詩集を、久しぶりに読んだ。
茨木のり子の『自分の感受性くらい』という詩集。
詩集のタイトルにもなっている詩をいつかどこかで読み、衝撃を受けたのを今でも覚えていて、手元に置いておきたくなって先日購入した。
なんか毎日おもしろくないなあ、最近愚痴が多くてやだなあ、と心がすさんできたときに、シャキッと襟を正し、自律心を取りもどし、背筋を伸ばしてくれる大事な詩だ。
詩集を購入したのと同じ時期に、筒井康隆の『残像に口紅を』という小説も読んだ。
こちらは、「あ」からはじまって世界からどんどん「音(おん)」が消えていくという、前代未聞の実験的小説である。少々頭は使うが、限られた言葉で小説はどこまで小説たり得るか、あるいはその中で生きている主人公の世界はどこまで消えずに残っていられるか、音が消えたことで消えてしまった言葉はそのもの自体の消失を意味するのか、などと様々な考察ができて、なかなか面白い。
言葉について、うーんと考えこんでしまう小説だった。
思えば、私がものを書き始めるようになったきっかけは、詩が始まりだった。
子供の頃は工藤直子の詩が好きで、その後に金子みすゞの詩に惹かれ、谷川俊太郎に感動し、『自分の感受性くらい』で生き方を学んだ。
言葉ってすごい。
そう感じたのが、言葉への探求心が芽生えたきっかけだったように思う。
それなのに、大人になってからは言葉自体に目を向けることは少なくなってきて、小説のストーリーやテーマ性を考えてばかりだった気がする。
だから、『残像に口紅を』を読んではっと我に返った。
言葉ってすごい。
いや、そもそも言葉とは何だろう。
『残像に口紅を』の終盤では、文を主語述語の型に従って書くこともままならなくなり、単語や効果音の羅列になっていくが、それでも、ぼんやりとした情景を浮かべることは可能だ。ものの指し示す記号としての役割を越え、それらを緻密に組み合わせて設計して建築していくことで、ひとつの世界や概念が生まれる。
考え始めると、かなり形而上的というか、宇宙のなりたちを考えはじめてしまったときみたいに壮大すぎて頭がくらくらしてくる。
そしてふと、絵を描くことと非常に似通っていることに気付く。
もともと絵画を構成する色というものは、「青色」や「赤色」という個々のものでしかないが、それらを複雑に混ぜ合わせていくことで無限の色が生まれ、絵画ができ、世界がそこに浮かび上がる。
あるいは音楽も同じ。
ひとつひとつの音だけでは何の意味もなさないが、それらが連なることで音階が生まれ、重なって和音になり、ひとつの曲が出来上がる。
文学は、言葉で描く絵画かもしれない。
まだまだ稚拙なものしか書けないけれど、絵を描くように、私はやっぱり、言葉で何かを作り続けたいと思う。
そんなことを、2冊の本から再確認させてもらった週でした。
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