Art Inspirations

素人作家のメモ箱

アートと活字を愛するアマチュア作家が運営するブログ。

ジャンルを超えて、広義の「アート」から得た様々なインスピレーションやアイデアを文章で表現していきます。
絵画、彫刻、インスタレーション、音楽、ダンス、デザイン、ファッション、建築などなど。





「独り」を見つける写真|Find happiness in solitude

 

InstagramPinterestで写真を眺めていると、自分のツボが分かる。

例えば、陰影がくっきりした、人のいないエスカレーターの写真。

だだっ広い階段を、赤い傘を差した人が降りていく写真。

湖の真ん中に真っ白な白鳥が一羽浮かんでいるモノクロ写真。

コントラストも色彩も被写体も、ハッキリクッキリした、シンプルなものが好みらしい。

そういう写真を飽きずに眺めていたら、1年ほど前に撮った写真を思い出した。

 

 

f:id:numbernotes:20170709144716j:plain

 

場所は神保町の駅。

この頃の私は、何だかすごく気疲れしていて、思考が同じところをぐるぐるして気持ちが前に進まず、とにかく現状にウンザリしていた。

漠然と、そこから抜け出す何かしらの刺激が欲しくて、そういえばずっと神保町行ってないな、久々に行こうかな、と重たい身体をひきずって、すがるように駅に着いた。

どの出口から出ようか迷いながら、でも考えるのも億劫で、適当に近くの出口を降りようと足を踏み出した。

 

すると、不思議と人が一人もいない。

降りた先は改札に通じているはずなのに、人の往来も見えず、立っている私の前にも後ろにも、誰もいない。

心なしか、空気もひんやりしている。

地下鉄特有の、地鳴りのような音が遠くに聞こえる。

都心の地下鉄の腹中に、たったひとり、残されたような感覚。

 

その不思議な一瞬の奇跡に、淀んでいた頭にごうっと風が吹いたような気がした。

前へ向く気持ちがむくむくと湧いてきた。

何が引き金になったのか分からないけれど、自分が自分の居場所にちゃんと戻ってくるような、ちゃんとここにいて、自分の足で歩いていることにやっと気付いたみたいな、そんな感覚に襲われた。

この心の震動を覚えておきたいと思って、奇跡的な風景が崩れる前にと、慌てて撮った写真だった。

 

 

今思えば、きっとあの頃は、人に会いすぎていたのだと思う。

人間は社会的な生き物なくせに、ずっと社会の中で歩き回っていると、社会環境や他者に「反応」するだけの、機械のように合理的なものになってしまうことがある。

それが行き過ぎると、自分が自分のものなのかすら認識しにくくなって、でも身体は相変わらずきちんと環境に反応して仕事したり話をしたり笑ったり食べたりするので、心と身体がちょっとずつ乖離して、心だけが置いてけぼりにされたような、貧しい気持ちになっていく。

そういうとき、独りになる瞬間が少しでもあると、自分を思い出せる。

遠くまで伸ばしすぎていた知覚や思考が、ぴたりと相応の場所に収まり、きちんと自分のものとして扱えるようになる。

それができると、自信がつく。

自信がつくと、前に進める。

 

 

英語には、”solitude”という言葉がある。

平べったく訳すと「孤独」となるが、同じ孤独でも、”loneliness”とは違う。

“loneliness”は、独りで寂しい。他者がいないことでぽっかりと空白ができる。そこには一人でありながらも他者の影がある。

でも”solitude”は、”solo”、つまり文字通り、単なる「ひとつ」あるいは「一人」であること。

そこには他者はいないから、空白もなければ虚無感もない。

ただ自分という人間だけがいて、しっかり存在している。

 

私が眺めていた写真や、一年前の神保町でのプチ奇跡が清々しかったのは、”solitude”の中に幸福な発見があるからだ。

湖の水面にひっそりと浮かぶ白鳥が、他の白鳥と比較せずとも圧倒的に美しいように、たとえ人の多い都会でも、他者を消した風景には、しっかりと人がひとり、立っているはず。

私は私。

そのことを忘れてしまったら、人間の生活は苦しい。

特に人の多い東京だから、たとえ一瞬でも、そんなふうに独りであることの幸福を発見する瞬間が大事なのだと思う。

 

 

***

"solitude" "photography"で検索してみたら、素晴らしい写真がたくさん出てきました。

たまには社交性を封じて、solitudeな写真を眺めてみるのはいかがでしょう?

 

www.stockvault.net

121clicks.com

 

芸術脳とロジカル脳|感性だけではつくれないもの

 

実はわたくし、特技は文章を書くことだけれども、本当は絵を描くことに憧れています。

しかも、アートが好きなくせに、本業は全然関係のないシステムエンジニアをやっています。

 

こんな支離滅裂な人間なので、時々自分の「できること」「したいこと」「向いていること」がごちゃごちゃになってしまうことが度々ある。

ので、今回は僭越ながら、自分の頭の中を整理してみたいと思う。

 

*** 

 

どうやら私の頭は元来、どちらかというと感覚的なことが得意らしい。

小説を書くときも、最初に物語があるのではなくて、いつも思いつくのは漠然としたイメージが始まりで、大概それは絵画的であることが多い。

例えば、「極彩色でサイケデリックな、激しい色づかいのイメージ」とか、「ノスタルジックな雰囲気で、セピアな色調の中にすうっと爽やかな水色の線が入っているような感じ」とか。

時々その情景に加えて、断片的な言葉や台詞、たまに音楽も合わさっていたりもする。

一度脳の働きを調べてみたいものだが、なんとなく、感性を司る左脳をより使っている気がしている。

(小説を書くのだから、言語を司る右脳もちゃんと駆使しないとマズイ気はするけど。)

 

じゃあ絵を描いたり映画を作る方がいいんじゃないの?と自分でも思うが、残念ながら、そっちはからきし才能がない。

時々絵の真似事をしてみることもあるが、結局、頭の中に浮かんでいる絵が全然上手いこと紙の上に出てきてくれないので、もやもやして消化不良になって辞めてしまう。

 

でも、慣れない絵を諦めて、馴染みの執筆作業に戻ってみると、

「案外、何かをつくる行為って、論理的なんだなあ」と改めて気づく。

 

頭の中のイメージを感性に従って自由に描いてみても、そもそも絵の基本も知らないから思うようにいかないし、全体の構図を決めてからでないと絵としては成り立たない。

色合いだって、例えば爽やかな色調にしたいというイメージはあっても、その雰囲気を漂わせるためにはきっと青や緑や白だけではだめで、細部には赤や茶色や黒だって使う場合もあるだろう。

 

建築に例えるともっと分かりやすい。

サグラダファミリアノイシュバンシュタイン城だって、アイデアだけで美しい建造物を作れるはずもない。

①全体像のコンセプトを決めて、②設計して、③どこから作るかプランをスケジュールを立てて、④どういう素材で作るかを決めて…

と、極めてロジカルだ。

 

そう考えると、アートをつくるということは、

「感性に基づく芸術的なものを、ロジカルに組み立てる」

という行為に近いのかもしれない。

 

言い換えるならば、

「芸術脳でゴールを描き、それをロジカル脳で形にする」

ということ。

 

だから、本当は絵が描きたいけど文章しか書けない私でも、やっていることの根幹は広く言えば同じなのかもしれなくて、そう考えると何だか自信が湧いてくる。

 

小説も、

①どんな話が書きたいかを決めて、

②全体の構成や章立てを決めて、

③各章の物語の流れを細分化して、

④各シーンを表現するのにどんな言葉を使うか考えて、

➄書き終わったら推敲する

と、その実は文学的でも情緒的でもなんでもなく、ロジカルに組立てていく作業だ。

 

さらに、本業のシステムエンジニアの仕事でも、

①要件定義→②基本設計→③詳細設計→④実装→➄テスト

と、不思議と似ている。

 

自分の憧れるものと、今の自分ができることが、すうっとひとつにまとまっていく感覚。

こういうことに気づくと、じんわり嬉しい。

 

アートへの憧れと、特技の執筆と、本業の仕事。

一見脈絡がないように見えて、実は共通項もたくさんありそうだ。

これから、もっとどんどん影響し合っていくといいなあ。

楽しみだなあ。

 

 

人間の生活と未来|些細な汚れが消えてしまうまえに

 

人間の生活は、どんどんキレイになっている。

 

適温に調整された室内、雨にぬれずに一日を過ごせる街、

掃除ロボット、ヘルスケアのアプリ、

カード決済、クラウドファンディングやネットビジネス、

ノンカフェインのコーヒー、ノンアルコールビール、タールを摂取しないで済むアイコス、健康志向のチョコレート。

 

服装を工夫してやり過ごしていた天候の煩わしさも、

手間のかかる住空間や身体のメンテナンスも、

面倒な金勘定や泥臭い肉体労働も、

快楽の代償に多少の害をこうむっていた嗜好品も、

できるだけ「汚れ」の少ない、効率的なものへ。

 

かくいう私も、ネットのサービスやアプリはどんどん活用するし、ノンカフェインコーヒーやカカオ70%のチョコレートにもハマっている。

この時代の流れを否定するわけでも肯定するわけでもないのだけれど、時々ふと、伊藤計劃の『ハーモニー』の世界が連想されてぞくりとすることがある。

 

『ハーモニー』は、SF小説だ。

デビュー作『虐殺器官』の続編でもあるが、単体で読んでも十分面白い。

ハーモニー (ハヤカワ文庫JA)

 

物語の舞台となる未来は、「生命主義」と呼ばれる超・福祉国家

事故はおろか、病気さえ存在しない。

身体に悪い酒もタバコも当然世の中から一掃され、身体に埋め込まれたプログラムが常に健康を維持してくれる。子供が遊ぶジャングルジムまで、落ちたり頭を打ったりしないように、柔軟な素材で作られ、人工知能的なものを搭載しているという徹底ぶりだ。

社会全体でシステム化された究極の「健康管理」。完全無欠の共生社会。

そんなユートピアの中で、真綿で首を絞めるような緩やかなストレスが顕在化してくるところから、物語は動き出す。

高度な健康管理社会によって抑制されたのは、「自分の身体は自分のもの」という自律への欲求であり、その実感は、もはや「自分の意思で自分の体を汚す」ことでしか得られない。

この逆説が絶妙に面白い。

 

本の紹介はこれくらいにして、話を戻すと、

最近ますますキレイになっていく時代を歓迎する反面、心のどこかで、この『ハーモニー』で描かれた未来を恐れる気持ちがもたげてくるのだ。

ヒトも生物だから、元来は多少なりとも「汚れ」をまとうものであったはず。

クーラーの効いた室内から出て、コンクリートで熱せられた街を出て、田舎の自然の中に身を投じることで「生きた心地」がするのは、きっとその証拠だ。

かといって、原始的な生活に戻るのは多分不可能だし、私だって遠慮したい。

一度発展した文化や文明は退行し得ない、というのもどこかで聞いたことのある話だ。

だからやっぱり、『ハーモニー』ほど行き過ぎた社会にはならないにしても、人間の内外から、どんどん「汚れ」がぬぐいとられていくことは明白な気がする。

 

そうやって時代が行きつく先を考えていくと、人間の生活というのはつくづく不思議なもので、今の私たちの生活そのものが貴重な文化遺産であるようにも思われる。

 

例えば、

肌に吸い付く夏の湿気や、芯から冷える冬の寒さ、雨にぬれた靴の不快感、

浴室の排水溝を詰まらせる水垢の気持ち悪さ、

立ちっぱなしのアルバイト終わりの疲労感、散財したあとの財布のさびしさ、

カフェインの苦味、甘いものを取りすぎたときの幸福の入り混じった後悔、

アルコールが体内を回るだらりとした快感、

飲みすぎたときの胃がひっくり返るような吐き気と、脳天を刺し貫く頭痛。

できれば避けたいそれらの「汚れ」を、この先、ずっと遠い未来に、味わわなくてもよくなるとしたら。

映画や本や仮想現実で疑似体験することでしか、「汚れ」を享受できなくなるとしたら。

ただのノスタルジーかもしれないけれど、何だかそれはそれで切ない気もする。

 

時代の大きな変遷の中では、日常の瑣末な一喜一憂は、たちまち消え去ってしまうものだ。

喜ばしくも美しくもないちょっとした面倒ごとは、なおのこと早く消えていく。

だけど私は、そこに人間らしさがあるような気がしてならない。

だからこそ、そういう些細な醜さこそを、大事に描き留めておきたいものだと思う。 

 

 

***

SF小説は、人類規模、地球規模で世界が作られるからものすごい刺激になる。

『ハーモニー』とあともうひとつ、最近読んだ『大きな鳥にさわられないよう』も良かったのでぜひ。

 

360度の視界|技術の進歩が表現技法の常識を覆す?

 

暇つぶしにYoutubeで360度動画を見ていたら、ふと、宮崎駿監督がとあるドキュメンタリー番組で呟いていたことを思い出した。

細かいところはうろ覚えだけれど、確か、「カメラ技術の発展に伴ってアニメーションの表現方法も変化する」というような主旨だったと思う。

言われてみれば単純な話なのだが、そのときは目から鱗だった。

 

例えば、SFなんかで時間軸が戻るシーンには、逆再生の表現が使われていたりするし、生きるか死ぬかの緊迫した場面や感動的なシーンでは、スローモーションが効果的だ。

魚眼レンズの視点なんてのも、使われていたりするかもしれない。

改めて映像作品やアニメーションの表現技法を見てみると、なるほど、カメラ技術の発展が色濃く反映されている。

 

そもそも、私たちが何気なく見ている様々な映像作品の「視界」は、現実のそれとは歴然とした違いがある。

物語の臨場感や、リアルな心の動きを表現するには、そのまま現実を真似ればよいというものではないのだ。

これは映像に限ったことではなく、小説でも同じで、ただ登場人物の言動や気持ちを説明するだけでは、ただのナレーションになってしまう。

普段私たちが生きていて何気なく感じ取っているものを、いかに効果的な「肉付け」をして表現するか。そこが創作者の腕の見せどころ。

 

前置きが長くなってしまったけれど、

要するに、

最近になって登場した360度カメラの視界も、表現技法に応用できないものかしら?

とふと思ったのだ。

 

実際、360度の視界で鑑賞できるアニメーションは、すでにごまんとある。

では、小説は?

 

これまでは、「主人公が見えていないはずのものを描写するのはNG」というのが基本中の基本だった。

一人称に限らず、三人称一元視点(語り口は三人称だけれども視点は主人公の五感を借りて書く。最近の小説はもっぱらコレ)であっても、ルールは同様だ。

が、もしもこの先、360度動画の視界が当たり前になったとしたら?

情景描写も360度の視界で書く、なんてアリなんだろうか?

これまでのタブーが覆されて、表現技法のひとつになったりするのだろうか?

アリかナシかは分からないが、そうやって文学の未来を妄想してみると、もう絶対的なルールなんてどこにもないような気がしてドキドキする。

 

映像芸術の分野では、早くも視界は360度。

芸術表現の可能性はますます広がっていきそうだ。

日本語で雨を読む

 

今日の都心は雨。

沖縄・奄美は早くも梅雨入りだそうで、そういえばもうそんな季節かと驚く。

 

雨ってやだなあ。

 ・・・とは思わず、私は結構雨が好きだ。

 

特に、休日の雨は何だか空気が落ち着いていて良い。

雨音に紛れて喧噪も少し遠のく気がするし、普段はうるさい車の音も、波音みたいに聞こえて穏やかになる。

この季節はさほど寒くもないので、家の窓を開けて雨音を聞き、湿り気を含んだ涼しい空気に吹かれながら、コーヒーをいれて読書、なんていう至福のときも味わえる。

晴れの日は晴れの日で活動的な気分になって楽しいけれど、雨の日は、色々と無理して焦らなくても良いような、迷走していたのが整ってしっくりくるような、何だか自分がちゃんと自分のサイズに収まる感じがするのだ。

 

雨の魅力に気づいたのは、学生の頃、アメリカ留学から帰国したときだったと思う。

帰国後初めて雨が降った日、雨の美しさにハッとした。

乾燥した土地が多いアメリカの気候に慣れていたせいか、日本の自然の豊かさには本当に驚かされる。

田舎道をちょっと車で走れば、勇壮な山々が一望できるし、植物も土も、艶があって深い色をしている。そこに雨が降ると、葉や枝や土や瓦や、実に様々なものに雨粒が当たって、結構複雑な雨音を立てる。雨の匂いも、土や木々の香りが混ざって濃く感じる。濡れた深緑の葉は、ますます艶を増して輝きだす。

日本の雨は、とても綺麗だ。

 

 

この日本の雨の美しさは、言葉によって証明されていると思う。

英語だと”rain”という単語一つで終わってしまうが、それを日本語で表現しようとすると、驚くほど多種多様な「雨」があることに感動する。

類語辞典でちょっと調べてみるだけでも、こんな感じだ。

 

小雨(こさめ)

細雨(さいう)

霧雨(きりさめ)

糠雨(ぬかあめ)

涙雨(なみだあめ)

豪雨(ごうう)

雷雨(らいう)

暴風雨(ぼうふうう)

篠突く雨(しのつくあめ)

しぶき雨(しぶきあめ)

氷雨(ひさめ)

慈雨(じう)

霖雨(りんう)

遣らずの雨(やらずのあめ)

暮雨(ぼう)

村雨(むらさめ)

驟雨(しゅうう)

日照り雨(ひでりあめ)

狐の嫁入り(きつねのよめいり)

春雨(はるさめ)

五月雨(さみだれ

夕立(ゆうだち)

時雨(しぐれ)

【引用:柴田武・山田進編『類語大辞典』、2002年、講談社、8708i】

 

さらに調べてみると、

巌雨(がんう):海岸に突き出た岩など、巌に降る雨

そぼ降る雨(そぼふるあめ):しめやかにしっとりと降る雨

車軸を流す(しゃじくをながす):車輪のような太い雨脚の雨が降ること

雨募る(あめつのる):雨がますます激しくなること

雨癖(あめぐせ):癖がついたように雨がよく降ること

卯の花腐し(うのはなくたし):卯の花を腐らせるほどに降り続く霖雨

銀竹(ぎんちく):光線を浴び、光り輝いて降る雨

【引用:倉嶋厚・原田稔編著『雨のことば辞典』、2014年、講談社学術文庫

なんていう珍しい表現もあるらしい。

他の言語では、たとえ形容詞をもってしても、果たしてここまで繊細に雨を表現できるだろうか?

 

これから梅雨の季節。

靴は濡れるし、どんより暗いし、せっかくの心地よい季節なのに遊びにも行けない。

長雨が続くと精神的に病みやすくなるらしいという話も聞く。

それでも私は、雨を形容する言葉がこんなにも豊かな国ならば、なんとなく、大丈夫な気がするのだ。

 

 

***

こちらは私の大好きな本です。外に遊びに行けない雨の休日にどうぞ。

雨のことば辞典 (講談社学術文庫)

雨のことば辞典 (講談社学術文庫)