遅ればせながら、あけましておめでとうございます。
本年もゆるゆると更新してまいりますので、引き続きよろしくお願い致します!
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さて、年末年始は、数年ぶりに田舎に帰り、懐かしい風景と変わらない友人たちに心癒された連休だった。
故郷の何気ない風景や日常を、今や訪問者になってしまった大人の目線で切なく眺めつつ、この風景が私の創作への探求心を育ててきたんだなあと思うと感慨深かった。
そういえば昨年末、また細々と詩作を始めようかという気持ちが湧き、幼い頃に作った詩や短歌などを読み返していたのだが、我ながら「結構やるじゃないか」と思ってしまうものもいくつかあり、子供ならではの感受性の豊かさに驚かされた。
自然いっぱいの土地で育ったおかげなのか、花や植物についての作品が多く、まるで田舎で暮らす自然派作家の風情である。
正直、これは意外だった。
自分の創作のテーマは、あまり花とか綺麗なものではなくて、もっぱら闇の部分や無理難題に目を向ける派だと思い込んでいたからだ。(今思うと何だか斜に構えていたようでお恥ずかしい…)
どんどん広い都会へと移り住み、経験を重ねて成長していく過程で、人格や趣味嗜好が多少変化してしまっていたのかもしれない。
私にもこんな時代があったのだなあと思うと、幼少の頃の豊かな感性を鈍らせてしまったことに、口惜しさと寂しさを感じずにはいられなかった。
しかし同時に、都会に住まなければ知らなかった世界観や感性もあるのではないか、とも考えなおした。
子供の頃には知らなかった、一筋縄ではいかない人間関係の複雑さ。善悪の難しさ。
人の思考の奥深さや、生き方の多様性。
国政や経済、司法、ビジネス、文化社会が交差し入り乱れる、混沌とした情報の渦。
街にあふれる生きたことば。
次世代の文化・社会構造・コミュニケーション・コミュニティ。
もはや芸術的にさえ思われる最先端のテクノロジー。
ジャンルを超えて化学反応を起こし、次々と生まれる新時代のクリエイティビティ。
それらはきっと、狭い田舎では知り得なかった、夢に満ちた未来の感性だと思うのだ。
自然豊かな田舎の風景が、自分の感受性や命の豊かさと向き合う「心」の居場所だとするなら、都会は、活動し続け、刻一刻と変化しながら発展する「頭脳」の現場。
それぞれの土地に、風景が持つ特性がある。
そしてどうやら、私たちは知らぬ間にその養分を吸っているらしい。
実際、田舎に帰っている間は、不思議と自然にまつわる作品の着想が思い浮かんだり、分からないことがあってもすぐにはスマホには手が伸びず、立ち止まっては「なんだろう?」と熟考しがちになる。着眼点は細部へ、思考は内面へと潜っていく。
だから、田舎で小説を書こうとすると、勇壮なファンタジーや情緒ある詩歌、渋く沈静した純文学や、ほっこりとした人間模様を描きたくなる。自然の風景を吸い込み、感性豊かな世界にどっぷり浸かって、豊潤な絵画が見たくなる。哲学やことばや命について、深く考える。
それがひとたび東京に帰ると、たちまち街に取り込まれたかのように、貪欲に情報を吸い込み、思考の速度が速まり、もっと広く、外へ未来へと手が伸びる。
だから都心では、学びや発見の多い啓発本や、手に汗握るドラマチックなミステリー、おしゃれで粋で画期的なエンターテインメント小説が断然面白い。光のデジタルアートや、前衛的な空間芸術を目の当たりにして、ワクワクしたり思考の遊びを楽しんだりしたくなる。都市社会や時代の変遷、社会思想や文化構造について興味が湧く。
暮らしや思い出の作用もあるのかもしれないが、考えれば考えるほど、確かにその土地の風景の中に「養分」のようなものが漂っていて、それを知らず知らずのうちに吸い取って編集し、創出している気がするのだ。
都会と田舎、どちらが良いとも悪いとも言えない。
それぞれに養分の特性があって、都会では都会の、田舎では田舎の思想やアートが生まれていく。
それって何だか、ものすごく面白い!!!
だから今年はもっと、土地の風景に目を向け、創作の糧にしていきたい。
今自分がいる場所が孕んでいる何かを、注視して観察し、感性を研ぎ澄ませて、掬い上げてみることに挑戦していきたいと思います。
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企画展は終わってしまいましたが、オットー・ネーベルの作品も興味深いヒントがありました。特に、都市の色彩を描く留めた「カラーアトラス(色彩地図帳)」は面白い。
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日常にある創作のヒントをいかに掬い上げるか。その着眼点に関心を持ったのは、アサダワタルさんの『表現のたね』という本がきっかけでした。
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