矛盾と越境|芸術の臨界点をどう超えるか
最近、芸術と言われるものが、総じて頭打ちになっているような気がしてならない。
専門家ではないのでこれは個人的な感覚に過ぎないのだけれど、それぞれの芸術の在り方や定義、あるいはそれぞれの「枠」に納まってきたものが、飽和状態になっている、というか。
絵画なり小説なり映画なり、それぞれの芸術が棲み分けてきた「じぶんち」がもうパンパンに膨れあがってしまって、その中に納まるには、もう臨界点に達している。そんな感じ。
たとえば絵画は、平面上に表現する二次元の芸術であり、現実に見えるものの模写から始まって、印象派やキュビズムやシュルレアリスムを経て、モンドリアンやロスコのようなものにまで発展してきた。
しかし、作品の内容には「新しさ」はあれど、表現方法としては、何だかもうこれ以上新たな領域へ発展するには苦しいというか、絵画という枠そのものが狭くて窮屈になってきている気がする。
モダンアートの展覧会に行くと、絵画よりも圧倒的にインスタレーションやパフォーマンスが多いのは、もしかしたらそういうことなんじゃないだろうか。
小説でもまたしかりで、芸術としての純文学は、もはや古典的な風情が漂っていて、紙の本や文芸雑誌で淡々と読まれるばかりで、このご時世にも関わらず、これといった劇的な「シフト」は生まれていない。
もちろん内容は時代を投影した新しくて面白いものばかりだし、文章表現もどんどん変化してきている。が、これも文学という枠としては、せいぜい電子書籍化されたくらいのもので、あまり変わり映えがしないのだ。
作る枠がそうなら鑑賞する側もしかりで、もはや「文字だけで書かれた長い物語をひたすら読んで考え事をする」という純文学の読み方そのものが、古くなって、渇望する人が減ってきて、分かりやすいキャッチーな物語ばかりがとにかく大量消費されていく。
奥深くて素晴らしいものはたくさんあるのに、世間から置いてけぼりを食らっているようで、これまた純文学好きとしてはとってもさびしい。
もちろん、何でもかんでも未来的な変化を求めているわけではないし、古典は古典のまま、その魅力を消さないでいてほしいという気持ちもある。
とはいえ、その古くなりつつある「枠」のせいで良い作品が下火になってしまうのは、あまりにも悲しすぎる。
だからこそ、芸術の新しいかたちを私は見てみたい。
もしくは、できることなら、自分で探してみたい。
じゃあどうやって探すか?
その方法は、「矛盾を肯定すること」「越境すること」じゃないかと思う。
絵画は無言で平面的だけど、もしかしたら音のある絵を作れるかもしれない。
小説には色がないけれど、もしかしたら視覚的な小説を作れるかもしれない。
映画には文字がないけれど、映画を読むという概念もありかもしれない。
そうやって、共存しえないと思い込んでいたものを肯定して、矛盾だったものを新しい芸術のかたちとして定義してしまう。
芸術それぞれが棲み分けてきた、従来の境界線を越えてしまう。
そうすることで、何か新しい画期的な芸術のかたちが誕生するのではないか。
それって、とてつもない可能性にあふれているし、何よりも、ものすごく楽しそうじゃないか!!
これまでの芸術のかたちが頭打ちになっているこの時代。
実は新しいアートの始まりなんじゃないかと、ひそかにワクワクしている。