クラシック音楽の自由
先日、ピアニストの友人が出演するコンサートへ行ってきた。
ちなみに私は、クラシック音楽に詳しいわけでは全くなく、時々不思議とハマるものがあるとそればかり聞いて満足するという、
偏りの激しい、そして一向に教養として身に着かない「にわかファン」である。
子供でも知っている音楽家の偉人たちが、それぞれいつの時代の「何派」に代表されるのかすら怪しいくらいのにわかだが、
クラシック音楽を聴くこと自体は結構好きなほうだ。
コンサートは、モーツァルトからブラームス、ショパン、ドビュッシーなどなど多彩で、断片的にしか触れてこなかった私としては、それぞれの違いに驚かされた。
映画音楽のようにドラマチックで情緒的なブラームスの曲や、ショパンの壮大な舞台劇を見るような物語性の高いバラード。
かと思えば、ドビュッシーはより刹那的で、空気と光そのものを写し取るような幻想的な風景が広がる。
特に、あまりなじみのなかったシェーンベルクの「無調」「十二音技法」なる音楽には驚いた。まるでカンディンスキーやミロの抽象絵画のように、眠りと目覚めの狭間で、物語や情景として整然とする前の起源的ななにかを掴み取ろうとするような、サイケデリックで不思議な体験だった。
実に多彩なそれらの音楽に、時折目を閉じて耳を澄ませていると、クラシック音楽の自由さに圧倒される。
歌詞のついた現代音楽にも、情緒的で詩的な魅力がもちろんある。
けれど、言葉は時に、人の想像力を規定化し、不自由に制限してしまうこともある。
その点、言葉を持たない音楽は、どこまでも自由だ。
風景の移り変わりも、空気の肌触りも、登場する人々それぞれの心情や人生、もしかすると人類の歴史さえも、すべてを表現できる可能性を秘めた音楽。
言葉を使って表現するしか術を持たない私にとっては、なんともうらやましい限りだ。
でも。
と、コンサート会場から余韻を大事に持ち帰りながら、夢を膨らませて私は考える。
無調の音楽があるのなら、物語のない小説があってもいい。
生演奏の音楽のように、流れて消えていってしまう刹那的な物語というのも面白い。
音楽や絵画をテーマにした小説は数多くあるけれど、
私は、音楽や美術が表現しようとする「なにか」そのものを、あるいはその表現技法そのものを、言葉で模倣してみたい。
芸術が、人間が問い続ける「なにか」を表現する手段でしかないのなら、不自由な言葉にも、きっと言葉でしか表現できない自由の領域があるはずではないか。
そんなおこがましくも自由気ままな思考を膨らませながら、素人の私はまた、芸術のつまみ食いをしていくのである。
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