Art Inspirations

素人作家のメモ箱

アートと活字を愛するアマチュア作家が運営するブログ。

ジャンルを超えて、広義の「アート」から得た様々なインスピレーションやアイデアを文章で表現していきます。
絵画、彫刻、インスタレーション、音楽、ダンス、デザイン、ファッション、建築などなど。





人間の生活と未来|些細な汚れが消えてしまうまえに

 

人間の生活は、どんどんキレイになっている。

 

適温に調整された室内、雨にぬれずに一日を過ごせる街、

掃除ロボット、ヘルスケアのアプリ、

カード決済、クラウドファンディングやネットビジネス、

ノンカフェインのコーヒー、ノンアルコールビール、タールを摂取しないで済むアイコス、健康志向のチョコレート。

 

服装を工夫してやり過ごしていた天候の煩わしさも、

手間のかかる住空間や身体のメンテナンスも、

面倒な金勘定や泥臭い肉体労働も、

快楽の代償に多少の害をこうむっていた嗜好品も、

できるだけ「汚れ」の少ない、効率的なものへ。

 

かくいう私も、ネットのサービスやアプリはどんどん活用するし、ノンカフェインコーヒーやカカオ70%のチョコレートにもハマっている。

この時代の流れを否定するわけでも肯定するわけでもないのだけれど、時々ふと、伊藤計劃の『ハーモニー』の世界が連想されてぞくりとすることがある。

 

『ハーモニー』は、SF小説だ。

デビュー作『虐殺器官』の続編でもあるが、単体で読んでも十分面白い。

ハーモニー (ハヤカワ文庫JA)

 

物語の舞台となる未来は、「生命主義」と呼ばれる超・福祉国家

事故はおろか、病気さえ存在しない。

身体に悪い酒もタバコも当然世の中から一掃され、身体に埋め込まれたプログラムが常に健康を維持してくれる。子供が遊ぶジャングルジムまで、落ちたり頭を打ったりしないように、柔軟な素材で作られ、人工知能的なものを搭載しているという徹底ぶりだ。

社会全体でシステム化された究極の「健康管理」。完全無欠の共生社会。

そんなユートピアの中で、真綿で首を絞めるような緩やかなストレスが顕在化してくるところから、物語は動き出す。

高度な健康管理社会によって抑制されたのは、「自分の身体は自分のもの」という自律への欲求であり、その実感は、もはや「自分の意思で自分の体を汚す」ことでしか得られない。

この逆説が絶妙に面白い。

 

本の紹介はこれくらいにして、話を戻すと、

最近ますますキレイになっていく時代を歓迎する反面、心のどこかで、この『ハーモニー』で描かれた未来を恐れる気持ちがもたげてくるのだ。

ヒトも生物だから、元来は多少なりとも「汚れ」をまとうものであったはず。

クーラーの効いた室内から出て、コンクリートで熱せられた街を出て、田舎の自然の中に身を投じることで「生きた心地」がするのは、きっとその証拠だ。

かといって、原始的な生活に戻るのは多分不可能だし、私だって遠慮したい。

一度発展した文化や文明は退行し得ない、というのもどこかで聞いたことのある話だ。

だからやっぱり、『ハーモニー』ほど行き過ぎた社会にはならないにしても、人間の内外から、どんどん「汚れ」がぬぐいとられていくことは明白な気がする。

 

そうやって時代が行きつく先を考えていくと、人間の生活というのはつくづく不思議なもので、今の私たちの生活そのものが貴重な文化遺産であるようにも思われる。

 

例えば、

肌に吸い付く夏の湿気や、芯から冷える冬の寒さ、雨にぬれた靴の不快感、

浴室の排水溝を詰まらせる水垢の気持ち悪さ、

立ちっぱなしのアルバイト終わりの疲労感、散財したあとの財布のさびしさ、

カフェインの苦味、甘いものを取りすぎたときの幸福の入り混じった後悔、

アルコールが体内を回るだらりとした快感、

飲みすぎたときの胃がひっくり返るような吐き気と、脳天を刺し貫く頭痛。

できれば避けたいそれらの「汚れ」を、この先、ずっと遠い未来に、味わわなくてもよくなるとしたら。

映画や本や仮想現実で疑似体験することでしか、「汚れ」を享受できなくなるとしたら。

ただのノスタルジーかもしれないけれど、何だかそれはそれで切ない気もする。

 

時代の大きな変遷の中では、日常の瑣末な一喜一憂は、たちまち消え去ってしまうものだ。

喜ばしくも美しくもないちょっとした面倒ごとは、なおのこと早く消えていく。

だけど私は、そこに人間らしさがあるような気がしてならない。

だからこそ、そういう些細な醜さこそを、大事に描き留めておきたいものだと思う。 

 

 

***

SF小説は、人類規模、地球規模で世界が作られるからものすごい刺激になる。

『ハーモニー』とあともうひとつ、最近読んだ『大きな鳥にさわられないよう』も良かったのでぜひ。

 

360度の視界|技術の進歩が表現技法の常識を覆す?

 

暇つぶしにYoutubeで360度動画を見ていたら、ふと、宮崎駿監督がとあるドキュメンタリー番組で呟いていたことを思い出した。

細かいところはうろ覚えだけれど、確か、「カメラ技術の発展に伴ってアニメーションの表現方法も変化する」というような主旨だったと思う。

言われてみれば単純な話なのだが、そのときは目から鱗だった。

 

例えば、SFなんかで時間軸が戻るシーンには、逆再生の表現が使われていたりするし、生きるか死ぬかの緊迫した場面や感動的なシーンでは、スローモーションが効果的だ。

魚眼レンズの視点なんてのも、使われていたりするかもしれない。

改めて映像作品やアニメーションの表現技法を見てみると、なるほど、カメラ技術の発展が色濃く反映されている。

 

そもそも、私たちが何気なく見ている様々な映像作品の「視界」は、現実のそれとは歴然とした違いがある。

物語の臨場感や、リアルな心の動きを表現するには、そのまま現実を真似ればよいというものではないのだ。

これは映像に限ったことではなく、小説でも同じで、ただ登場人物の言動や気持ちを説明するだけでは、ただのナレーションになってしまう。

普段私たちが生きていて何気なく感じ取っているものを、いかに効果的な「肉付け」をして表現するか。そこが創作者の腕の見せどころ。

 

前置きが長くなってしまったけれど、

要するに、

最近になって登場した360度カメラの視界も、表現技法に応用できないものかしら?

とふと思ったのだ。

 

実際、360度の視界で鑑賞できるアニメーションは、すでにごまんとある。

では、小説は?

 

これまでは、「主人公が見えていないはずのものを描写するのはNG」というのが基本中の基本だった。

一人称に限らず、三人称一元視点(語り口は三人称だけれども視点は主人公の五感を借りて書く。最近の小説はもっぱらコレ)であっても、ルールは同様だ。

が、もしもこの先、360度動画の視界が当たり前になったとしたら?

情景描写も360度の視界で書く、なんてアリなんだろうか?

これまでのタブーが覆されて、表現技法のひとつになったりするのだろうか?

アリかナシかは分からないが、そうやって文学の未来を妄想してみると、もう絶対的なルールなんてどこにもないような気がしてドキドキする。

 

映像芸術の分野では、早くも視界は360度。

芸術表現の可能性はますます広がっていきそうだ。

日本語で雨を読む

 

今日の都心は雨。

沖縄・奄美は早くも梅雨入りだそうで、そういえばもうそんな季節かと驚く。

 

雨ってやだなあ。

 ・・・とは思わず、私は結構雨が好きだ。

 

特に、休日の雨は何だか空気が落ち着いていて良い。

雨音に紛れて喧噪も少し遠のく気がするし、普段はうるさい車の音も、波音みたいに聞こえて穏やかになる。

この季節はさほど寒くもないので、家の窓を開けて雨音を聞き、湿り気を含んだ涼しい空気に吹かれながら、コーヒーをいれて読書、なんていう至福のときも味わえる。

晴れの日は晴れの日で活動的な気分になって楽しいけれど、雨の日は、色々と無理して焦らなくても良いような、迷走していたのが整ってしっくりくるような、何だか自分がちゃんと自分のサイズに収まる感じがするのだ。

 

雨の魅力に気づいたのは、学生の頃、アメリカ留学から帰国したときだったと思う。

帰国後初めて雨が降った日、雨の美しさにハッとした。

乾燥した土地が多いアメリカの気候に慣れていたせいか、日本の自然の豊かさには本当に驚かされる。

田舎道をちょっと車で走れば、勇壮な山々が一望できるし、植物も土も、艶があって深い色をしている。そこに雨が降ると、葉や枝や土や瓦や、実に様々なものに雨粒が当たって、結構複雑な雨音を立てる。雨の匂いも、土や木々の香りが混ざって濃く感じる。濡れた深緑の葉は、ますます艶を増して輝きだす。

日本の雨は、とても綺麗だ。

 

 

この日本の雨の美しさは、言葉によって証明されていると思う。

英語だと”rain”という単語一つで終わってしまうが、それを日本語で表現しようとすると、驚くほど多種多様な「雨」があることに感動する。

類語辞典でちょっと調べてみるだけでも、こんな感じだ。

 

小雨(こさめ)

細雨(さいう)

霧雨(きりさめ)

糠雨(ぬかあめ)

涙雨(なみだあめ)

豪雨(ごうう)

雷雨(らいう)

暴風雨(ぼうふうう)

篠突く雨(しのつくあめ)

しぶき雨(しぶきあめ)

氷雨(ひさめ)

慈雨(じう)

霖雨(りんう)

遣らずの雨(やらずのあめ)

暮雨(ぼう)

村雨(むらさめ)

驟雨(しゅうう)

日照り雨(ひでりあめ)

狐の嫁入り(きつねのよめいり)

春雨(はるさめ)

五月雨(さみだれ

夕立(ゆうだち)

時雨(しぐれ)

【引用:柴田武・山田進編『類語大辞典』、2002年、講談社、8708i】

 

さらに調べてみると、

巌雨(がんう):海岸に突き出た岩など、巌に降る雨

そぼ降る雨(そぼふるあめ):しめやかにしっとりと降る雨

車軸を流す(しゃじくをながす):車輪のような太い雨脚の雨が降ること

雨募る(あめつのる):雨がますます激しくなること

雨癖(あめぐせ):癖がついたように雨がよく降ること

卯の花腐し(うのはなくたし):卯の花を腐らせるほどに降り続く霖雨

銀竹(ぎんちく):光線を浴び、光り輝いて降る雨

【引用:倉嶋厚・原田稔編著『雨のことば辞典』、2014年、講談社学術文庫

なんていう珍しい表現もあるらしい。

他の言語では、たとえ形容詞をもってしても、果たしてここまで繊細に雨を表現できるだろうか?

 

これから梅雨の季節。

靴は濡れるし、どんより暗いし、せっかくの心地よい季節なのに遊びにも行けない。

長雨が続くと精神的に病みやすくなるらしいという話も聞く。

それでも私は、雨を形容する言葉がこんなにも豊かな国ならば、なんとなく、大丈夫な気がするのだ。

 

 

***

こちらは私の大好きな本です。外に遊びに行けない雨の休日にどうぞ。

雨のことば辞典 (講談社学術文庫)

雨のことば辞典 (講談社学術文庫)

 

生活空間がもたらす情報と思考のバランス

 

このGWで人の家にお邪魔する機会が何度かあり、ふと自分の部屋を見回したら、やたら情報が多いことに気が付いた。

 

私は元々部屋づくりが好きなたちで、しょっちゅう模様替えをしてインテリアコーディネートの真似事をしては、ああでもないこうでもないと理想の部屋を模索するのが好きだ。

その結果、壁には、好きな画家の絵とか、気に入ったイラストとか、英語の格言とか、工夫を重ねた額縁がいくつも並んでいる。

時々、見飽きてきたポスターを最近行った美術展のポスターに取り換えたり、心境の変化に応じて格言を変えてみたりして、ベッドに腰かけて部屋を見回し、ニンマリする休日がどうにも楽しくて仕方がない。

最近は、考え事や執筆のアイデアを取りこぼすまいとして、机周りの壁にも浸食してしまい、メモ書きや資料やパンフレットが所狭しと貼ってある始末だ。

さらにベッド脇の棚は常に積読本で溢れかえっていて、気分が乗れば、いつでも手あたり次第に乱読できるようになっている。

まさしく、執筆環境をレベルアップするべく築き上げた、私の城である。

 

そんな自慢(というか自己満)のマイルームなのだが、立て続けに色んな人の家を覗いたあと家に帰ってみたら、ちょっとくらくらしてしまった。

今までは意識しなかったが、やたらと情報が多いのだ。

ベッドに座れば、リラックスするどころか、頭はどんどんフル回転する。

あの額縁に掲げてある格言と似たようなテーマの啓発本、そういえばこないだ買ったんだったなあ、と思い出して積読本に手を伸ばそうとすると、その横に並んでいる別の小説や学術書に目がとまり、その時の興味関心が蘇って、それが壁の絵画にリンクしたりして、そこから思いついた執筆のネタが書かれたメモに視線が行き、ああそうだこれ書こうと思ってたんだ、あ、でもそういえばその前にこれもやらなきゃ、まずはこの作業をしてから…

といった具合で、気付いたらパソコンを開いてカタカタ。そしてまた何か思いついて走り書きをして壁にペタリ。

頭が休まるときがない。

私が目指した理想の創作部屋には限りなく近づいているので嬉しいのだが、これはちょっと、情報過多で脳には負担なのではないか。

特に、GWで完全にオフっていた脳には少々プレッシャーが過ぎたようで、何だか自分の部屋にいるのに疲れてしまった。

 

考えてみると、私たちが暮らしている空間は、普段気づかないうちに、人の行動に多様な影響を与えているようだ。

例えば美術館という空間は、創作意欲が刺激されるので、私の場合、美術館に行ったあとは不思議と執筆が捗ったりアイデアを思いつきやすかったりする。

図書館や書店に行くと、自分の知らないことがこんなにある!という事実を突きつけられて、謙虚な気持ちになると同時に、学習意欲がむくむくと湧き上がってくる。これはネット書店では実感できない、まさに空間がもたらす感覚だろう。

これはもっと広範囲の空間でも同様に言えることで、例えば広告や宣伝文句にあふれ返った街中を歩くと、自分が必要としているものがあれもこれもあるような気がして、急に欲求が膨らみ、意味もなく焦燥感に駆られたりする。

言うなれば、これらの空間が持つそれぞれの特性を、私の部屋は一挙に引き受けてしまっているようなのだ。

 

絵画もあれば文字もあり、やりたいこと、やらねばならぬことを意識下でリマインドしてくるメモまで並んでいる。

おかげで怠けることはあまりないし、こういうブログの執筆にはもってこいなのだが、何かがかえって見えにくくなってはいないだろうか。

「寝室に本や電子機器を持ち込むと安眠を妨げる」といった類の話は、最近雑誌でもテレビでもよく耳にする。

それと同じで、自分自身と向き合うことのできる唯一の空間であるはずの自室に、情報があふれかえっていたら、「自分を妨げる」なんてことになりかねない。

 

アートなり文学なり、好きなものを追求して、高めていくのは楽しい。

が、それ自体が目的になって、いつしかタスクになり、自分が本当にやりたいこと、本当に知りたいこと、本当に書きたいことを、見失うような生活になってしまったら本末転倒だ。

好きだからと言って、何でもかんでも取り入れるだけでは、どうやら見えなくなるものもあるらしい。

外の空間からもたらされる「情報」と、自分の内側にあるはずの「思考」を混同しないように、今一度、自分が暮らす環境を見つめ直してみるのも良いかもしれない。  

 

ミュシャ展|スラヴ叙事詩の重厚な魅力

 

さて、先週の国立新美術館ではミュシャ展も見てきたので、今週はそちらの感想を。

www.mucha2017.jp

 

ミュシャといえば、タロットカードのようなイラストがまず頭に浮かぶ人が多いのではないだろうか。

精密な長髪の女神が描かれていて、背景には、意味は分からないけど何やら素敵な外国語が書かれた魔法陣みたいな円があって、呪文を唱えたらその女神を召喚できそうな雰囲気。

中高生が喜びそうな、いかにもファンタジックな絵だ。

そんなイメージだから、偏屈なシュルレアリスム絵画ファンとしては、正直なところ、自分の好みの範疇には入っていなかった画家だった。

 

ところが、あなどるなかれ。

話題になっている「スラヴ叙事詩」のシリーズが、とてもとても素晴らしかった。

ミュシャおなじみのファンタジックな世界観に、平和への真摯な祈りと、故郷への愛とが絶妙に混ざり合った、ドラマチックな傑作揃いだった。

 

スラヴ叙事詩というのは、ミュシャが晩年になって描き上げた巨大な作品群のことで、その大きさは各々が縦6メートル、横8メートルにも及ぶ。

私たちが見慣れたポップなミュシャのイラストは、まるで巨大なキャンバスの中に解き放たれて真の姿を取り戻したかのように、たちまち重厚な絵画になり、どの作品にも雄大な物語が広がっている。

それはまさに「スラヴ叙事詩」の名の通り、故郷を舞台にした壮大な歴史物語だった。

 

中でも共通して印象的だったのは、平和や自由、英知の象徴として描かれる神々の姿である。

例えば、「スラヴ式式典の導入」に描かれる民衆たちは素朴で穏やかな色調なのに対して、宙に浮かぶ神々しい人々は、不思議と静謐な青さを帯びて、心なしか陰っているようにも見える。

その異なる色調が醸しだす幻想的な違和感が、神々の姿をより不可思議で神秘的なものにし、見る者に畏敬の念を抱かせる。

彼らは俗世とは別次元の場所に浮かびあがってくるようで、絵画の奥行きをより深くしている。

そこには、枠をつきぬけて昇天していくような「広さ」があると言ってもいい。

 

さらに、光と陰の巧みな表現も印象的だ。

例えば「クジーシュキでの集会」を見ると、人間が描かれた手前の空間は落ち着いた暗めの色調だが、人のいない遠方は、ぼんやりとした不思議な光を放っている。

まるでそこに見えない女神が降り立っているかのような、意味ありげな美しさだ。

なかでも、「ベツレヘム礼拝堂で説教をするヤン・フス師」、「聖アトス山」といった作品は、色彩の魔術師・ドラクロワを彷彿とさせる、崇高な輝かしさである。

 

そして、それらの魅力が結集された傑作と言うべき作品が、スラヴ叙事詩最後の作品「スラヴ民族の賛歌」だろう。

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(写真が微妙でごめんなさい・・・)

 

解説によると、この作品は、チェコスロヴァキア独立までのスラヴ民族の歴史を表しているのだという。

右下の青は神話の時代、左上の赤は戦争の時代、その下の黒い部分は他国からの抑圧の時代、そして中央の黄色が、独立によって達成された自由・平和・友愛の勝利を示すのだそうだ。

うっすらと背後に描かれた神の気配に見守られ、たくましく両手を掲げた青年の荘厳な姿は、まさに、ミュシャのスラヴ民族としての誇りそのものである。

晩年にこの大作を完成させたミュシャのエネルギーと心の豊かさには、敬服せずにはいられない。

 

ミュシャ展で、スラヴ叙事詩シリーズを見て感じたのは、広さだけではない、絵画の「厚み」だった。

それはきっと、スラヴ民族の歴史と、それを見守ってきた神の視点が共存しているからではないだろうか。

壮絶な民族史として描かれる人間世界と、故郷への愛やスラヴ民族の賛歌にあふれた幻想的な心象風景とが、巨大なキャンバスの上に彩り豊かに表現され、それらが「スラヴ叙事詩」というひとつの壮大な物語として完成されている。

これは、まぎれもない傑作だろう。

 

美術はやっぱり、自分の好みの範疇外でも、思いがけない発見と感動があるから楽しい。

 

 

ミュシャ展は、国立新美術館で6月5日まで開催されています。

同時開催の草間彌生展とあわせて、ぜひ足を運んでみてください!

 

草間彌生展の感想はこちら。

artinspirations.hatenablog.com