ルドン―秘密の花園|いのちとことばの芽吹き
二カ月ほどものを書くことから離れていて、随分とご無沙汰になってしまった。
スランプというのか、どうにもこうにも言葉が出てこず、ただただ飢えたように読むばかりの二か月間だった。
自分のことばを文字で綴っていくという行為そのものが、まるではらわたに刃を入れて血を絞り出すような、途方もなくしんどい作業に感じられて、書こうとしても、どうしても怖くて書けなかった。文字に昇華できない思考ばかりが渦巻いて、苦しかった。
それが先日、ルドン展に行ってみたら、ことばがようやく動きだしたので、勇気を出して筆を取ってみようと思います。
ルドンといえば、森の上に一つ目の巨人がのっそりと立っている絵が鮮烈に残っていて、個人的には「目玉の絵」というイメージが強い。
(後から知ったが、一つ目の巨人は、キュクロプス(もしくはサイクロプス)というギリシャ神話に出てくる生物らしい。よくルドンがモチーフにしたのだそう。)
が、優雅な三菱一号館美術館で催されていたルドン展の副題は、「秘密の花園」。
ポスターを見ても、随分と上品な絵なので、ルドンとは一体何者なのか、初めて対面するつもりでどきどきしながら足を踏み入れた。
作品は、大きく分けて、無彩色と彩色に二分される。
リトグラフや木炭、エッチングで描かれた白黒の不気味な絵と、色彩豊かで穏やかな筆致の油絵や水彩画。一見すると同じ画家とは思えないが、作品をひとつひとつ見ていくにつれて、一貫したテーマが見え始める。
絵画の中で、胞子のようにふわふわと漂う何か。
不気味だがどこか滑稽で物憂げな人面花。
ふけばふっと散ってしまう綿のように、幻めいた淡い草花。
じっと見ていると、鼻がむず痒くなってきそうな絵。
説明によれば、ルドンは植物学者と親しく、木々や草花、動植物の存在に多大な関心を持っていたらしい。
顕微鏡の普及や、天体望遠鏡の発展、ダーウィンの進化論と時代を同じくしたことも、大きな影響を及ぼしたのではないかと考えられているそうだ。
それまで見えなかったものが、見え始めた時代。
それは一体、人をどんな気持ちにさせただろう。
私たちは何者なのか?生命とは何か?
きっと、そんな気の遠くなるほど大きな問いに、直面したのではないだろうか。
ルドンが描いたリトグラフのシリーズは、タイトルを見ても非常に興味深い。
「植物人間」や「孵化」「発芽」といった分かりやすいものから、
「おそらく花の中に最初の視覚が試みられた」(『起源』II)
「不格好なポリープは薄笑いを浮かべた醜い一つ目巨人のように岸辺を漂っていた」(『起源』III)
「目に見えぬ世界は存在しないのか?」(『陪審員』V)
など、実験的な表現や、作品自体を通して問いを追求するような姿勢もうかがえる。
ルドンは、見えないもの(あるいはそれまで見えていなかったもの)を視覚表現の舞台に引っ張り出し、それらにタイトルをつける行為によって、科学の進歩と共にゆらぎはじめた世界認識と、向き合おうとしたのではないか。
科学によって暴かれた世界を神話と結び付けてみたり、植物と人間を混合させてみたり、様々な実験をしながら、「いのちとは何か?」を問い続けたのではないか。
そんなことを考えながら、今一度、咲き誇る花の絵と対面すると、普段なら「キレイだなあ」で済ませてしまうはずの花々が、何だか摩訶不思議な生命の神秘に見えて、ざわざわと胸が騒いだ。
見終わったあとは、ルドンの草花の余韻に浸りつつ、バラの花が可憐に咲き誇る中庭をゆっくりと歩いた。
すると、頭の中に、”bloom”という英単語が浮かんだ。
「花が咲く」という意味の言葉だが、日本語に訳そうとすると、とても含蓄のある言葉だ。
芽吹く。息吹く。開花する。栄える。咲き誇る。
奇妙な胚芽のような人面花が闇に浮かぶ絵画は「芽吹く」と表現したいし、様々な花が可憐に咲き誇るブーケの絵は「いのちあふれる」と表現したい。
そう思ったとき、私自身も、ことばが”bloom” していくような――芽吹き、花開いて、次々と咲き誇り、種子を飛ばし、いのちあふれるような――静かで壮大で神秘的な気持ちに襲われた。
命の在り方を追求したルドンの絵画と、目の前で美しく息吹く草花のおかげで、自分のことばが再び発芽する、豊かな潤いを感じることができた。
思えば、思うように書けなかったこの二か月間、私の思考はずっと自分の内側を向いていて、風の通らない密室のような状態だったのだと思う。
使えることばは次第に底をつき、部屋中に同じ思考ばかりが停滞する。息が詰まって、文字に起こして昇華する余裕すら持てなくなる。
ちょうど、空気や水のないところでは生命が育たないのと同じだ。
きっと、いのちもことばも、外界と触れて初めて、息吹くものなのだろう。