Art Inspirations

素人作家のメモ箱

アートと活字を愛する作家の卵が運営するブログ。

ジャンルを超えて、広義の「アート」から得た様々なインスピレーションやアイデアを文章で表現していきます。
絵画、彫刻、インスタレーション、音楽、ダンス、デザイン、ファッション、建築などなど。


古いものに身を包み、新しさのための「余白」をつくる

 

昔は飽き性で新しいもの好きだった私が、いつの間にか、古着ばかり買うようになっている。

新品を買うときは、よっぽど一目ぼれした服か、あとはユニクロくらい。

大人になって、せっかく自分で稼げるようになったのにおかしな話だが、休日に使う鞄や靴もほとんど古着屋で買ったものばかりで、実は今日身に付けているもので一番高価なのはピアスです、なんてこともままある。

 

考えてみると、最近流行りのミニマリズムに触発されて、お金の使い方に強弱をつけはじめたのが始まりだったかもしれない。

モノにはお金をかけず、形のない情報や思い出のために使いたい。

そのルールを決めてから、書店で好きな本を買うのを我慢するストレスも減ったし、友達からの誘いも快く受けられるようになったし、見栄だけで買い物をして気疲れすることもなくなった。「欲しい」という言葉を、わがままやないものねだりでなく、本当にそう思うものに対して使えるようにもなった。

その延長で、本当に自分にフィットするものだけを選り分ける訓練をしていたら、不思議と、古いものに目がいくようになった。

 

 

古いものを買うということは、そのモノが負ってきたキズごと引き受けるということだ。

たとえば古着屋にある鞄は、ひっかいてしまった跡や色あせがどうしてもあるので、気になるキズと値段とを吟味することになるのだけれど、どうしようかな、これなら新品買った方がマシかな、とか悩みながら眺めるうちに、逆にそれらのキズが馴染んできてしまい、新品を買うのではむしろ味気ない気がしてしまう。

買ってからも、使えば使うほど、まるでそのキズをつけてしまったのが自分であるような気がして、そのモノが最初から自分の持ち物であったかのように思えてくる。

そうすると、大事に大事に、扱いたくなる。

 

また、古いものを買うということは、「借りる」ということでもある。

すでに誰かが使ったものを「借りている」と思えば、せっかく高い金を払って自分のものにしたのだからと、モノに対してギブアンドテイクを要求して、執着し、振り回されることもない。

「借りもの」だから、ぞんざいに扱って壊れて捨てるなんていう無責任なこともしなくなる。

 

だから、古いものを身に付けていると、気負わず、わがままにもならず、自由な気持ちでいられる気がするのだ。

 

 

新しいものを持つには、パワーがいる。

まだ人の手に触れていない純粋な新品は、人に所有されることに慣れていないから、ギラギラとして扱いにくく、柔軟性がない。それが自分に馴染んでくれるまで、頑固な子供をなだめすかすように、あれこれと手を焼かなければいけない気がする。

でも、そっちにパワーを持っていかれていては、頭もこころもモノで埋め尽くされ、無形のものに目を向ける余裕がなくなってしまう。

古いものを買うということは、「余白」をとっておくことなのかもしれない。

古いものは、余計なスペースを要することなく、すんなり私という器に収まってくれる。

本当に価値ある新しさを取り入れるためにとっておきたい「余白」は、決して侵されることはない。

  

 

古いものに身を包み、新しさのための「余白」をつくる。

そこに滑り込んでくるものを、拒まず楽しむ。

万が一、無形の新しさだけでは自分をリニューアルできないほど、古いものに馴れ合い始め、澱みがでてきたら、そのときだけは一新する。

濁ってきた自分の器を磨く。

そして古いものを他へ譲って、また「余白」をつくる。

 

そういう感覚で生きていたほうが、たぶん、面白いことをたくさん捕まえられる気がするのです。

 

 

 

***

私が影響を受けたミニマリズムの本から、代表的なものを2冊。

ぼくたちに、もうモノは必要ない。 - 断捨離からミニマリストへ -

ぼくたちに、もうモノは必要ない。 - 断捨離からミニマリストへ -

ゆたかな人生が始まる シンプルリスト (講談社+α文庫)

ゆたかな人生が始まる シンプルリスト (講談社+α文庫)

暗がりを知るということ

 

仕事も趣味も目ばかり使うくせに、昔から目が弱いので、寝る前には間接照明やキャンドルに切り替えるようにしている。

枕元に積んである本をあれこれ拾い読みしながら、眠気が来るのを待つ。

 

最近、常々気になっていた、谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』を読み始めた。

陰翳礼讃 (中公文庫)

陰翳礼讃 (中公文庫)

まだまだ冒頭だが、その名の通り「陰影」について書かれたエッセイで、なかなか面白い。

ちょうど今は、昔の厠は母屋と離れたところにあるので外の自然音が聞こえて風流である、昨今のタイル張りのやけに純白なトイレと比べて、清潔と不潔とが曖昧になるぼんやりさがかえって良い、と谷崎潤一郎が大真面目に語っているところである。

日本家屋にはやはり行燈や障子がいい、ガラス戸や蛍光灯や電気ストーブがあると風情が削がれてどうもよくない、などとプンプンしているのは、何だかいつの時代も、ノスタルジーは同じだなあと少し可笑しい。

 

しかし、楽しく読みつつも、言われてみれば、確かに最近は「暗がり」を感じることが少なくなり、そのせいで何だか気疲れするような気もする。

実際、夜は夜相応の明るさにして、薄暗い部屋でゆっくりするのが、一番ストレスがなくて心地いい。

キャンドルの火がふわふわ揺れるのに合わせて、部屋の四隅にうずくまっている「陰」がゆらゆら動くと、ちょっと不気味だけど、どこかほっとする。

そこでふとトイレに立とうものなら、鋭い明かりを浴びて目がチカチカして、途端に目が冴えてしまう。

人間は、隅々まで見えてしまうより、多少の「陰」があったほうが心身ともにしっくりくるらしい。

 

そんなことを、昨晩つらつらと考えながらキャンドルの火や影を眺めていたら、いつか京都の田舎のほうに泊まったときのことを、ふと思い出した。

就職で東京に引っ越すまでの2カ月間ほど、国内外を放浪していた頃のことだ。

当時はまだ学生だからお金もないので、大学時代の家も引き払い、バックパックとスーツケースひとつで安宿を転々としていた。

ゲストハウスのドミトリー生活にもさすがに気が疲れ、たまには贅沢をと、旅館の個室(といっても安い民宿だが、当然ゲストハウスのドミよりは割高)に一人で泊まった。

 

夜、広々と畳に布団を広げ、大の字で寝転がる至福のひととき。

ベッドの上の小さなテリトリーに、歯ブラシやタオルや財布や生活用品を、こまごまと並べてコクピット化しなくてもいいし、思いっきり手足が伸ばせる。シェアスペースで飲み明かす外国人バックパッカーの笑い声もなければ、隣のベッドで動く人の気配もない。トイレだって専用のものが部屋についている。

そんな笑えるくらい単純なことが、涙が出るほど嬉しかった。

放浪生活をしなければ味わうことのできなかった貴重な体験だったが、その小さな幸福と一緒に、私は「完璧な暗闇」を初めて知ったのだ。

 

閑静な住宅街の中にぽつんと佇む旅館だったので、カーテンを閉めてしまえば、文字通りの真っ暗闇だった。

街灯の光でも漏れ出てきそうなものだが、月光さえ入ってこない。

古い和室だからか、ホテルによくあるような足元のぼんやりした照明もなく、加湿器や何やらが稼働しているときの人工的な光もない。

大抵、旅先で寝るときは、初めは真っ暗でも次第に目が慣れてくるものだが、その旅館は、不思議といつまでたっても明るくならなかった。

それどころか、目をあけて「完璧な暗闇」を見つめていると、自分の瞼が閉じているのか開いているのか、起きているのか眠っているのか、手足はちゃんとあるか、自分はちゃんと存在しているかどうかさえ、物事の境界がどんどん曖昧になっていく気がして、ほんとうに空恐ろしかった。

ああ、本当の暗闇ってこうなのか。

こんなに怖いのか。

たった一人で、四角い暗がりの中にしんと横たわっていた時間は、当時、ノンストップで駆け回って何事にも前のめりだった私に、良いショックを与えてくれたと思う。

怖かったけれど、本当の静謐さは恐怖も伴うものなのだと、知ることができた。

やがてその暗がりを受け入れると、それまでのゲストハウス生活で、どことなく周囲を気にしながら生きる癖がついていたのがすとんと剥がれ落ち、何か月かぶりに、とても深く眠った。

 

 

眠らない街とはよく言ったもので、今の人間の生活は常に明るく「照らされて」いる。

照らされてばかりいると、常に何かを「魅せ」なければならない気がしてくる。

何か魅せよう、価値あるものを誇示せねばと思考が働き続けると、隠れる場所がなくなる。

隠れられないということは、ちょうど舞台の演者のように、素晴らしいものを披露するための準備をする「ウラ」がないということ。

そうなると、常に演じ続けて疲弊するか、あるいは完成度が高まらないまま醜態をさらしてしまうのがおちだ。

 

谷崎潤一郎が愛でた「陰翳」のある風景を見習って、こころにも、ちょっと怖いけど心地の良い、「完璧な暗闇」が棲む場所を設けておきたいものだと思う。

 

 

 

ちょっと系統は違うけれど、最後に、「影」で思い出した私の好きな言葉をひとつ。

“If you don’t have any shadows, you’re not standing in the light.” - Lady Gaga

(あなたにひとつも影がないというなら、あなたは光の中に立っていないということだ。)

 

ジャコメッティ展|視覚と精神に見えるもの

 

ついに、念願のジャコメッティ展へ行ってきた。

学生の頃にシカゴ美術館で見てからというもの、その独特の存在感が忘れられず、たちまちファンになったジャコメッティ

没後半世紀の大回顧展とあって、大満足の展覧会だった。

 

(私がジャコメッティを好きになった所以はこちら。)

artinspirations.hatenablog.com

 

シカゴで見たものとは違ったけれど、それとよく似た「歩く男」(画面左)という作品は、やはり今回の一番の見どころだろう。

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折れそうに細いのに、独特な存在感のある不思議さ。

何か確固たる行く先を目指しているようでもあるし、ただ淡々と物静かに歩いているだけのようにも見える。

まるで人の影を写し取ったような、あるいは人の「芯」だけを取り出したような、極めて精神的な佇まい。

気が済むまで長いこと、その立像と対峙することができたのが嬉しかった。

 

 

さて、ジャコメッティ展では、それまでよく知らなかった彼の芸術への探求心やフィロソフィーにも触れることができる。

今回は、それについて思ったことや感じたことを、書き残しておこうと思う。

 

 

解説によると、ジャコメッティは、不可能とも言えるテーマを真摯に追求した人であったらしい。

「見えるものを見えるままに」。

対象との物理的な距離もひっくるめて、目に見えるヴィジョンを丸ごとそのままに、表現しようとしたのだという。

「見えるものを見えるままに」写し取ることを追い求めたジャコメッティの作品が、結果として写実とかけ離れた姿に至ったことは、逆説的にも思われる。が、なるほどその試みは、見えない部分も描くことでリアルを表現しようとしたキュビズムにも通ずるところがあり、初期の作品にキュビズムシュルレアリスムの類が多く見受けられたのも、彼の探求心と試行錯誤を表しているようで面白い。

 

中でも釘付けになったのは、「3人の男のグループI」と「広場、7人の人物とひとつの頭部」という2つの作品だった。

「3人の男のグループI」は、ちょうど冒頭の「歩く男」が三体、交差するように歩いている像である。

肩と肩が触れ合わんばかりに接近した3人の男は、絶妙な間隔で距離を保ち、つかずはなれずの位置で神妙に通りすがる。四方八方どこから見ても、その3人はぶつかることはない。

しかし、3人の姿が類似しているからか、そこに不思議と他者同士の冷たい断絶はなく、連続的で、まるで3体でひとつの人格を形成しているようにも感じられる。

そう思ったら、ふと、足早にすれ違う東京の群衆を想起した。

同じ人間が、しかし見知らぬ人間同士が、狭い空間を交差するときの、独特の連帯と疎外の入り混じった空気感。

見れば見るほど、その歩くスピードさえ想像できそうな気がしてくる。

「なんだか、不思議と人らしく感じるね」

「人間って動くものだからね。だから静止した写実的な像よりもそう感じるのかも」

隣にいた大学生くらいの3人組が、真剣な面持ちで話している言葉に、ナルホドと内心唸ってしまった。

 

もう一つの「広場、7人の人物とひとつの頭部」は、高さのまちまちな7人の立像に加え、なぜかひとつだけ大きさの違う人の頭部が佇む作品である。

(気に入ってポストカードも買ってしまった。画面左。)

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この作品を見て、「見えるものを見えるままに」という意味が少し咀嚼できた気がする。

タイトルの示す通り、広場を眺めたときに目に飛び込んでくる群衆の見え方と、よく似ていると感じたからだ。

手前にいる人、遠くにいる人、知人と他人。知らない人の像は、顔や容姿といった個性は見たそばから消えていき、ぼんやりしたおぼつかない存在感だけが残る。

それはまるで、人間の限られた視界の中で、他人を「認知」することの精神の動きが表されているようにも思われ、人の目に「見えるもの」がいかに刹那的であやふやであるかを考えさせられる。

 

また、ジャコメッティは、「書物のための下絵」というシリーズでリトグラフの作品も描いている。(ポストカードの真ん中)

どのスケッチも、彼らしくて何だか微笑ましい。

顔も服も描かれない単純な絵なのに、不思議とその人影たちが、手足を動かし、言葉を発し、せわしなく「生きて」いるように見えるのだ。

 

モデルを前にしてスケッチした作品も興味深かった。

説明によると、ジャコメッティは、生者を死者から隔てるまなざしを捉えることに執着し、モデルを見る毎に変化するわずかな異なり(これを彼はヴィジョンと呼んだらしい)を捉えようと試みたそうだ。

言われてみれば、それらはまるでモデルが身動きする一瞬一瞬の残影を重ね合わせた集合体のようにも見えてくる。

「見えるものを見えるままに」ということの奥深さに、思わず腕組みをして考え込んでしまった。

 

 

これまで私は、ジャコメッティの彫刻を、無駄な血肉を削ぎ落して掘り出した、人間の「核」の姿であるように感じていた。

でも、今回、その捉え方が少し改められた気がする。

ゆるぎない確かさを帯びた「核」という言葉で表すには、どうも様子が違うのだ。

どうやらジャコメッティの作品は、私たちの精神が他人を認知し、認知したそばから抜け落ちてかろうじて記憶に残った、頼りない人間の「残滓」の寄せ集めであるらしい。

記憶の中の人間認識は、ここまで細々としたものなのかと、拍子抜けするほどである。

 

しかし、表面上の装飾が記憶から零れ落ち、残った「残滓」が人の本質だとするのなら、その寄せ集めは人の「芯」であることに変わりはない。

視覚的に「見えるもの」は美しくても、時と共にうわべが淘汰され、最後に残る精神的に「見えるもの」がつまらなければ、「芯」も貧弱になる。

 

もしも、ジャコメッティに今の自分を写し取ってもらえるとしたら、その像はどんなふうに立つだろうか。

存在感と魅力のある、すっくと立った凛々しい姿であってほしいものである。

 

 

***

ジャコメッティ展は、9/4まで、国立新美術館にて開催中!

www.tbs.co.jp

「独り」を見つける写真|Find happiness in solitude

 

InstagramPinterestで写真を眺めていると、自分のツボが分かる。

例えば、陰影がくっきりした、人のいないエスカレーターの写真。

だだっ広い階段を、赤い傘を差した人が降りていく写真。

湖の真ん中に真っ白な白鳥が一羽浮かんでいるモノクロ写真。

コントラストも色彩も被写体も、ハッキリクッキリした、シンプルなものが好みらしい。

そういう写真を飽きずに眺めていたら、1年ほど前に撮った写真を思い出した。

 

 

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場所は神保町の駅。

この頃の私は、何だかすごく気疲れしていて、思考が同じところをぐるぐるして気持ちが前に進まず、とにかく現状にウンザリしていた。

漠然と、そこから抜け出す何かしらの刺激が欲しくて、そういえばずっと神保町行ってないな、久々に行こうかな、と重たい身体をひきずって、すがるように駅に着いた。

どの出口から出ようか迷いながら、でも考えるのも億劫で、適当に近くの出口を降りようと足を踏み出した。

 

すると、不思議と人が一人もいない。

降りた先は改札に通じているはずなのに、人の往来も見えず、立っている私の前にも後ろにも、誰もいない。

心なしか、空気もひんやりしている。

地下鉄特有の、地鳴りのような音が遠くに聞こえる。

都心の地下鉄の腹中に、たったひとり、残されたような感覚。

 

その不思議な一瞬の奇跡に、淀んでいた頭にごうっと風が吹いたような気がした。

前へ向く気持ちがむくむくと湧いてきた。

何が引き金になったのか分からないけれど、自分が自分の居場所にちゃんと戻ってくるような、ちゃんとここにいて、自分の足で歩いていることにやっと気付いたみたいな、そんな感覚に襲われた。

この心の震動を覚えておきたいと思って、奇跡的な風景が崩れる前にと、慌てて撮った写真だった。

 

 

今思えば、きっとあの頃は、人に会いすぎていたのだと思う。

人間は社会的な生き物なくせに、ずっと社会の中で歩き回っていると、社会環境や他者に「反応」するだけの、機械のように合理的なものになってしまうことがある。

それが行き過ぎると、自分が自分のものなのかすら認識しにくくなって、でも身体は相変わらずきちんと環境に反応して仕事したり話をしたり笑ったり食べたりするので、心と身体がちょっとずつ乖離して、心だけが置いてけぼりにされたような、貧しい気持ちになっていく。

そういうとき、独りになる瞬間が少しでもあると、自分を思い出せる。

遠くまで伸ばしすぎていた知覚や思考が、ぴたりと相応の場所に収まり、きちんと自分のものとして扱えるようになる。

それができると、自信がつく。

自信がつくと、前に進める。

 

 

英語には、”solitude”という言葉がある。

平べったく訳すと「孤独」となるが、同じ孤独でも、”loneliness”とは違う。

“loneliness”は、独りで寂しい。他者がいないことでぽっかりと空白ができる。そこには一人でありながらも他者の影がある。

でも”solitude”は、”solo”、つまり文字通り、単なる「ひとつ」あるいは「一人」であること。

そこには他者はいないから、空白もなければ虚無感もない。

ただ自分という人間だけがいて、しっかり存在している。

 

私が眺めていた写真や、一年前の神保町でのプチ奇跡が清々しかったのは、”solitude”の中に幸福な発見があるからだ。

湖の水面にひっそりと浮かぶ白鳥が、他の白鳥と比較せずとも圧倒的に美しいように、たとえ人の多い都会でも、他者を消した風景には、しっかりと人がひとり、立っているはず。

私は私。

そのことを忘れてしまったら、人間の生活は苦しい。

特に人の多い東京だから、たとえ一瞬でも、そんなふうに独りであることの幸福を発見する瞬間が大事なのだと思う。

 

 

***

"solitude" "photography"で検索してみたら、素晴らしい写真がたくさん出てきました。

たまには社交性を封じて、solitudeな写真を眺めてみるのはいかがでしょう?

 

www.stockvault.net

121clicks.com

 

芸術脳とロジカル脳|感性だけではつくれないもの

 

実はわたくし、特技は文章を書くことだけれども、本当は絵を描くことに憧れています。

しかも、アートが好きなくせに、本業は全然関係のないシステムエンジニアをやっています。

 

こんな支離滅裂な人間なので、時々自分の「できること」「したいこと」「向いていること」がごちゃごちゃになってしまうことが度々ある。

ので、今回は僭越ながら、自分の頭の中を整理してみたいと思う。

 

*** 

 

どうやら私の頭は元来、どちらかというと感覚的なことが得意らしい。

小説を書くときも、最初に物語があるのではなくて、いつも思いつくのは漠然としたイメージが始まりで、大概それは絵画的であることが多い。

例えば、「極彩色でサイケデリックな、激しい色づかいのイメージ」とか、「ノスタルジックな雰囲気で、セピアな色調の中にすうっと爽やかな水色の線が入っているような感じ」とか。

時々その情景に加えて、断片的な言葉や台詞、たまに音楽も合わさっていたりもする。

一度脳の働きを調べてみたいものだが、なんとなく、感性を司る左脳をより使っている気がしている。

(小説を書くのだから、言語を司る右脳もちゃんと駆使しないとマズイ気はするけど。)

 

じゃあ絵を描いたり映画を作る方がいいんじゃないの?と自分でも思うが、残念ながら、そっちはからきし才能がない。

時々絵の真似事をしてみることもあるが、結局、頭の中に浮かんでいる絵が全然上手いこと紙の上に出てきてくれないので、もやもやして消化不良になって辞めてしまう。

 

でも、慣れない絵を諦めて、馴染みの執筆作業に戻ってみると、

「案外、何かをつくる行為って、論理的なんだなあ」と改めて気づく。

 

頭の中のイメージを感性に従って自由に描いてみても、そもそも絵の基本も知らないから思うようにいかないし、全体の構図を決めてからでないと絵としては成り立たない。

色合いだって、例えば爽やかな色調にしたいというイメージはあっても、その雰囲気を漂わせるためにはきっと青や緑や白だけではだめで、細部には赤や茶色や黒だって使う場合もあるだろう。

 

建築に例えるともっと分かりやすい。

サグラダファミリアノイシュバンシュタイン城だって、アイデアだけで美しい建造物を作れるはずもない。

①全体像のコンセプトを決めて、②設計して、③どこから作るかプランをスケジュールを立てて、④どういう素材で作るかを決めて…

と、極めてロジカルだ。

 

そう考えると、アートをつくるということは、

「感性に基づく芸術的なものを、ロジカルに組み立てる」

という行為に近いのかもしれない。

 

言い換えるならば、

「芸術脳でゴールを描き、それをロジカル脳で形にする」

ということ。

 

だから、本当は絵が描きたいけど文章しか書けない私でも、やっていることの根幹は広く言えば同じなのかもしれなくて、そう考えると何だか自信が湧いてくる。

 

小説も、

①どんな話が書きたいかを決めて、

②全体の構成や章立てを決めて、

③各章の物語の流れを細分化して、

④各シーンを表現するのにどんな言葉を使うか考えて、

➄書き終わったら推敲する

と、その実は文学的でも情緒的でもなんでもなく、ロジカルに組立てていく作業だ。

 

さらに、本業のシステムエンジニアの仕事でも、

①要件定義→②基本設計→③詳細設計→④実装→➄テスト

と、不思議と似ている。

 

自分の憧れるものと、今の自分ができることが、すうっとひとつにまとまっていく感覚。

こういうことに気づくと、じんわり嬉しい。

 

アートへの憧れと、特技の執筆と、本業の仕事。

一見脈絡がないように見えて、実は共通項もたくさんありそうだ。

これから、もっとどんどん影響し合っていくといいなあ。

楽しみだなあ。

 

 

人間の生活と未来|些細な汚れが消えてしまうまえに

 

人間の生活は、どんどんキレイになっている。

 

適温に調整された室内、雨にぬれずに一日を過ごせる街、

掃除ロボット、ヘルスケアのアプリ、

カード決済、クラウドファンディングやネットビジネス、

ノンカフェインのコーヒー、ノンアルコールビール、タールを摂取しないで済むアイコス、健康志向のチョコレート。

 

服装を工夫してやり過ごしていた天候の煩わしさも、

手間のかかる住空間や身体のメンテナンスも、

面倒な金勘定や泥臭い肉体労働も、

快楽の代償に多少の害をこうむっていた嗜好品も、

できるだけ「汚れ」の少ない、効率的なものへ。

 

かくいう私も、ネットのサービスやアプリはどんどん活用するし、ノンカフェインコーヒーやカカオ70%のチョコレートにもハマっている。

この時代の流れを否定するわけでも肯定するわけでもないのだけれど、時々ふと、伊藤計劃の『ハーモニー』の世界が連想されてぞくりとすることがある。

 

『ハーモニー』は、SF小説だ。

デビュー作『虐殺器官』の続編でもあるが、単体で読んでも十分面白い。

ハーモニー (ハヤカワ文庫JA)

ハーモニー (ハヤカワ文庫JA)

物語の舞台となる未来は、「生命主義」と呼ばれる超・福祉国家

事故はおろか、病気さえ存在しない。

身体に悪い酒もタバコも当然世の中から一掃され、身体に埋め込まれたプログラムが常に健康を維持してくれる。子供が遊ぶジャングルジムまで、落ちたり頭を打ったりしないように、柔軟な素材で作られ、人工知能的なものを搭載しているという徹底ぶりだ。

社会全体でシステム化された究極の「健康管理」。完全無欠の共生社会。

そんなユートピアの中で、真綿で首を絞めるような緩やかなストレスが顕在化してくるところから、物語は動き出す。

高度な健康管理社会によって抑制されたのは、「自分の身体は自分のもの」という自律への欲求であり、その実感は、もはや「自分の意思で自分の体を汚す」ことでしか得られない。

この逆説が絶妙に面白い。

 

本の紹介はこれくらいにして、話を戻すと、

最近ますますキレイになっていく時代を歓迎する反面、心のどこかで、この『ハーモニー』で描かれた未来を恐れる気持ちがもたげてくるのだ。

ヒトも生物だから、元来は多少なりとも「汚れ」をまとうものであったはず。

クーラーの効いた室内から出て、コンクリートで熱せられた街を出て、田舎の自然の中に身を投じることで「生きた心地」がするのは、きっとその証拠だ。

かといって、原始的な生活に戻るのは多分不可能だし、私だって遠慮したい。

一度発展した文化や文明は退行し得ない、というのもどこかで聞いたことのある話だ。

だからやっぱり、『ハーモニー』ほど行き過ぎた社会にはならないにしても、人間の内外から、どんどん「汚れ」がぬぐいとられていくことは明白な気がする。

 

そうやって時代が行きつく先を考えていくと、人間の生活というのはつくづく不思議なもので、今の私たちの生活そのものが貴重な文化遺産であるようにも思われる。

 

例えば、

肌に吸い付く夏の湿気や、芯から冷える冬の寒さ、雨にぬれた靴の不快感、

浴室の排水溝を詰まらせる水垢の気持ち悪さ、

立ちっぱなしのアルバイト終わりの疲労感、散財したあとの財布のさびしさ、

カフェインの苦味、甘いものを取りすぎたときの幸福の入り混じった後悔、

アルコールが体内を回るだらりとした快感、

飲みすぎたときの胃がひっくり返るような吐き気と、脳天を刺し貫く頭痛。

できれば避けたいそれらの「汚れ」を、この先、ずっと遠い未来に、味わわなくてもよくなるとしたら。

映画や本や仮想現実で疑似体験することでしか、「汚れ」を享受できなくなるとしたら。

ただのノスタルジーかもしれないけれど、何だかそれはそれで切ない気もする。

 

時代の大きな変遷の中では、日常の瑣末な一喜一憂は、たちまち消え去ってしまうものだ。

喜ばしくも美しくもないちょっとした面倒ごとは、なおのこと早く消えていく。

だけど私は、そこに人間らしさがあるような気がしてならない。

だからこそ、そういう些細な醜さこそを、大事に描き留めておきたいものだと思う。 

 

 

***

SF小説は、人類規模、地球規模で世界が作られるからものすごい刺激になる。

『ハーモニー』とあともうひとつ、最近読んだ『大きな鳥にさわられないよう』も良かったのでぜひ。

 

360度の視界|技術の進歩が表現技法の常識を覆す?

 

暇つぶしにYoutubeで360度動画を見ていたら、ふと、宮崎駿監督がとあるドキュメンタリー番組で呟いていたことを思い出した。

細かいところはうろ覚えだけれど、確か、「カメラ技術の発展に伴ってアニメーションの表現方法も変化する」というような主旨だったと思う。

言われてみれば単純な話なのだが、そのときは目から鱗だった。

 

例えば、SFなんかで時間軸が戻るシーンには、逆再生の表現が使われていたりするし、生きるか死ぬかの緊迫した場面や感動的なシーンでは、スローモーションが効果的だ。

魚眼レンズの視点なんてのも、使われていたりするかもしれない。

改めて映像作品やアニメーションの表現技法を見てみると、なるほど、カメラ技術の発展が色濃く反映されている。

 

そもそも、私たちが何気なく見ている様々な映像作品の「視界」は、現実のそれとは歴然とした違いがある。

物語の臨場感や、リアルな心の動きを表現するには、そのまま現実を真似ればよいというものではないのだ。

これは映像に限ったことではなく、小説でも同じで、ただ登場人物の言動や気持ちを説明するだけでは、ただのナレーションになってしまう。

普段私たちが生きていて何気なく感じ取っているものを、いかに効果的な「肉付け」をして表現するか。そこが創作者の腕の見せどころ。

 

前置きが長くなってしまったけれど、

要するに、

最近になって登場した360度カメラの視界も、表現技法に応用できないものかしら?

とふと思ったのだ。

 

実際、360度の視界で鑑賞できるアニメーションは、すでにごまんとある。

では、小説は?

 

これまでは、「主人公が見えていないはずのものを描写するのはNG」というのが基本中の基本だった。

一人称に限らず、三人称一元視点(語り口は三人称だけれども視点は主人公の五感を借りて書く。最近の小説はもっぱらコレ)であっても、ルールは同様だ。

が、もしもこの先、360度動画の視界が当たり前になったとしたら?

情景描写も360度の視界で書く、なんてアリなんだろうか?

これまでのタブーが覆されて、表現技法のひとつになったりするのだろうか?

アリかナシかは分からないが、そうやって文学の未来を妄想してみると、もう絶対的なルールなんてどこにもないような気がしてドキドキする。

 

映像芸術の分野では、早くも視界は360度。

芸術表現の可能性はますます広がっていきそうだ。