先日、山梨県立美術館で開催されているヴラマンク展へ行ってきた。
ヴラマンクは、マティスやドランと並んで、フォーヴィズムの画家として知られる。
そのヴラマンクが、画家でありながら、優れた文筆家でもあったと聞き、ビビッときた。
有給休暇の当日朝に迷わず電車に飛び乗り、車内から慌ただしく宿を取り、喜び勇んで甲府まで足を運んだ。
暑いくらいの晴天の日差しの中、美術館へたどり着き、平日で閑散とした館内へどきどきしながら入る。
余談になるが、私はいつも、作品を見ながら展示作品リストにがりがりとメモを取る。手持ちのボールペンやシャーペンはNGなので、スタッフの方に鉛筆をお借りするのだが、山梨県立美術館では、親切なスタッフさんがバインダーまで貸してくださった。
お心遣いに感激しながら、ギャラリー内へ。
まず、「春の村」「シャトゥーの洪水」の2作品の前まで来て、立ち止まった。
いずれの作品も共通して、空や草、水面などが、太いタッチで描かれ、絵画全体に大きな流れをつくっている。
小高い丘から見えるのどかな村の景色を描いた「春の村」は、右下から左上へ、風に払われるような斜めの流れ。セーヌ川の氾濫によって水に沈んだ平原を静かにとらえた「シャトゥーの洪水」は、風がふきすさび水面に波ができたような、横向きの流れ。
まるで一瞬で過ぎ去ってしまう走馬灯のような、はかなくも力強いタッチに、魅せられた。
この「流れ」は、静物画にも名残があった。
「花の静物画」では、白い花瓶に生けられた花から、かすかに漏れ出るように、その赤や黄の色彩が宙に漂う。花の色が、その周囲の空気にまで尾を引いている、と言えば近いだろうか。
その奇妙に惹きつけられる「流れ」は、一体なんだろうと思った。
それは、空気、あるいはそこに満ちる「匂い」ではないか。
鼻がむず痒くなるような春草の匂い。
平原を飲み込み、静謐に空を映す水面の匂い。
宙に漏れ出る、芳しい花の香り。
匂いたつ絵画。
ジョルジョ・デ・キリコの絵画が静寂だとするならば、ヴラマンクは、五感をくすぐる音と匂いのある絵画だった。
(ヴラマンクと対照的な、キリコについてはこちら。)
artinspirations.hatenablog.com
ヴラマンクは、何と言っても、冬の風景画で人気を集める画家だ。
ヴラマンク展にも、ゆうに20点を超える冬の風景画があり、どれもよりいっそう「匂い」の際立つ絵ばかりだった。
積もった雪と溶け合い、水気を含んだ土の香り。
泥の混じった雪道の匂い、ザクザクとそれを踏みしめる人の足音。
触れればぐっしょりと手が濡れてかじかんでしまいそうな、白茶の地面。
吹きすさぶ冷たい風。
凍った湖のように、薄雲が走る寒空。
鼻をつんとつく冬の匂い。
ヴラマンクは筋金入りの冬好きだったとみえて、こんな言葉も書いている。
私は、寒く、どんよりとした日々、霧にむせぶ世界、雑木林の枝や茂み、垣根に降り注いだ霧も、愛している。
(ヴラマンク展 図録 p48 「冬の風景」)
厳しい冬の寒さや雨や太陽にさらされて古色がついた、硬い石材からなる重い塊の大きな建物…。刈り入れ、耕作、春、太陽、雪…。それらすべての光景を含んだ風景、あらゆる季節のリズムのなかに息づいている風景を知っている。
(ヴラマンク展 図録 p65 「冬の風景」)
風景が鮮明に広がるような美しい言葉から、ヴラマンクの自然への真摯な愛、絵画へのひたむきな態度が、雪に触れたようにじんじんと心に染み入り、溶け出すようだった。
ヴラマンクの匂いたつ絵画と、ひとつひとつの絵に合わせて並べられた彼自身の言葉は、驚くほど豊かで、心を打つ美しいものだった。
ギャラリーの出口に静かに映し出されたヴラマンクの「私の遺言」は、琴線に触れ、人の心を震わせる言葉だと思う。
力強く活力にあふれ、優しく切実な、愛に満ちた言葉だった。
ヴラマンク展を通じてつくづく感じたのは、絵画も言葉も、芸術は何かを表現する手段でしかないのだということ。
愛すべきもの・美しいものを、可能な限り本質を壊さないように、そっと捕らえ、世界に媒介する道具であるということ。
まだまだ若く青臭い私だから、言葉という芸術に迷ったら、80歳のヴラマンクが遺した芸術に、また帰ってきたいと思う。
最後に、感動して迷わず購入した図録から、一番心打たれた言葉を一部引用したい。
芸術作品は、感動をもたらし、伝える手段であるにほかならない。
《中略》
技術や技巧は、無視できる要因ではないが、それらのできることは、感情を位置づけ、それを補強することでしかないのである。
(ヴラマンク展 図録 p55 「冬の村通り」)
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山梨県立美術館、とってもよい美術館でした。常設展の感想はまた後日。