InstagramやPinterestで写真を眺めていると、自分のツボが分かる。
例えば、陰影がくっきりした、人のいないエスカレーターの写真。
だだっ広い階段を、赤い傘を差した人が降りていく写真。
湖の真ん中に真っ白な白鳥が一羽浮かんでいるモノクロ写真。
コントラストも色彩も被写体も、ハッキリクッキリした、シンプルなものが好みらしい。
そういう写真を飽きずに眺めていたら、1年ほど前に撮った写真を思い出した。
場所は神保町の駅。
この頃の私は、何だかすごく気疲れしていて、思考が同じところをぐるぐるして気持ちが前に進まず、とにかく現状にウンザリしていた。
漠然と、そこから抜け出す何かしらの刺激が欲しくて、そういえばずっと神保町行ってないな、久々に行こうかな、と重たい身体をひきずって、すがるように駅に着いた。
どの出口から出ようか迷いながら、でも考えるのも億劫で、適当に近くの出口を降りようと足を踏み出した。
すると、不思議と人が一人もいない。
降りた先は改札に通じているはずなのに、人の往来も見えず、立っている私の前にも後ろにも、誰もいない。
心なしか、空気もひんやりしている。
地下鉄特有の、地鳴りのような音が遠くに聞こえる。
都心の地下鉄の腹中に、たったひとり、残されたような感覚。
その不思議な一瞬の奇跡に、淀んでいた頭にごうっと風が吹いたような気がした。
前へ向く気持ちがむくむくと湧いてきた。
何が引き金になったのか分からないけれど、自分が自分の居場所にちゃんと戻ってくるような、ちゃんとここにいて、自分の足で歩いていることにやっと気付いたみたいな、そんな感覚に襲われた。
この心の震動を覚えておきたいと思って、奇跡的な風景が崩れる前にと、慌てて撮った写真だった。
今思えば、きっとあの頃は、人に会いすぎていたのだと思う。
人間は社会的な生き物なくせに、ずっと社会の中で歩き回っていると、社会環境や他者に「反応」するだけの、機械のように合理的なものになってしまうことがある。
それが行き過ぎると、自分が自分のものなのかすら認識しにくくなって、でも身体は相変わらずきちんと環境に反応して仕事したり話をしたり笑ったり食べたりするので、心と身体がちょっとずつ乖離して、心だけが置いてけぼりにされたような、貧しい気持ちになっていく。
そういうとき、独りになる瞬間が少しでもあると、自分を思い出せる。
遠くまで伸ばしすぎていた知覚や思考が、ぴたりと相応の場所に収まり、きちんと自分のものとして扱えるようになる。
それができると、自信がつく。
自信がつくと、前に進める。
英語には、”solitude”という言葉がある。
平べったく訳すと「孤独」となるが、同じ孤独でも、”loneliness”とは違う。
“loneliness”は、独りで寂しい。他者がいないことでぽっかりと空白ができる。そこには一人でありながらも他者の影がある。
でも”solitude”は、”solo”、つまり文字通り、単なる「ひとつ」あるいは「一人」であること。
そこには他者はいないから、空白もなければ虚無感もない。
ただ自分という人間だけがいて、しっかり存在している。
私が眺めていた写真や、一年前の神保町でのプチ奇跡が清々しかったのは、”solitude”の中に幸福な発見があるからだ。
湖の水面にひっそりと浮かぶ白鳥が、他の白鳥と比較せずとも圧倒的に美しいように、たとえ人の多い都会でも、他者を消した風景には、しっかりと人がひとり、立っているはず。
私は私。
そのことを忘れてしまったら、人間の生活は苦しい。
特に人の多い東京だから、たとえ一瞬でも、そんなふうに独りであることの幸福を発見する瞬間が大事なのだと思う。
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"solitude" "photography"で検索してみたら、素晴らしい写真がたくさん出てきました。
たまには社交性を封じて、solitudeな写真を眺めてみるのはいかがでしょう?