ダリ、マグリット、タンギー・・・しばしばシュルレアリスム絵画として分類される画家たちの絵を見ていると、思うことがある。
それは、私たちが思考するとき、そこには果たしてどんな「風景」が広がっているのか?ということだ。
そもそも、思考や精神というものは目に見えないものなのだから、それを絵画という目に見えるものにしようとする時点でおかしな話なのだが、
果たして「思考するとき私たちの精神は何を“見て”いるか?」という問いそのものが、シュルレアリスムの根本的な関心であるように思うからだ。
そもそも「シュルレアリスム」というと、日本では「シュール」に互換されてしまいがちだが、厳密にいえば本来の意味とはちょっと違うらしい。
普段「シュールな」という文脈で使われるのは、普段見慣れたものから逸した奇妙な構図だったり、現実にはあり得ないものがあり得ない組み合わせで配されたりして、何とも言えない「違和感」を醸し出しているものを指すことが多いように思う。
感覚的にいうなら「非現実的な情景と対峙することで精神をざわつかせる」ような雰囲気に近いかもしれない。
しかし、本来のシュルレアリスムはむしろ逆の意味だ。
シュルレアリスム=超現実と訳されることからも分かるように、非現実的な情景を生み出して見る者に刺激を与えようとする理性的・戦略的なものではなく、あくまでも「現実」、それも「超」現実をとらえようとする試みであって、そのアプローチは極めて原始的と言ってもいい。
ここで、「シュルレアリスムと絵画」展から言葉を借りると、
フランスの詩人アンドレ・ブルトンが中心となって推し進めた「シュルレアリスム」は、(中略)理性を中心とする近代的な勧化方を批判し、精神分析学の影響を受けて無意識の世界を探求することで「超現実」という新たなリアリティを追い求めました。
とある。
要するに、シュルレアリスムの精神とは、「合理性を批判し、現実を新たにとらえなおそうとする」ものだった。
この定義に即したものとして、ブルトンは自動記述(オートマティズム)という技法を編み出し、体系立った見慣れた現実になる前の「無意識の世界」をとらえようと試みたのだ。
つまり、シュルレアリスムとは、人間が美について感じたり、思考したりするときの原始的な風景をとらえようとする試みともいえる。
例えば、花の美しさを絵に写し取るときに、「美しい花」を模写するのではなく、花はなぜ美しいか→なぜその花を美しいと思うのか→美しいと感じることはどういうことかと、「この花は美しい」の根源的なリアルを深く発掘しようとする。
そうすると、おのずと、外面的な花というモノ自体を描くことは必ずしも必要ではなくなり、色や形を冠することさえも必然ではなくなり、「美しい」という感性そのものの原風景を見出していくことが求められる。
詩人のブルトンが試みたオートマティズムは、おそらく、言葉や文法という理性的な枠組みを構築し始める暇を脳に与えないことによって「感性の原風景」を抽出しようとしたのだろう。
それが絵画においては、何かの形を描くことを辞め、それ以前に感性や思考に浮かび上がってくる「造形を結びきっていない何か」を掬い取ろうとしたことがうかがえる。
言葉を使役してきたはずの詩人が、表現したい対象物を、言葉の枠から解放しようとする。
モノの輪郭を描き造形を与え色を付けることを得意としてきた芸術家が、本来視覚的にとらえることのできないものを捉え、色を付けようとする。
この絶対的な逆説を内包した試みが、シュルレアリスムの面白いところだ。
さて、そういったシュルレアリスムの精神を胸に画家たちの作品を見ていくと、その表現方法は大きく二分化されているように感じる。
一つは、ダリやマグリット、タンギーによく見られる表現で、一言でいうなら、「荒野」。
草木のない、砂漠のような、あるいは無機質な部屋のような広大な空間に、原始的な心象風景が繰り広げられているといったイメージだ。
最も有名なダリの作品『記憶の固執』は、赤茶けた荒野のなかに存在しているし、ダリの作品にしばしば登場する異様に足の長い象も、危なっかしく地に足をつけ、天を闊歩している。
イヴ・タンギーはといえば、より原始的なものに近く、砂漠のように波打つ荒野に「粒」が散らばっている風景が描かれることが多い。
それらは、人間のかけらやモノの残滓、心情の切れ端のようにも思われる。
『ピレネーの城』や、山高帽の紳士が無数に宙に浮かぶ『ゴルゴンダ』で有名なマグリットは、もっとわかりやすく、のっぺりとした平らな風景、いかにも作り物めいた建造物や物体が、やはり無機質な空間に配され、デフォルメされた夢の断片のようだ。
また、少し脇道に逸れるが、形而上絵画として知られるジョルジョ・デ・キリコも、気の遠くなるような広大で殺風景な、黄色い風景が印象的である。
これらの画家は、表現はさまざまだが、共通して言えるのは、そこには明らかに「距離」や「天地」があるということ。
シュルレアリスムの精神をもってこれらを見ると、私はどうも疑念がわいてくる。
理性的・合理的な絵画のルールにのっとって表現される前の、原始的な風景には、果たして、滑らかな線や「面」はあるのか?
まだ形や色を持たないはずの精神世界には、「荒野」という舞台はあるのか?
特に、マグリットなどは、「これを表現するには壁は必要、だから壁を配した」といったふうに、かなり便宜的に表現しているような印象も受ける。
そう考えると、ダリやマグリットは、けっこう実験的で計画性があるような気もする。
すなわち、彼らは実は、きわめて「合理的」「理性的」ではなかっただろうか?
ここにも、シュルレアリスム絵画が抱える決定的な矛盾があると思えば興味深い。
一方で、シュルレアリスム絵画には、もう一つ、荒野とは異なる表現方法を用いたものもある。
一言でいうなら、こちらは「浮遊」だろうか。
日本のシュルレアリストにも比較的よくみられる表現だが、ミロの晩年の作品がその代表かもしれない。
カンディンスキーなどもそうだが、より後期に近い画家たちは、荒野や空部屋といった「空間」や「天地」すらなく、心象の原始細胞のようなものが、方向も奥行きもない絵画空間のなかにただぞんざいに配され、「浮遊」している。
つまり、こちらはモノが配される舞台すらないのだ。
ブルトンが提唱したオートマティズムをつきつめると、そこには荒野のような空間が創造される余地すらなく、より「浮遊」した心象風景になるのではないだろうか?
そしてそれがさらに加速化すると、表現はよりミニマルになり、記号化されていく。
そして記号化された美は、本来の絵画という枠組みから越境していく・・・
そう考えると、ここから「抽象絵画」と呼ばれるジャンルへ、さらにはデザインの領域へと変遷していく原点が垣間見えるような気もして、シュルレアリスムの提唱は、現代にいたるまでの芸術の定義を根本から揺るがした大事件だったことがよくわかる。
合理性を排し、原始的な何かを掬い取ろうとするアプローチをつきつめると、逆に、単純化されたきわめて理性的で記号的な表現にたどり着いてしまいかねない。
このらせんのような矛盾!
だからやっぱり、シュルレアリスムは面白い。
何かを感じるとき、何かについて思考するとき、そこには、予め「荒野」のような風景があり、感性や思考の熟成によって豊かになっていくのか?
あるいは、そこには“何も無く”、色や形を持たない記号でしかその風景を表すことができないのか?
では、造形をなす前の、可視的なものになる前の「原始」の美・思考・精神は、果たしていかなるものか。
そんなことを思うと、何かに表そうとする芸術そのものが決して「真」現実に辿り着けないものであることに気づくが、
それでも、美の本質に向かって限りなく掘り進んでいくこと自体を、あるいは「芸術」と呼ぶのかもしれない。
美術展感想:
ポーラ美術館 企画展『シュルレアリスムと絵画~ダリ、エルンストと日本の「シュール」』より。
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こちらはシュルレアリスムとは何かを分かりやすく解説していて、おすすめの本。
『20世紀の美術』は、印象派からキュビズム、シュルレアリスムから抽象絵画へと、時代とともに発展していく絵画技法の変遷がよくわかります。
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artinspirations.hatenablog.com
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