Art Inspirations

素人作家のメモ箱

アートと活字を愛する作家の卵が運営するブログ。

ジャンルを超えて、広義の「アート」から得た様々なインスピレーションやアイデアを文章で表現していきます。
絵画、彫刻、インスタレーション、音楽、ダンス、デザイン、ファッション、建築などなど。


矛盾と越境|芸術の臨界点をどう超えるか

 

最近、芸術と言われるものが、総じて頭打ちになっているような気がしてならない。

専門家ではないのでこれは個人的な感覚に過ぎないのだけれど、それぞれの芸術の在り方や定義、あるいはそれぞれの「枠」に納まってきたものが、飽和状態になっている、というか。

絵画なり小説なり映画なり、それぞれの芸術が棲み分けてきた「じぶんち」がもうパンパンに膨れあがってしまって、その中に納まるには、もう臨界点に達している。そんな感じ。

 

たとえば絵画は、平面上に表現する二次元の芸術であり、現実に見えるものの模写から始まって、印象派キュビズムシュルレアリスムを経て、モンドリアンやロスコのようなものにまで発展してきた。

しかし、作品の内容には「新しさ」はあれど、表現方法としては、何だかもうこれ以上新たな領域へ発展するには苦しいというか、絵画という枠そのものが狭くて窮屈になってきている気がする。

モダンアートの展覧会に行くと、絵画よりも圧倒的にインスタレーションやパフォーマンスが多いのは、もしかしたらそういうことなんじゃないだろうか。

 

小説でもまたしかりで、芸術としての純文学は、もはや古典的な風情が漂っていて、紙の本や文芸雑誌で淡々と読まれるばかりで、このご時世にも関わらず、これといった劇的な「シフト」は生まれていない。

もちろん内容は時代を投影した新しくて面白いものばかりだし、文章表現もどんどん変化してきている。が、これも文学という枠としては、せいぜい電子書籍化されたくらいのもので、あまり変わり映えがしないのだ。

作る枠がそうなら鑑賞する側もしかりで、もはや「文字だけで書かれた長い物語をひたすら読んで考え事をする」という純文学の読み方そのものが、古くなって、渇望する人が減ってきて、分かりやすいキャッチーな物語ばかりがとにかく大量消費されていく。

奥深くて素晴らしいものはたくさんあるのに、世間から置いてけぼりを食らっているようで、これまた純文学好きとしてはとってもさびしい。

 

もちろん、何でもかんでも未来的な変化を求めているわけではないし、古典は古典のまま、その魅力を消さないでいてほしいという気持ちもある。

とはいえ、その古くなりつつある「枠」のせいで良い作品が下火になってしまうのは、あまりにも悲しすぎる。

だからこそ、芸術の新しいかたちを私は見てみたい。

もしくは、できることなら、自分で探してみたい。

 

じゃあどうやって探すか?

その方法は、「矛盾を肯定すること」「越境すること」じゃないかと思う。

 

絵画は無言で平面的だけど、もしかしたら音のある絵を作れるかもしれない。

小説には色がないけれど、もしかしたら視覚的な小説を作れるかもしれない。

映画には文字がないけれど、映画を読むという概念もありかもしれない。

そうやって、共存しえないと思い込んでいたものを肯定して、矛盾だったものを新しい芸術のかたちとして定義してしまう。

芸術それぞれが棲み分けてきた、従来の境界線を越えてしまう。

そうすることで、何か新しい画期的な芸術のかたちが誕生するのではないか。

それって、とてつもない可能性にあふれているし、何よりも、ものすごく楽しそうじゃないか!!

 

これまでの芸術のかたちが頭打ちになっているこの時代。

実は新しいアートの始まりなんじゃないかと、ひそかにワクワクしている。

 

 

文字だけの世界に回帰する

現代は、特に東京という街は、情報がとにかく多い。

人も、文字も、デザインや絵や音楽も、いたるところに充満していて、それはつまりインスピレーションが山ほど湧くということでもある。

否が応でも毎日たくさんのインプットをしているのだから、書きたいことは尽きない。

何気ない女子高生の会話が小説のネタになったり、ショーウィンドウのマネキンの着こなしがものすごくツボだったり、ふと目にとまった広告にあっと驚くような発想があったり。

東京は色んな刺激があっておもしろい。

 

でも、気を付けないといけないのは、家の中にこもって創作活動にのめり込んだ直後だ。

書いている最中は、ものすごく繊細なところまで気を配って、これでもかというほど想像力をフル稼働している。

よく見えるように瞳孔をかっと見開いているというか、インスピレーションを取り入れる触覚を超敏感にさせているというか。

とにかくMAX状態なのだ。

そんなわけなので、そのまま街に出ると非常に危ない。

感受性をフルに開いたままでいると、たちまち情報がなだれこんできて、息ができなくなる。

ちょっと移動しただけで、ものすごく疲弊してしまう。

しかも、意に反して、脳は水を得た魚のように働きまくるので、思考が止まらなくなって、頭が氾濫状態になってしまうのだ。

用事を済ませて帰る頃には、音楽を聴くのもしんどくて、本すら読めなくなっている。

 

今日もそんな状態に陥って、疲労困憊でフラフラしながら、あとひとつだけ残った買い物を済ませるべく、とある無印良品の店舗に入った。

シンプルな品揃えに少し安堵しながら、インテリア用品のディスプレイを眺めて回っていたら、こんな壁の一角に目がとまった。

f:id:numbernotes:20170903001836j:plain

 

このアイデアに、ビビッときた。

よく知られた文庫本ばかりだが、全部カバーが外してある。

シンプルで、古本屋みたいな趣き。

古紙のような色合いが、木製のボックスに馴染んで心地良かった。

飽和状態の頭で書店に入るのは、雑誌や本の表紙が所狭しと並んでいて目が回るけれど、これなら、と思った。

 

 

そこで早速、帰宅してから、手持ちの文庫本のカバーを、片っ端から外してみた。

f:id:numbernotes:20170903002128j:plain

 

これ、いい!

まるで自分の部屋が古本屋になったような。

本が、文字だけのほんとうの姿に戻ったような。

何だかすごくしっくりきて、しばらく本棚の前にしゃがみこみ、タイトルを眺めたり、あれこれと手に取ったりして夜を過ごした。

 

 

活字離れとはよく言うけれど、最近は、InstagramやLINEスタンプを筆頭に、コミュニケーションはどんどん色彩豊かになっている。

絵やデザインが好きな私としては、とっても楽しい時代の変化なのだが、時々やっぱり、色やビジュアルが多すぎて目も頭も疲弊してしまうこともある。

そういうとき、緩やかな茶系の色をした古本屋や、色のない文字だけの世界に戻ってくると、頭がクリアになり、きちんと言葉だけで、ものごとを考えられるようになる気がする。

ずらりと並んだ本を、表紙のデザインに左右されることなく、真摯に文字だけと向き合って選べるというのは、なかなか贅沢なものだ。

 

今の時代、文字だけの芸術は、案外貴重な文化財なのかもしれない。

色彩豊かな世界も楽しいけれど、時々は、混じりけのない文字だけの世界に帰ってみよう。

 

 

***

情報との付き合い方って結構難しいものです。外からの情報と、自分の思考とのバランスについても書いています。

artinspirations.hatenablog.com

 

***

そうは言ってもやっぱり、本の表紙も、どれも魅力的で大好きです(^^)

artinspirations.hatenablog.com

暮らしにBGMを

 映画やドラマに音楽があるように、日々の生活にも、BGMがあると楽しい。

 

すでに日が高く昇った休日の朝は、クラシックをかけると途端に優雅なコーヒータイムになるし、しゃれた洋楽をかければ、その日はまるで、雑誌に載ったどこかの女優や文化人のように、粋な生活ができるような気がしてくる。

夜仕事をしながらジャズをかけてみたら、勝手にちょっぴり鼻高々な気分になって、余裕ができて不思議とテキパキこなせることもある。

友達と飲みに行く道すがら、ちょっとチャラめなEDMをかけて街中を歩けば、その日は楽しい夜になる気しかしないし、ほろ酔いの頭で電車に乗り、テクノやアンビエントを聞くと、窓から見える景色が何だかとてつもなく神秘的なものに見えて、普段は漫然と見上げるばかりの東京の摩天楼に陶酔しさえする。

 

執筆するときも、サイケデリックなトランスをかけながら書くと、ミステリアスな小説が書けたりして面白い。

ゲーム音楽や勇壮なオーケストラならファンタジーが書けるし、久石譲の穏やかな曲を聞くとほっこりした会話文がうまく書けたりする。

 

さらに考えてみると、心に残っている風景にも、音楽が伴っていることが多い。

アメリカを旅行中、アムトラックの寝台車に横になって、夜通し電車に揺られながら夜空を見上げたとき。ゴトンゴトンと揺れる電車の窓から、満天の星に目を奪われたあのときは、確か「世界の車窓から」シリーズの音楽がBGMだった。溝口肇のチェロの奥深い響きが星空とよく合って、とても美しかった。

あるいは、日本の田舎を一人旅していたとき。鈍行列車のボックス席に座って、物思いに沈み、ウォークマンかラジオだったか、たまたま森山直太朗の「生きとし生ける物へ」がかかっていて、ちょうど、「さあーーーすすーめーーー」と高らかな歌声が響くなか、視界がぱっと開け、青々とした一面の田園風景が現れた。あの清々しさは忘れられない。

それから、休日の旅行帰りに走った夜の首都高。あーあ、また息苦しい都会に戻ってきてしまったなあと陰鬱な気持ちだったけれど、宇多田ヒカルの都会的な曲(たぶんThis is loveとかKeep Tryin’とかそのあたり)が流れたら、その風景が一変した。オレンジ色の照明灯にこうこうと照らされる首都高を、疾走感のある音楽に乗って、車が飛ぶように滑っていく。ぐうんとカーブを曲がり、乱立するビル群の合間から、高くそびえたつスカイツリーが、紫色の光を放ちながら近づいてくる…。あの音楽がなければ、都会の美しさに気付くことはなかっただろうと思う。

 

音楽にはドラマがある。

芸術の一種でありながら、日常生活にダイレクトに溶け込み、私たちの暮らしにそのドラマチックな世界を媒介することもできる。

残念ながら、小説ではそうはいかない。どんなにワクワクするエンターテインメント小説でも、本から顔を上げてしまえば、そこにあるのはただの現実で、両者が交わるのは難しい。日常は日常、娯楽は娯楽。本や雑誌の中に、どんなに憧れのアイコンがいても、それを自分ごとにするにはそれなりに骨が折れるものだ。

しかし、それではあまりに味気ない。

だからせめて、暮らしにはBGMが欲しい。

私たちは、音楽を媒体として、理想や憧れを自分の日常に溶け込ませることで、日常に彩りをつけているのかもしれない。

 

明日は、どんなBGMをかけようかしら。

 

古いものに身を包み、新しさのための「余白」をつくる

 

昔は飽き性で新しいもの好きだった私が、いつの間にか、古着ばかり買うようになっている。

新品を買うときは、よっぽど一目ぼれした服か、あとはユニクロくらい。

大人になって、せっかく自分で稼げるようになったのにおかしな話だが、休日に使う鞄や靴もほとんど古着屋で買ったものばかりで、実は今日身に付けているもので一番高価なのはピアスです、なんてこともままある。

 

考えてみると、最近流行りのミニマリズムに触発されて、お金の使い方に強弱をつけはじめたのが始まりだったかもしれない。

モノにはお金をかけず、形のない情報や思い出のために使いたい。

そのルールを決めてから、書店で好きな本を買うのを我慢するストレスも減ったし、友達からの誘いも快く受けられるようになったし、見栄だけで買い物をして気疲れすることもなくなった。「欲しい」という言葉を、わがままやないものねだりでなく、本当にそう思うものに対して使えるようにもなった。

その延長で、本当に自分にフィットするものだけを選り分ける訓練をしていたら、不思議と、古いものに目がいくようになった。

 

 

古いものを買うということは、そのモノが負ってきたキズごと引き受けるということだ。

たとえば古着屋にある鞄は、ひっかいてしまった跡や色あせがどうしてもあるので、気になるキズと値段とを吟味することになるのだけれど、どうしようかな、これなら新品買った方がマシかな、とか悩みながら眺めるうちに、逆にそれらのキズが馴染んできてしまい、新品を買うのではむしろ味気ない気がしてしまう。

買ってからも、使えば使うほど、まるでそのキズをつけてしまったのが自分であるような気がして、そのモノが最初から自分の持ち物であったかのように思えてくる。

そうすると、大事に大事に、扱いたくなる。

 

また、古いものを買うということは、「借りる」ということでもある。

すでに誰かが使ったものを「借りている」と思えば、せっかく高い金を払って自分のものにしたのだからと、モノに対してギブアンドテイクを要求して、執着し、振り回されることもない。

「借りもの」だから、ぞんざいに扱って壊れて捨てるなんていう無責任なこともしなくなる。

 

だから、古いものを身に付けていると、気負わず、わがままにもならず、自由な気持ちでいられる気がするのだ。

 

 

新しいものを持つには、パワーがいる。

まだ人の手に触れていない純粋な新品は、人に所有されることに慣れていないから、ギラギラとして扱いにくく、柔軟性がない。それが自分に馴染んでくれるまで、頑固な子供をなだめすかすように、あれこれと手を焼かなければいけない気がする。

でも、そっちにパワーを持っていかれていては、頭もこころもモノで埋め尽くされ、無形のものに目を向ける余裕がなくなってしまう。

古いものを買うということは、「余白」をとっておくことなのかもしれない。

古いものは、余計なスペースを要することなく、すんなり私という器に収まってくれる。

本当に価値ある新しさを取り入れるためにとっておきたい「余白」は、決して侵されることはない。

  

 

古いものに身を包み、新しさのための「余白」をつくる。

そこに滑り込んでくるものを、拒まず楽しむ。

万が一、無形の新しさだけでは自分をリニューアルできないほど、古いものに馴れ合い始め、澱みがでてきたら、そのときだけは一新する。

濁ってきた自分の器を磨く。

そして古いものを他へ譲って、また「余白」をつくる。

 

そういう感覚で生きていたほうが、たぶん、面白いことをたくさん捕まえられる気がするのです。

 

 

 

***

私が影響を受けたミニマリズムの本から、代表的なものを2冊。

ぼくたちに、もうモノは必要ない。 - 断捨離からミニマリストへ -

ぼくたちに、もうモノは必要ない。 - 断捨離からミニマリストへ -

ゆたかな人生が始まる シンプルリスト (講談社+α文庫)

ゆたかな人生が始まる シンプルリスト (講談社+α文庫)

暗がりを知るということ

 

仕事も趣味も目ばかり使うくせに、昔から目が弱いので、寝る前には間接照明やキャンドルに切り替えるようにしている。

枕元に積んである本をあれこれ拾い読みしながら、眠気が来るのを待つ。

 

最近、常々気になっていた、谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』を読み始めた。

陰翳礼讃 (中公文庫)

陰翳礼讃 (中公文庫)

まだまだ冒頭だが、その名の通り「陰影」について書かれたエッセイで、なかなか面白い。

ちょうど今は、昔の厠は母屋と離れたところにあるので外の自然音が聞こえて風流である、昨今のタイル張りのやけに純白なトイレと比べて、清潔と不潔とが曖昧になるぼんやりさがかえって良い、と谷崎潤一郎が大真面目に語っているところである。

日本家屋にはやはり行燈や障子がいい、ガラス戸や蛍光灯や電気ストーブがあると風情が削がれてどうもよくない、などとプンプンしているのは、何だかいつの時代も、ノスタルジーは同じだなあと少し可笑しい。

 

しかし、楽しく読みつつも、言われてみれば、確かに最近は「暗がり」を感じることが少なくなり、そのせいで何だか気疲れするような気もする。

実際、夜は夜相応の明るさにして、薄暗い部屋でゆっくりするのが、一番ストレスがなくて心地いい。

キャンドルの火がふわふわ揺れるのに合わせて、部屋の四隅にうずくまっている「陰」がゆらゆら動くと、ちょっと不気味だけど、どこかほっとする。

そこでふとトイレに立とうものなら、鋭い明かりを浴びて目がチカチカして、途端に目が冴えてしまう。

人間は、隅々まで見えてしまうより、多少の「陰」があったほうが心身ともにしっくりくるらしい。

 

そんなことを、昨晩つらつらと考えながらキャンドルの火や影を眺めていたら、いつか京都の田舎のほうに泊まったときのことを、ふと思い出した。

就職で東京に引っ越すまでの2カ月間ほど、国内外を放浪していた頃のことだ。

当時はまだ学生だからお金もないので、大学時代の家も引き払い、バックパックとスーツケースひとつで安宿を転々としていた。

ゲストハウスのドミトリー生活にもさすがに気が疲れ、たまには贅沢をと、旅館の個室(といっても安い民宿だが、当然ゲストハウスのドミよりは割高)に一人で泊まった。

 

夜、広々と畳に布団を広げ、大の字で寝転がる至福のひととき。

ベッドの上の小さなテリトリーに、歯ブラシやタオルや財布や生活用品を、こまごまと並べてコクピット化しなくてもいいし、思いっきり手足が伸ばせる。シェアスペースで飲み明かす外国人バックパッカーの笑い声もなければ、隣のベッドで動く人の気配もない。トイレだって専用のものが部屋についている。

そんな笑えるくらい単純なことが、涙が出るほど嬉しかった。

放浪生活をしなければ味わうことのできなかった貴重な体験だったが、その小さな幸福と一緒に、私は「完璧な暗闇」を初めて知ったのだ。

 

閑静な住宅街の中にぽつんと佇む旅館だったので、カーテンを閉めてしまえば、文字通りの真っ暗闇だった。

街灯の光でも漏れ出てきそうなものだが、月光さえ入ってこない。

古い和室だからか、ホテルによくあるような足元のぼんやりした照明もなく、加湿器や何やらが稼働しているときの人工的な光もない。

大抵、旅先で寝るときは、初めは真っ暗でも次第に目が慣れてくるものだが、その旅館は、不思議といつまでたっても明るくならなかった。

それどころか、目をあけて「完璧な暗闇」を見つめていると、自分の瞼が閉じているのか開いているのか、起きているのか眠っているのか、手足はちゃんとあるか、自分はちゃんと存在しているかどうかさえ、物事の境界がどんどん曖昧になっていく気がして、ほんとうに空恐ろしかった。

ああ、本当の暗闇ってこうなのか。

こんなに怖いのか。

たった一人で、四角い暗がりの中にしんと横たわっていた時間は、当時、ノンストップで駆け回って何事にも前のめりだった私に、良いショックを与えてくれたと思う。

怖かったけれど、本当の静謐さは恐怖も伴うものなのだと、知ることができた。

やがてその暗がりを受け入れると、それまでのゲストハウス生活で、どことなく周囲を気にしながら生きる癖がついていたのがすとんと剥がれ落ち、何か月かぶりに、とても深く眠った。

 

 

眠らない街とはよく言ったもので、今の人間の生活は常に明るく「照らされて」いる。

照らされてばかりいると、常に何かを「魅せ」なければならない気がしてくる。

何か魅せよう、価値あるものを誇示せねばと思考が働き続けると、隠れる場所がなくなる。

隠れられないということは、ちょうど舞台の演者のように、素晴らしいものを披露するための準備をする「ウラ」がないということ。

そうなると、常に演じ続けて疲弊するか、あるいは完成度が高まらないまま醜態をさらしてしまうのがおちだ。

 

谷崎潤一郎が愛でた「陰翳」のある風景を見習って、こころにも、ちょっと怖いけど心地の良い、「完璧な暗闇」が棲む場所を設けておきたいものだと思う。

 

 

 

ちょっと系統は違うけれど、最後に、「影」で思い出した私の好きな言葉をひとつ。

“If you don’t have any shadows, you’re not standing in the light.” - Lady Gaga

(あなたにひとつも影がないというなら、あなたは光の中に立っていないということだ。)