた落書きのようなラフ画が、これまた悶絶するほどかわいい。

思わず笑ってしまうようなふざけた顔を並べたものや、ひょっとこ踊りのように滑稽なしぐさをする江戸っ子をコミカルに描いたシリーズなど、さまざまだ。

超がつくほどの天才絵師なのに、可笑しくて不真面目な(でもくやしいほど上手い)絵を描くものだから、ますます北斎という小粋な画伯の虜になってしまう。

中には、刀を呑んだり蜂の大群を口から出したり手から水を出したりと、現代でいうマジシャンのような離れ技をする人も描かれていたりして、全く時代の古さを感じない。

また、私が特に気に入ったのは、一筆書きでさまざまな所作をする人々をデッサンした作品で、これはもう秀逸すぎて笑うしかなかった。

たった一本の曲線で、これほどまでに人間の何気ない所作の特徴を捉え、表現するとは、まさにおそるべし。

一筆書きでの画力の高さは、私の大好きな画家ピカソも負けていないが、北斎のほうが、「無心」(しゃがみこんで読書に没頭している様子)や「放屁」といったタイトルもあり、妙にふざけていて愛らしい。ニクイ。

 

 

 

そして北斎といえば、忘れてはならないのが、やはり代表作『富嶽三十六景』シリーズだろう。

『神奈川沖浪裏』をはじめどれも有名すぎる作品ばかりだが、中でも、『駿州江尻』と『東都浅草本願寺』には嘆息した。

 

『駿州江尻』は、道行く人々を突風が襲い、紙束と笠が風にさらわれて飛んでいく様子が描かれている。

細木がしなり、葉を散らして、びゅうと一瞬のうちに風が過ぎ去っていくさまは、実にリアルだ。

紙束と笠をさらわれてしまった人の驚きと焦りまで手に取るように感じられ、彼の二の舞にはなるまいとして腰をかがめ、必死に笠を押さえる人々のしぐさもいじらしい。

そして、風にもてあそばれる人間を見下ろし見守るように、はるか向こうに、微動だにしない一筆書きの富士の輪郭が、すっくと見える。

なんだか自然の中に生きる人間の暮らしが愛おしくなるような、物語のある絵だ。

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富嶽三十六景 駿州江尻』 

 

 

『東都浅草本願寺』は、なんといっても構成美がすばらしい。

本願寺」というだけあって寺を描いたものだが、その全体像は見えず、ただ寺の屋根部分のてっぺんだけが、画面右側に見切れた状態で配置されている。

中央には、雲間を越えた遠くのほうに、ちょうど寺の屋根のなだらかな曲線をまねるようにして、青い富士山が堂々と据えられている。

そしてその富士の手前を、凧が高々と気持ちよく昇っている構図だ。

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富嶽三十六景 東都浅草本願寺』

このアングルが本当に見事だ。

北斎が今の時代に生きていたら、さぞかしすばらしい写真家になったことだろう。

 

 

 

今回の北斎展で、私はまんまと、このスゴくてかっこよくてかわいい北斎作品の虜になってしまった。 

表現力をとっても、デザイン力をとっても、北斎の絵はこれ以上改良しようのない、極められたものであるように思う。

だからこそ、今も決して、その魅力は薄れることがない。

むしろ、今の時代にあっても新鮮に映るほどだ。

優れた芸術は普遍的なものであるということを、身をもって知ることができた。

 

 

ちなみに北斎は、90歳にして画風を改め、100歳以降に絵画の世界の改革を目指そうとしていたのだという。

残念ながら90歳にこの世を去ったが、あと10年あれば真の絵描きになれたのに・・・と悔やみながら息を引き取ったのだとか。

どこまでも驚かされるスーパー爺である。

 

葛飾北斎は、間違いなく、日本が世界に誇る美術界のバケモノだ。

 

 

 

 

 

北斎 富嶽三十六景 (岩波文庫)

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北斎原寸美術館 100%Hokusai! (100% ART MUSEUM)

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北斎漫画入門 (文春新書)

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豆本 北斎漫画 全6冊セット

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カタストロフと美術のちから展|わたしたちがアートでできること

 

アートで、私たちは何ができるか。

戦争、テロリズム、天災、人種差別、性差別、ヘイトクライム、経済格差・・・
9.11に代表される同時多発テロ事件、そして3.11を経て、社会の変容の只中にある今の時代のなかで、つくるということ、表現するということ。
それは一体どういうことか。

そんな問いを投げかけたセンセーショナルな展覧会が、森美術館で催されている。

 

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www.mori.art.museum




会場には、世界中で活躍するアーティストたちの渾身の作品が並ぶ。


ゲリラ的なアートワークで社会を逆撫でし、度々話題をさらってきたChim↑Pomは、原発の目と鼻の先に、日の丸が放射能へと化した白旗を掲げる。

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Chim↑Pom 《REAL TIMES》

 

かたや、デジタル数字を使った現代アートで知られる宮島達男氏の作品は、切なる祈りのようで、ただただ美しい。

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宮島達男 《時の海-東北》

 

そのほか、カテジナ・シェダーやスウーンは、自らの作品を通して、何かを表現しアートとして昇華することで、絶望から抜け出すことの証明を果たした。
また、以前、震災後に見て個人的に大きな衝撃を受けた池田学氏の作品もあり、とにかく圧巻だった。

 


そして、展覧会のプロモーションでも話題の、オノヨーコさんの参加型のインスタレーション

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オノ・ヨーコ 《色を加えるペインティング(難民船)》

平和へのメッセージを、訪れた人々が青と白のチョークで刻み、またその上に別の誰かがことばを記していく。
ことばは、ひとつひとつ沈殿していき、部屋の真ん中に打ち捨てられた難民船は、いつしか、人が生み出す美しいことばの海に、深く深く潜っていく。


子供が描いたらくがきも、人知れず訪れた著名人のサインも、外国から来た誰かが記した世界の言葉も、自分を生きるのに夢中な若者の相合傘も、不躾な誰かが書きなぐった汚い言葉さえも、すべてが等しく「海」になっていく。

それらはすべて、人がつくり出したアートの原石だ。

 

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展示室内に記されたことば


つくることは、生きること。


アートがこの世界につくられるということは、それだけで、希望なのだと思う。

たとえそれが、大惨事を表象するものであっても、苦しく虐げられたものであっても、身を削るような表現のなかに、きっと何か大きな力が宿るはずだ。

それがアートそのものであり、私たちがアートでできることなのかもしれない。

 



最後に、オノヨーコの参加型の作品に、私もことばを記してきた。

以前ベトナム旅行中に偶然出会った、とあるアートポスターに描かれていたことばである。

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"Make art, not war."

 


第二次世界大戦のさなか、「絵は戦争の道具である」とピカソは言った。

怒りと祈りが入り混じった、痛々しく、激しいことばだ。

スペイン内乱の大惨事を描いた大作『ゲルニカ』の前で、「これを描いたのはあなたたちだ」と兵士に向かって言い放ったというエピソードはもはや伝説になりつつあるが、

芸術家ピカソは、惨禍が続く時代のなか、惨事そのものをアートに写すことで「カタストロフ」と闘った。

 


芸術で天災を防ぐことはできないが、立ちあがる力を再び灯し、先導することはできる。

死をよみがえらせることはできないが、失った悲しみと怒りを代弁することはできる。

戦争を止めることは難しいが、血を流すことなく、戦争そのものと闘うことができる。

絶望はなくせないが、希望を託せる。

アートはときに、旗となり、武器となり、祈りになる。

それはきっと、世界を動かし、変えることもできるはずだ。

 


アートの無限大の力を、私は強く、信じたいと思う。

 

 

www.mori.art.museum

 

 

*** 

カタストロフと美術のちから

カタストロフと美術のちから

 
ピカソの戦争 《ゲルニカ》の真実

ピカソの戦争 《ゲルニカ》の真実

 

 

暗幕のゲルニカ (新潮文庫)

暗幕のゲルニカ (新潮文庫)

 

 

建築の日本展|空間をつくる、未来をつくる

森美術館の美術展は、いつもセンスがいい。

その内容の濃さは、美術鑑賞というにはあまりに味気ない、もはや哲学の域だ。

以前の「宇宙と芸術展」も素晴らしかったけれど、今回の「日本の建築展」も、期待を裏切らない面白さだった。

 

www.mori.art.museum 

古代から現代にいたるまで、日本が誇る建築の技術や美しさを、様々なアプローチで紐解いた展覧会である。

章ごとのテーマを並べてみると、こんな感じ。

 

01 可能性としての木造

02 超越する美学

03 安らかなる屋根

04 建築としての工芸

05 連なる空間

06 開かれた折衷

07 集まって生きる形

08 発見された日本

09 共生する自然

 

建築好きとしてはこれだけでむずむずしてくる・・・

まさに、ロマンと美と技術が詰まった、誇るべき日本建築の集大成といったところ。

 

展示作品は、なんと400点を超える圧巻の内容だ。

ギャラリー内に入ると、まずは「会津さざえ堂」の模型が目をひく。

ファンタジーな香り漂う、今の時代も古びないミステリー建築である。

さざえ堂(国指定重要文化財)|観光スポット|会津若松観光ナビ

www.fukushimatrip.com

 

 

続いて、まるでパルテノン神殿さながら、古代のロマンくすぐる出雲大社の本殿。

太古の出雲大社本殿は、50m近くにも及ぶ壮大なお社だったとか。

 

言わずと知れた、安藤忠雄の「水の教会」ももちろん登場する。

自然との完璧な融合美を実現した、美しい傑作。

tomamu-wedding.com

 

あとは、個人的にお気に入りの鈴木大拙館。ここは、いつか訪れて以来、あの静謐な美しさが未だに忘れられない。

www.kanazawa-museum.jp

 

他にも、寝殿造や、千利休の茶室、厳島神社東大寺南大門から、スカイツリー、ルイヴィトン銀座店に至るまで、時代を超えた高度な建築デザインが目白押しである。

 

 

また、展示物もさることながら、解説の言葉にも考えさせられるものが多かった。

そのひとつが、

日本の建築は、「目の前にある実体を超えた何かを感じる」

というもの。

確かに、数れた建造物のなかにいると、ただ「建物」という合理的で物質的なものだけではない、筆舌に尽くしがたい「気」のようなものを感じることがある。

木という生きた素材が息をしているからなのか、日本家屋特有の奥行きと陰影が生み出す光のコントラストがそう錯覚させるのか。

仏閣しかり、寺院しかり、建造物というのは、精神的な「何か」をその懐に宿す芸術でもあるのかもしれないと思うと、建築の奥深さにますます魅了される。

 

また、もう一つ興味深かったのが、日本建築が持つ「ぼんやりとした境界」という特徴だ。

家屋で言えば、たとえば土間や縁側。平安時代寝殿造も、御簾などを隔てて緩やかにつながり、不動な壁とは違う流動的な構造をしている。

家と外の「あいだ」で、ご近所さんと話をしたり、庭の自然を愛でたり。

源氏物語の世界を覗いてみれば、御簾を隔てて様々なドラマが繰り広げられていたり。

独特なこの建築の構造が、日本人の「あいだ」という空間観を醸成したのではないか。

そういう分析もナルホドと妙に納得してしまう。

この「あいだ」にある生活空間の伝統が、もしかすると、日本人のコミュニティ意識や人間関係における空間観の形成にも一役買っている、と考えると、さらに面白い。

建築といい暮らしといい、日本人は「ゆるやかにつながる」というグラデーションのようなものづくり・関係づくりが元来得意なのかもしれない。

建築は、生活様式やコミュニティデザインにまで、どんどん裾野が広がっていく。

 

「Power of Scale」というバーチャルな展示にも感嘆した。

四畳半くらいの立方体の空間のなかに、様々な「部屋」の映像が映し出されるのだが、これが極めて立体的で、超リアルなのだ。

はじめは線で描かれた図面的な絵でしかないが、そのすぐ後に、実際の部屋のイメージが浮かび上がる。部屋の外には街並みや自然などが映し出され、周囲の空間ともゆるやかにリンクする。

図面的なのに実体感があり、設計図と空間感覚が同時に認識される不思議な体験だ。

映し出される空間は、電話ボックス、カプセルホテル、被災時の避難所で区分けされるボールハウス、茶室と、どれも小さな空間ばかり。

それらを見ていると、私たちの暮らしは、案外小さなハコのなかに収まっているのだなと思い直す。

私たちの五感は、テクノロジーの発展に伴ってどんどん拡張されてきたが、実体そのものが必要とする空間は、ごくごく小さなものなのだと気付かされた。

そもそも、人間の暮らしは、空間のなかにできている。

その空間をつくるのが、建築なのだ。

建築と人の暮らしは、古代からずっと、密接に関わり合ってきたのだろう。

 

 

建築は、精神的な「空気」も、コミュニティ意識も、人の暮らしもつくりだす。

それらが紡ぎ合わされて人の歴史が刻まれていくのだとすれば、建築は気が遠くなるほど壮大な空間芸術だ。時空すら超えるとも言えるかもしれない。

そして、建築が歴史をつくってきたのなら、人間の未来さえも、つくることができる。

 

日本が誇る建築の技術と美は、どんな未来をもたらしてくれるのだろう。

私たちの未来は、どんな建造物のなかで繰り広げられるのだろう。

そんなことを考えていたら、帰り道、目に映る東京の建造物が、どれもものすごくロマンに満ちたものに見えてきた。

 

 

***番外編***

「待庵」の展示エリアでは、実際に茶室の中に入ることもできます。

…が、私は、窓の外の景色に圧倒されて、入る余裕をなくしてしまいました(笑)

というのも、実はこの「待庵」、窓のある部屋に設置されていて、展示エリアに入るなり、質素な庵の向こうに六本木の霞がかった摩天楼がどーんと。

53階から見下ろす広大なシティービューと、内なる宇宙の広がりと向き合う小さな茶室。この対比、シビれる・・・

まるで、古と新、内と外が、同時に存在しゆるやかにつながっているような演出に、すっかりやられてしまいました。いつもこういう小粋な演出をする森美術館、やっぱりすてき。

ちょっと邪道な楽しみ方かもしれませんが、みなさんもぜひ、窓の外にもご注目を!

art-view.roppongihills.com

 

今回は、思わず画集を衝動買い・・・

このカタログ、ものすごく内容が贅沢!!!ご興味ある方はぜひ。

建築の日本 その遺伝子のもたらすもの

 

宇宙と芸術展|思考の幅を広げる魅惑の物件 - Art Inspirations

ルドン―秘密の花園|いのちとことばの芽吹き

二カ月ほどものを書くことから離れていて、随分とご無沙汰になってしまった。

スランプというのか、どうにもこうにも言葉が出てこず、ただただ飢えたように読むばかりの二か月間だった。

自分のことばを文字で綴っていくという行為そのものが、まるではらわたに刃を入れて血を絞り出すような、途方もなくしんどい作業に感じられて、書こうとしても、どうしても怖くて書けなかった。文字に昇華できない思考ばかりが渦巻いて、苦しかった。

 

それが先日、ルドン展に行ってみたら、ことばがようやく動きだしたので、勇気を出して筆を取ってみようと思います。

 

 

ルドンー秘密の花園|三菱一号館美術館(東京・丸の内)

mimt.jp

 

ルドンといえば、森の上に一つ目の巨人がのっそりと立っている絵が鮮烈に残っていて、個人的には「目玉の絵」というイメージが強い。

ルドン画集: 象徴というグロテスク (世界の絵画)

(後から知ったが、一つ目の巨人は、キュクロプス(もしくはサイクロプス)というギリシャ神話に出てくる生物らしい。よくルドンがモチーフにしたのだそう。)

 

が、優雅な三菱一号館美術館で催されていたルドン展の副題は、「秘密の花園」。

ポスターを見ても、随分と上品な絵なので、ルドンとは一体何者なのか、初めて対面するつもりでどきどきしながら足を踏み入れた。

 

もっと知りたいルドン―生涯と作品 (アート・ビギナーズ・コレクション)

 

 

作品は、大きく分けて、無彩色と彩色に二分される。

リトグラフや木炭、エッチングで描かれた白黒の不気味な絵と、色彩豊かで穏やかな筆致の油絵や水彩画。一見すると同じ画家とは思えないが、作品をひとつひとつ見ていくにつれて、一貫したテーマが見え始める。

絵画の中で、胞子のようにふわふわと漂う何か。

不気味だがどこか滑稽で物憂げな人面花。

ふけばふっと散ってしまう綿のように、幻めいた淡い草花。

じっと見ていると、鼻がむず痒くなってきそうな絵。

説明によれば、ルドンは植物学者と親しく、木々や草花、動植物の存在に多大な関心を持っていたらしい。

顕微鏡の普及や、天体望遠鏡の発展、ダーウィンの進化論と時代を同じくしたことも、大きな影響を及ぼしたのではないかと考えられているそうだ。

 

「画家」の誕生 〔ルドンと文学〕

 

それまで見えなかったものが、見え始めた時代。

それは一体、人をどんな気持ちにさせただろう。

私たちは何者なのか?生命とは何か?

きっと、そんな気の遠くなるほど大きな問いに、直面したのではないだろうか。

 

ルドンが描いたリトグラフのシリーズは、タイトルを見ても非常に興味深い。

「植物人間」や「孵化」「発芽」といった分かりやすいものから、

「おそらく花の中に最初の視覚が試みられた」(『起源』II)

「不格好なポリープは薄笑いを浮かべた醜い一つ目巨人のように岸辺を漂っていた」(『起源』III)

「目に見えぬ世界は存在しないのか?」(『陪審員』V)

など、実験的な表現や、作品自体を通して問いを追求するような姿勢もうかがえる。

ルドンは、見えないもの(あるいはそれまで見えていなかったもの)を視覚表現の舞台に引っ張り出し、それらにタイトルをつける行為によって、科学の進歩と共にゆらぎはじめた世界認識と、向き合おうとしたのではないか。

科学によって暴かれた世界を神話と結び付けてみたり、植物と人間を混合させてみたり、様々な実験をしながら、「いのちとは何か?」を問い続けたのではないか。

そんなことを考えながら、今一度、咲き誇る花の絵と対面すると、普段なら「キレイだなあ」で済ませてしまうはずの花々が、何だか摩訶不思議な生命の神秘に見えて、ざわざわと胸が騒いだ。

 

 

 

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見終わったあとは、ルドンの草花の余韻に浸りつつ、バラの花が可憐に咲き誇る中庭をゆっくりと歩いた。

すると、頭の中に、”bloom”という英単語が浮かんだ。

「花が咲く」という意味の言葉だが、日本語に訳そうとすると、とても含蓄のある言葉だ。

芽吹く。息吹く。開花する。栄える。咲き誇る。

奇妙な胚芽のような人面花が闇に浮かぶ絵画は「芽吹く」と表現したいし、様々な花が可憐に咲き誇るブーケの絵は「いのちあふれる」と表現したい。

そう思ったとき、私自身も、ことばが”bloom” していくような――芽吹き、花開いて、次々と咲き誇り、種子を飛ばし、いのちあふれるような――静かで壮大で神秘的な気持ちに襲われた。

命の在り方を追求したルドンの絵画と、目の前で美しく息吹く草花のおかげで、自分のことばが再び発芽する、豊かな潤いを感じることができた。

 

 

思えば、思うように書けなかったこの二か月間、私の思考はずっと自分の内側を向いていて、風の通らない密室のような状態だったのだと思う。

使えることばは次第に底をつき、部屋中に同じ思考ばかりが停滞する。息が詰まって、文字に起こして昇華する余裕すら持てなくなる。

ちょうど、空気や水のないところでは生命が育たないのと同じだ。

 

きっと、いのちもことばも、外界と触れて初めて、息吹くものなのだろう。