「鑑賞」とは何か|デトロイト美術館展の大混雑
東京で開催されている美術展に行くと決まって、芸術作品の見方について考える。
絵画をいかに解釈するかとか、どういうふうに鑑賞するべしとか、そういう頑固親父みたいな説教を垂れるつもりなのではなくて、「絵を見る場の様子や雰囲気って、どれほど鑑賞者の心に影響を与えているのかなあ」と思うのだ。
なぜこんなことを思ったのかというと、昨日が最終日だった「デトロイト美術館展」が、あまりの大混雑だったのである。
もともと私は専らピカソ率いる20世紀美術が大好きなので、広告を一目見てこれは行かねばならぬとずっと思っていた。思っているくせに最終日になってようやく足を運んだというのは、ひとえに私自身の行動力のなさが原因であることは認めるが、それにしても、ちょっとあれは人が多すぎた。
チケットを買うまで15分以上費やし、中に入れば尋常でない人だかり。
ポスターにゴッホの自画像が推されていたせいか、それほど大きくもない控えめな自画像を、大勢の人が押し合いへし合いしながら、これでもかと目を凝らして覗き込んでいたのには正直閉口してしまった。繊細で気難しいゴッホさんが見たら大変なことになりそうだ。
(ゴッホについてはこちらの記事でも詳しく書いています。ご興味ある方はこちらも是非。)
artinspirations.hatenablog.com
デトロイト美術館展はやはり有名どころが揃っていたし、大勢の人が訪れるというのも納得できる。作品自体には変わりがないし、なるほど素晴らしいものばかりだった。
それなのに、どうしてこうも頭がごちゃごちゃして感想が書きにくいんだろう?
なんだか、自分自身が持つ本当の感想と、その絵に対する一般論的な評価がごちゃまぜになって、自分でも自分がどう感じたのか分からなくなるようなのだ。大勢の人がそれぞれに感じているものに影響されて引っ張られてしまう、という感じがする。特に感想を喋ったりしている人がいると尚更のことである。
つまるところ、絵画を見るときには、あまり人がいると絵に集中できないらしいのだが、ここは読書とは違うところだなあと思ったりする。
読書というのは極めて個人的な行為だから、電車の中でも駅でもカフェでも、大型書店の立ち読みでも、他人がいても比較的入り込みやすい。対して絵画鑑賞となると、ひとつひとつ贅沢なスペースを割り当ててあげなければ互いの絵が邪魔をしてしまうし、見る側だって押し合いへし合いしてしまうとどうしても注意が散漫になり分かりにくくなる。
じゃあどうしたらいいんだろう。東京はどうしても人が多いから混雑は避けられないし、もしかすると、もっと別の鑑賞方法もあるんじゃないだろうか。
例えば、どうしてクラシック音楽はコンサートホールの定員があるのに、絵画は入場制限がないんだろう。
どうして椅子に座って鑑賞できる美術館が少ないんだろう。
ブックカフェなんてものが登場しているのに、どうして絵画を鑑賞できるカフェみたいなものはできないんだろう。
そもそも絵画ってどうやって見るものなんだろう。
品質管理で明るい光にさらしちゃいけないとかそういう話は置いておいて、「鑑賞」という行為について考えを巡らせるのは結構面白いものだ。
「芸術作品というのは、見る者がいて初めて完成する」
というようなことを語っている芸術家や作家や演出家は多い。
「どう見るか」ということは、結構アーティストにとっての重要課題かもしれない。
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言い訳になりますが、今回のデトロイト美術館展は大混雑の影響で考えがまとまらず、感想を書くことができませんでした。
素晴らしかったのですが、どうしてだか言葉にならないのです。。
まだまだ力不足ですかね。精進します。