静寂というテーマが気になり始めたのは、やはり絵画の影響が大きい。
ジョルジョ・デ・キリコの”Mystery and Melancholy of a Street”という絵がそのひとつだ。
日本語では「通りの神秘と憂鬱」。
アーチ型の建物が無機質に並ぶ通りを、影の差すこちら側から光に照らされた向こう側の道へ、少女が走っている。彼女の向かう先には、大きい人間の影が不気味に映っていて、少女を手招きしているようにも見える。温かみのないのっぺりとした白いアーチがどこまでも続いていくさまは、まるで決して人が踏み入れてはいけない場所に少女が迷い込んでしまったようで、見る者の違和感と不安を巧みに煽る。
キリコの絵は、どこか寓話的でファンタジックなのに、やけに現実味があって、背筋がぞくりとするような不穏なリアリティがある。そのアンバランスさがじわじわと尾を引き、残像となって脳裏にこびりつく。それが癖になる、というといささか怪しいが、とにかく一度見たら忘れがたい絵だ。
キリコの絵を初めて見たとき、「静寂」や「沈黙」という言葉のイメージが浮かんだのをよく覚えている。少女は走っているはずなのに、まるでその空間にぴたりと貼りつけられて時間が永遠に止まっているような、そんな印象を受けた。
静寂とひとくちにいっても色々とあるが、キリコの静寂には、温度や色味といった温かみがない。森の中の心地よい静けさや、静かなカフェの空気感とは真逆のものだ。
例えば、深夜の地下鉄の通路とか、迷宮のように広大な回廊、ビルが立ち並ぶ都会の摩天楼から人が消え失せた眺め、車がひとつもない高速道路、そういうイメージが近い。
だからキリコの絵を見ると、私の耳は不思議といつも、ぴんと張りつめた空気の中に、ハイヒールの音が恐ろしくよく響いているさまを連想してしまう。
それ以来、私はその残像にとりつかれ、「静寂を表現する」ということが大きなテーマのひとつになった。
そもそも絵画というのは、音という手段を持ちあわせていない。
同様に、文学は色も音も使えないし、音楽は見ることができない。
つまり、広く芸術と呼ばれるものは、往々にして不自由だ。
絵画という不自由の中で、いかに「静寂」という聴覚体験を疑似的に作り出すか。
それこそが表現者の真骨頂なのかもしれないと思うと、芸術表現というのは本当に奥が深いし面白い。
これは執筆に転じても同じことが言える。
手持ちは文字のみ、しかしこの色や音や静寂を表現したい、さてどう書けば文字だけでリアルな五感体験ができるか。そうやって悩むときが、実は一番楽しかったりするのだ。
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ジョルジョ・デ・キリコの絵は「形而上絵画」と呼ばれ、その表現技法やフィロソフィーは知れば知るほど大変興味深いです。少々クセがあるので好みは別れるかもしれませんが、面白い解説記事がたくさんあるので、興味を持った方は是非ネットで調べてみてください。マグリットやダリ、エドガー・エンデ(ドイツの作家ミヒャエル・エンデの父)などもあわせてオススメです!