草間彌生展に行ってきた。
予想以上に、面白かった。
草間彌生という人間の根源を見たような、サブタイトル通りの「魂」の展覧会だった。
まず、展示室に入ると、巨大なオブジェと壁一面の極彩色の連作に度肝を抜かれる。
まさに草間彌生。
のっけから彼女の集大成ともいえる大作にガツンとやられる。
そこから展示室に入っていくのだが、順路は草間彌生の人生を辿るように進んでいく。
初期作品は、最近の作品と比べると全体的に暗さや重みがあり、芸術を通して、自分自身や世界の在り方を探求しようとする真摯さと激しさが感じられる。
それらの絵から総じて連想されるのは、植物や動物の「細胞」だ。
緑色の唇のような不気味な気孔が並び、音もなく呼吸している葉の細胞。
何かの悪夢のようにぼこぼこと膨張し分裂していくカエルの胚。
半透明の紐状のものが絡み合ってうごめく無数の微生物の塊。
そういうグロテスクな不気味さがあった。
思えば植物というのは、よくよく眺めると、おしべやめしべが露わになり、極めて原始的な構造をしていて結構気持ちが悪い。グロテスクな部分を覆い隠す複雑な構造をしている人間に比べて、ある意味卑猥な生き物だ。(というのは今朝読み終わった、村上隆『芸術起業論』からの受け売りだけど)
草間彌生の絵は、つまり、原始的な「生」を暴こうとしているから気持ちが悪いのではないか。
幼い頃から水玉の幻影が見えたという彼女にとって、絵を描くということは、得体の知れない自分という人間の「生」に対する違和感と不気味さを、解きほぐす手段だったのかもしれない。
さて、初期作品のエリアを抜けると、次は「ニューヨーク時代」。
草間彌生が前衛画家としてニューヨークで活躍した頃の作品である。
ここでは一転して、ミニマルな表現が目を引く。
初期作品のイメージが細胞だとするなら、このあたりの絵は「網」がもっぱらのイメージだ。
大きなキャンバス上に、白と水色の網が一面に張り巡らされているだけの絵。
なんじゃこりゃ、と最初は思ったが、じっとその前で根気強く立っていると、ふと、瞼を閉じたときに見える光の加減にちょっと似ている気がした。
「瞼を閉じるとき、それは何も見えていないのではなくて実は瞼の裏を見ている」といった主旨の見え方に似ていると感じたのだ。(これもまた、私の大好きなアニメ『蟲師』の第2話「瞼の光」からの受け売り)
暗闇を見るとき、光をみるとき、私たちは黒や白といった平面的な色を見ているわけではない。「何か」をきっと見ているはずなのだ。
それはとても不気味で恐ろしく、得体が知れない。
ここでも草間彌生は、何か根源的なものを描こうとしていたのではないか。
彼女の絵の前に立つと不穏な気分になるのは、普段は見えないもの、あるいは決して直視してはいけないはずの根源を引きずりだしたことによる不安なのではないか。
他にも面白いと思ったのは、『死の海を行く』というインスタレーション。
銀の突起物に覆われた船が中央に置かれ、四方八方が、そのボートのネガ写真のようなポスターで埋め尽くされているというものだ。
これもまた、タイトルを見てから作品を見ると、色々と想像が膨らむ。
「死の海」という言葉から、しんと張りつめた、完全な静寂が連想される。閉鎖された空間。発狂しそうになるほどの静けさ。その中を、銀色の船に乗って行く。まるで精神世界のよう。周りは自分の乗っている船がそっくりそのまま繰り返され、否応なく、はね返ってくる自分自身を見つめるしかない。
これまた、内なる根源に極めて近い作品に思われた。
草間彌生の作品は、どれもタイトルが秀逸で想像をかきたてるから面白い。
後半、「21世紀の草間彌生」のブースに入っていくと、おなじみの南瓜や水玉模様が目立ってくる。
ああ、これこれ。これだよね草間彌生。
と思っていると、異色を放つ『生命の輝きに満ちて』という作品に遭遇して、見る者の心はどきりと揺らがされる。
これは真っ暗な空間の中に鏡が張りめぐらされ、無数に垂れ下がる小さな電球が色とりどりに点滅するインスタレーションだ。
それまでの「気持ち悪さ」とは打って変わって、これは純粋に美しい。文字通り、静かな輝きに満ちた空間。
そこから連想されるのは「宇宙」だ。
ここで、草間彌生の作品は、原始的なミクロの視点から、いきなりマクロなものに拡大される。
それから最後の「帰国後の作品」エリアに入ると、もはや目立ったイメージや共通したテーマ性はなくなり、何かを探求し描き続ける自由で前衛的な挑戦が見て取れる。
「死ぬまで挑戦する」という草間彌生ご本人の言葉を体現するような作品ばかり。
そしてそのエリアを抜けて、再び、はじめの部屋に戻ってくるのだ。
花をモチーフにした水玉のオブジェ、壁一面の極彩色の絵。
草間彌生の真骨頂である。
草間彌生の作品を、初めて初期から今まで時系列を追って見たが、彼女の芸術が大成されるまでの一部始終を垣間見たような、面白いけれど少し気恥ずかしい、「見てしまってゴメンナサイ」みたいな感覚が芽生えてしまった。
草間彌生は、彼女自身の「生」そのものをさらけ出す、というか叩きつけるような芸術であるように思われる。
そして「生」というのは誰しも経験していて、しかも極めてパーソナルでデリケートなものだから、彼女の作品を見ると不安になり胸がざわつく。
裸体をさらすだけでも恥ずかしいのに、内臓のみならず、細胞のレベルまで丸裸に剥かれてしまうような、羞恥を伴った芸術だからかもしれない。
それを大成した草間彌生は、やっぱり凄かった。
「草間彌生―わが永遠の魂」
5月22日まで国立新美術館で開催されているので、ぜひ足を運んでみてください。
同時開催されているミュシャ展の感想はまた近々。