Art Inspirations

素人作家のメモ箱

アートと活字を愛するアマチュア作家が運営するブログ。

ジャンルを超えて、広義の「アート」から得た様々なインスピレーションやアイデアを文章で表現していきます。
絵画、彫刻、インスタレーション、音楽、ダンス、デザイン、ファッション、建築などなど。





無音の風景

昨日は、大雪による混雑で長時間ホームで待たされ、凍えながらやっとの思いで帰宅した。

あまりの寒さにろくに景色も楽しめなかったのが悔しく、温かい家の中から外を覗いてみたら、見事な雪景色だった。

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しんしんと降る雪は、雨と違って音を立てない。

家屋も木々も、落ちてくる雪に埋もれていきながら、身動きひとつせず押し黙っている。

いつもなら夜道にコツコツと響き渡る人の足音も、

きし、きし、と雪を踏みしめて、

あるいは、さく、さく、と固まった雪溜まりにかかとを突き立てて、

静寂が壊れない程度の控えめな音を立てて歩き去っていく。

そしてまた、しんと静まり返る。

 

南国育ちで、雪のある風景を五感で感じ慣れていない私にとって、その音の風景は何だか現実離れしていて、夢を見るような心地でその静寂に浸った。

 

 

雪の降る風景の中に入りこむと、なぜかいつも、音について考える。

 

私のお気に入りの『蟲師』という漫画があって、その第二話「柔らかい角」を連想するからかもしれない。 

蟲師(1) (アフタヌーンコミックス)

蟲師(1) (アフタヌーンコミックス)

 

 

蟲師』の世界では、菌類や微生物よりも下等で、「生命の原生体そのものに近いもの達」のことを蟲(むし)と呼んでいる。

蟲が引き起こす現象は、奇々怪々で、幽霊や妖怪の類のようでもあるが、自然そのものが起こす超現象のことを広く示唆しているような節もあり、不快なおどろおどろしさはない。

人間が語りつくせない自然や生命の不思議を、分かりやすく具現化したものと言ってもいいかもしれない。

そんな蟲にまつわる小話を集めたシリーズなのだが、「柔らかい角」というエピソードでは、音に関わる蟲が登場する。

 

舞台は、雪深い山奥の村。

主人公の蟲師は、そこで起こった不可解な病を調査するべく、村を訪れる。

その冒頭の会話から、一部を引用したい。 

…このような雪の晩には物音ひとつしなくなり、話し声すら消えてしまう事もあるといいます。

そしてそういう時、耳を病んでしまう者が出るのです。

蟲師(1) 「柔らかい角」p64 村長の台詞) 

…これが音を喰ってるんです。普通森の中に棲息する蟲ですが、雪は音を吸収する。だから音を求めて里へ下りてきたんでしょう。

蟲師(1)「柔らかい角」p66 ギンコの台詞) 

 

雪が降り積もり、音を吸い取る。深い静寂のなかに長く居ると、人間の耳は病む。

この現象を、「音を喰う蟲」という可視的なものに昇華することで巧みに表現している。

タイトルの「柔らかい角」の意味や、蟲の寄生を解く鍵が、これまた大変に情緒豊かで、自然への畏敬と生命への丁寧な眼差しがとても愛情深く、語りだせばいくらでも語れるのだが…

ともかく、雪の風景を聴覚で感じ取る感受性の豊かさに感服したのと、見慣れぬ雪がもたらす「無音状態」への好奇心とで、この小話が、今でも強烈に記憶に残っているのだ。

 

だから、ひとたび雪景色のなかに閉じ込められると、私は半ば胸を高鳴らせながら、息をひそめ、沈黙の音に耳を澄ませる。

 

 

もしも、夜が更け、電車が終電を迎え、道路から車がいなくなり、人通りもまばらになり、店もすべて締まって、鳥や動物の物音さえもしなくなったら、世界はどうなるのだろう?

その世界は、うつくしいだろうか。

それとも、おそろしいだろうか。

その答えは、いずれを取っても正解な気がする。

 

音もなくしんしんと降る雪は、喧しい人間を押し隠し、自然の静寂の音を呼び覚ます。

かつては当たり前のようにはびこっていたであろう世界の沈黙を前にしたら、人間はきっと、その茫漠とした巨大な静けさに恐怖を感じるだろう。

しかしその景色は、今や失われてしまった無音の風景は、きっと、息をのむほど美しいに違いない。

 

 

***

「柔らかい角」以外にも、雪にまつわる話がたくさんあります。

個人的には、「春と嘯く」(第四巻)と「冬の底」(第八巻)がオススメ。

各話に出てくる蟲のネーミングも、とても粋で、日本語の美しさに気付かされます。 

蟲師 全10巻 完結セット (アフタヌーンKC)

蟲師 全10巻 完結セット (アフタヌーンKC)

 

 

蟲師』シリーズは、アニメ化もされています。

色づけられた風景がこれまた素晴らしい。音楽も静かで幻想的で、とても美しいです。

蟲師 オリジナルサウンドトラック 蟲音 全

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蟲師 第一集 (初回限定特装版) [DVD]

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蟲師 二十六譚 Blu-ray BOX

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「静けさ」や「暗がり」がもはや貴重になった今、それらを知ることはとても大事なことのように思えます。こちらは「暗闇」について考えたこと。

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土地の風景を糧にする|田舎と都会で、創作について考えたこと

遅ればせながら、あけましておめでとうございます。

本年もゆるゆると更新してまいりますので、引き続きよろしくお願い致します!

 

 

***

 

さて、年末年始は、数年ぶりに田舎に帰り、懐かしい風景と変わらない友人たちに心癒された連休だった。

故郷の何気ない風景や日常を、今や訪問者になってしまった大人の目線で切なく眺めつつ、この風景が私の創作への探求心を育ててきたんだなあと思うと感慨深かった。

 

そういえば昨年末、また細々と詩作を始めようかという気持ちが湧き、幼い頃に作った詩や短歌などを読み返していたのだが、我ながら「結構やるじゃないか」と思ってしまうものもいくつかあり、子供ならではの感受性の豊かさに驚かされた。

自然いっぱいの土地で育ったおかげなのか、花や植物についての作品が多く、まるで田舎で暮らす自然派作家の風情である。

正直、これは意外だった。

自分の創作のテーマは、あまり花とか綺麗なものではなくて、もっぱら闇の部分や無理難題に目を向ける派だと思い込んでいたからだ。(今思うと何だか斜に構えていたようでお恥ずかしい…)

どんどん広い都会へと移り住み、経験を重ねて成長していく過程で、人格や趣味嗜好が多少変化してしまっていたのかもしれない。

私にもこんな時代があったのだなあと思うと、幼少の頃の豊かな感性を鈍らせてしまったことに、口惜しさと寂しさを感じずにはいられなかった。

 

しかし同時に、都会に住まなければ知らなかった世界観や感性もあるのではないか、とも考えなおした。

子供の頃には知らなかった、一筋縄ではいかない人間関係の複雑さ。善悪の難しさ。

人の思考の奥深さや、生き方の多様性。

国政や経済、司法、ビジネス、文化社会が交差し入り乱れる、混沌とした情報の渦。

街にあふれる生きたことば。

次世代の文化・社会構造・コミュニケーション・コミュニティ。

もはや芸術的にさえ思われる最先端のテクノロジー。

ジャンルを超えて化学反応を起こし、次々と生まれる新時代のクリエイティビティ。

それらはきっと、狭い田舎では知り得なかった、夢に満ちた未来の感性だと思うのだ。

 

自然豊かな田舎の風景が、自分の感受性や命の豊かさと向き合う「心」の居場所だとするなら、都会は、活動し続け、刻一刻と変化しながら発展する「頭脳」の現場。

それぞれの土地に、風景が持つ特性がある。

そしてどうやら、私たちは知らぬ間にその養分を吸っているらしい。

 

実際、田舎に帰っている間は、不思議と自然にまつわる作品の着想が思い浮かんだり、分からないことがあってもすぐにはスマホには手が伸びず、立ち止まっては「なんだろう?」と熟考しがちになる。着眼点は細部へ、思考は内面へと潜っていく。

だから、田舎で小説を書こうとすると、勇壮なファンタジーや情緒ある詩歌、渋く沈静した純文学や、ほっこりとした人間模様を描きたくなる。自然の風景を吸い込み、感性豊かな世界にどっぷり浸かって、豊潤な絵画が見たくなる。哲学やことばや命について、深く考える。

 

それがひとたび東京に帰ると、たちまち街に取り込まれたかのように、貪欲に情報を吸い込み、思考の速度が速まり、もっと広く、外へ未来へと手が伸びる。

だから都心では、学びや発見の多い啓発本や、手に汗握るドラマチックなミステリー、おしゃれで粋で画期的なエンターテインメント小説が断然面白い。光のデジタルアートや、前衛的な空間芸術を目の当たりにして、ワクワクしたり思考の遊びを楽しんだりしたくなる。都市社会や時代の変遷、社会思想や文化構造について興味が湧く。

 

暮らしや思い出の作用もあるのかもしれないが、考えれば考えるほど、確かにその土地の風景の中に「養分」のようなものが漂っていて、それを知らず知らずのうちに吸い取って編集し、創出している気がするのだ。

都会と田舎、どちらが良いとも悪いとも言えない。

それぞれに養分の特性があって、都会では都会の、田舎では田舎の思想やアートが生まれていく。

 

それって何だか、ものすごく面白い!!!

 

だから今年はもっと、土地の風景に目を向け、創作の糧にしていきたい。

今自分がいる場所が孕んでいる何かを、注視して観察し、感性を研ぎ澄ませて、掬い上げてみることに挑戦していきたいと思います。

 

 

 ***

企画展は終わってしまいましたが、オットー・ネーベルの作品も興味深いヒントがありました。特に、都市の色彩を描く留めた「カラーアトラス(色彩地図帳)」は面白い。

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日常にある創作のヒントをいかに掬い上げるか。その着眼点に関心を持ったのは、アサダワタルさんの『表現のたね』という本がきっかけでした。

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アートの集大成「オットー・ネーベル展」から学ぶ創作のヒント

先週末、最終日のオットー・ネーベル展に駆け込みで行ってきた。

少し遅くなってしまったが、色々と学ぶことが多かったので、備忘のために考えたことを書き留めておこうと思う。

www.bunkamura.co.jp

「知られざるスイスの画家」とポスターにもあるように、オットー・ネーベルは日本ではあまり知られていない画家だ。

私もぶっちゃけカンディンスキー目当てで足を運んだのだけれど、予想以上に面白く、たちまちネーベルの虜になってしまった。

 

彼の画風は、年を重ねる毎にどんどん変化していく。

初期は、配色は時折ゴーギャンの趣があったり、モチーフはシャガールによく似ていたり、どこか子供が捉える世界のような、寓話的ないびつさや自由奔放な軽快さが見てとれる。

それが徐々に、クレーの画風へ近づき、カンディンスキーとよく似た視点で絵画を捉えるようになり、やがてより抽象的で記号的な、デザインに近しいものになっていく。

建築を学び、演劇の舞台で俳優として活動しながら、画家としても活動したというユニークな経歴の持ち主で、なるほど見れば見るほど彼の着眼点や試みは興味深く、創作という観点で多くの学びがあった。

そこで今回は、個人的に面白いと思った作品に着目して、「絵画×他の芸術領域」という切り口で分析しながら、創作活動にどう生かせるかを考察してみたい。

 

1.絵画×地図

ネーベルの作品で、中でもハッと驚いたのが、「カラーアトラス(色彩地図帳)」と名付けられた作品群だった。

抽象画というわけでもなく、その視点はあくまでも論理的な研究者の眼差しだ。

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カラーアトラスのポストカードセット。それぞれに「ナポリ」「ポンペイ」といった都市の名前がつけられている。

ネーベルは、イタリアでの旅で、それぞれの町が持つ光の濃淡を色で表現し、それらをカラーサンプルのように描き留め、制作の材料にしたのだという。

解説の言葉を借りれば、 「個人的な視覚体験と一定の色彩を対応させることで、心理歴史学的なカタログ化を目指した」のだそうだ。

この着眼点には、個人的に色彩学を学んだことがある手前、少なからず興奮した。

町の色という土着的な視覚情報を、絵画そのものに写し取る以前に、色彩という原始の状態に一旦分解しサンプリングしてから、再度、風景に入り込む不要な情報を濾過した状態で絵画として再構築する。

体験としての立体的な感性を、平面的な色彩記録としてマッピングするというこの変換技術には、舌を巻かずにはいられない。

これを執筆活動に応用するならば、訪れた土地をことばで表し、辞典のように記録しておき、そこから再度物語を構築する、といったところだろうか?

いったん原始的な部品に分解してから作り直す、という描写プロセスは、詩作や、物語のコンセプトを検討するのに使える手法かもしれない・・・などとポストカードを広げて勝手に考えを発展させては、思案に耽った。興味深い作品だった。

 

2.絵画×建築

ネーベルの作品を見ていると、絵画を「建築」する、という表現が頭に浮かぶ

研究者たちのインタビューが放映されていたのを聞いていたら、「地層のように絵の具を塗り重ね、点描の数さえ記憶するほど緻密な描き方をしていた」というような内容が語られていて、なるほどと得心した。

土台の色があり、その上から別な色を塗り重ね、さらに精緻な点描でもって、平面でありながら立体的な絵画を作り上げていく。

子供の頃、ブラウン管のテレビに目を凝らすと、三色の光源で複雑な映像が作られているのを発見して驚いたものだが、ネーベルの絵画はまさに同じように、幾重にも重ねられることによって、一口には何色とは言えない神秘的な色彩が完成する。

その過程は極めて構造的かつ論理的で、まるで、土台をセメントで塗り固め、鉄骨を入れ、ブロックや木材を積み上げていく建築作業のようだ。

ここでは、舞台設定や人物描写という土台を組んだ上に物語を「建築」しなければ、作品に厚みが出ないという、小説の執筆特有の大前提を思い知らされることになった。

 

3.絵画×音楽

ネーベルと親交の深かった有名画家として、カンディンスキーの作品もいくつかあった。

私はカンディンスキーのシステマチックな絵画表現が以前から気に入っていて、彼の作品とネーベルを比べることで、その共通項に「音」あるいは「音楽」があることを新たに発見させられた。

ネーベルは、音楽用語を題した作品で、音の強弱や音楽の風景を、具現化したような絵を描いている。

彼の着眼点は、さらに抽象度を増すと、音や動きそのものに向けられ、「持続的に」「赤く鳴り響く」「自らの内に浮揚して」といった表題に表されるようになる。

その絵画は、敷き詰められたタイルや建物の装飾のように、技巧に富み、職人的だ。

一方、カンディンスキーもまた音楽的な表現ではあるが、彼のほうはより分析的で、図面をひくように計算しつくされ、学者的な眼差しが感じられる。

f:id:numbernotes:20171225001104j:plain衝動買いしたカンディンスキーのハンカチ。設計図のような図形と記号で構成されたシステマチックな絵画だ。

ネーベルが「音」の躍動そのものに着目したのに対して、カンディンスキーは、多様な音が複雑に構成されてひとつの風景を持つ「音楽」の全体図を捉えたようにも思われる。

だから、ネーベルの「絵画音楽」は一音か二音のみが注意深く鳴っているのに対し、カンディンスキーの「絵画音楽」にはもっと大筋の物語性があり、がちゃがちゃ、ことこと、しゃらしゃらと、擬音語がたくさん思い浮かんだ。

絵画を見ながら音楽を鑑賞しているようで、不思議で楽しい気持ちになった。

音楽という芸術は、実は非常に物語性が高いものなのだ。

だから、音が色彩と形に変換されるのと同様に、音楽を物語に変換することだってできるかもしれない。

 

4.絵画×言葉

終盤に展示されていた作品のテーマで面白かったのが、何と言っても「文字」である。

ネーベルは、晩年に近東を旅してスケッチをしたそうだが、彼の文字や言葉に対する眼差しは、色彩・音・造形といった実に多様な側面から向けられている。

彼のキャンバスに捕らえられた文字は、音をたてながら踊ったり滑ったり、微生物のように蠱惑的な動きをしながら、色を発する。

文字に色を感じる「共感覚」というのを持つ人がいるらしいが、ネーベルは、色だけでなく、動きや音付きで文字が見えたのではないかと思ってしまうほどだ。

解説がまた大変興味深かったので、少し引用したい。

文字を独立した言語の単位としてとらえ、その音声・音響的側面と視覚的側面とが、作品の中で引き立ち合うことを目指している。

絵画の中に視覚化された自由な言葉の群れを見つめながら、言葉とは、文章とは、物語とは、一体何なのだろうと考え込んでしまった。

垣根を取っ払ったアートという広い舞台の上では、言葉もまた、色や音と同じ原始的な部品なのかもしれない。

それらの多様な部品を組み立てる行為と考えると、創作は驚くほど自由だ。

カンディンスキー目当てで軽い気持ちで行ったオットー・ネーベル展だったが、図らずも、これまで私が悶々と探り続けてきた「広義のアート」としてのことば・物語・文学についての思案が、すうっと集約されていくような至高の快感を味わうことになった。

改めて、芸術というものに垣根はなく、むしろ共鳴し得るものなのだと実感する。

枠が消失し、アートの可能性がどこまでも広がっていくような感覚。

それは宇宙のようにあまりにも広大で、恐怖すら感じるけれど、何かあっと驚くようなものが見えるような気がして心底わくわくする。

 

オットー・ネーベルに教えられたように、これからも、アートについて、創作について、深く深く考え続けていたい。

 

 

***

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「芸術を論理的に建築する」という考え方を掘り下げています。

 

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こちらは「音楽の物語性」について。

 

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ミヒャエル・エンデと、父エドガー・エンデの絵画は、私がアートの垣根を超えることについて考えるようになった原点です。

 

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読書と創作のミニマリズム

今週は何年かぶりに盛大に風邪をひき、家に閉じこもってうんうん唸っていた。

ようやく回復してきたが、まだちょっとフラフラして遠出するほどの体力もなく、でもずっと家にいるのも悔しい。そこで近所の図書館でリサイクル市をやっているのを思い出し、リハビリがてら足を運んでみた。

ところが、狭い集会所を会場にしているからか、入る人数を規制しているようで、図書館内にずらりと行列ができている。

まあ破格の値段で本が手に入るのだからいいかと思って並んでみたが、行列は一向に進まない。

だんだんイライラしてきて、暖房が効いた会場はどんよりと重たく、病み上がりの体には結構こたえる。

結局、ものの10分で気分が悪くなり、逃げるように家に舞い戻った。

 

戻ってベッドに横になり、一息ついてから、冷静に考えてみた。

そもそも、なんであんなに人が並ぶんだろう?

古本を10円でたくさんゲットできるから?

確かに私自身も並んだ動機はそうだったけれど、巨大なトートバッグに山ほど本を詰め込んで去っていく人を見て、不可解な気持ちになってしまった。

そんなに積んでどうするんだろう。本当に読むのだろうか?

読みたい本があれば、たとえお金がなくても、いつでも図書館で借りられるのに?

 

 

そこまで考えて、おっ、と気付いた。

最近、またミニマリズムの本を読み返していたので、その効能かもしれない。

 

ミニマリズムとは、不要なモノを手放して、モノによって規定されない豊かさや幸せを手に入れようとする思想や生活スタイルのことを言う。

初めて読んだときはまさに目からウロコで、昔は紙袋ひとつ捨てられなかった私が、あっという間にモノから解放されてスッキリした暮らしを送れるようになった。

考え方さえ身に付けば、ミニマリズムはあっけないほど簡単で楽しい。

 

ただ、私の場合、本だけはどうしても削れなかったので、ミニマライズを免除する代わりに、あるルールを設けた。

読みたいものがあれば、節約は気にせず買ってよし。

読み終わったら、本棚に並べるのは本当に気に入ったものと執筆に必要なものだけ。ただし、小ぶりな本棚に収まることが条件だ。それより溢れたら、何かを手放して、他の誰かのために売るか譲る。

積読本に関しては、読みたい本を並べておくのはワクワクするので許容することにして、これもベッドサイドに収まるまでが上限。

そうやってざっくりしたルールを設けたら、本を買うのもより楽しくなり、本を手放すのも惜しくなくなった。

 

そのルールを今一度思い起こし、再び、リサイクル市の行列を考えてみる。

確かに、10円で本をゲットできるのは嬉しい。

普段なら買ってまで読まないような本があれば、一期一会できっと楽しいだろう。

でも、家には読みかけの本が数冊、積読本が10冊弱。さらには図書館で予約している返却待ちの本も10冊以上、読みたい本のリストに至ってはゆうに100冊超え。

読書候補はそれこそ列をなして私を待っているのに、この行列を並んでまで、まだ必要だろうか?

答えは明らかだ。

 

 

いくら本の虫でも、世界中の本を読むのは不可能だ。

世界中どころか、小さな図書館の蔵書でさえ、一生かかっても読みきれないだろう。

それがたとえプロの作家でも、作家志望の読書家でも、生涯で読める本の限度は同じくらいでしかないはず。

行列に並ぶのに時間を費やすくらいなら、今読んでいる本をどんどん読み進めればいいし、昔読んだ良本を熟読して研究して、執筆の構想を練ればいい。

そして必要だと思ったら、惜しみなく新しい本を探しに行けばいい。

もちろん作家を目指すならとにかくたくさん読むのは当然だが、読む行為そのものに囚われて、次から次へと新しい本をゲットするために体力と精神力を費やし、肝心の執筆活動が疎かになっては本末転倒だ。

 

夢を叶えるために減らす、とミニマリストたちは口を揃えて言う。

それはモノに限らず、情報や知識に関しても、読書や執筆に関してもあてはまる。

例えば、幅広い知識は必要だが、まさに二兎追うものは一兎も得ずで、限度を超えて欲張りすぎると、どの知識も中途半端なままで止まってしまう。

ものを書くからといってあまりに詰め込みすぎ、知識でがんじがらめになって、創造性が奪われては意味がない。

作品そのものも、情報を取り入れすぎると収集がつかなくなって煩雑になり、作品に無駄が出る。

つまり、上手く取捨選択して「余白」を作らなければ、良質な何かを生み出すことはできないのだ。

こうみると、創作者にとって、情報収集と創作のバランスと、ミニマリズムの思想はとても親和性が高い。

 

  

 

…と、そんなことをベッドの中で考えて、起き上がっては本棚を漁り、関連書籍を読み返しながら、気が付いたらもりもりブログが書けるまでに回復していた。

行列に並んで体力を使うより、よっぽどいいリハビリだ。

結局のところ、病み上がりの身体には、無理して獲得する新しい本より、部屋にある「自分に必要な本」が一番効いた。

 

 

 

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ミニマリズムの関連書籍

ぼくたちに、もうモノは必要ない。 - 断捨離からミニマリストへ -

ぼくたちに、もうモノは必要ない。 - 断捨離からミニマリストへ -

 

私が初めて読んだミニマリズムの本。考え方や生き方がぐるっと変わりました。片付け本というより、もはや哲学の域。現代の日本人特有の生活感覚に合った、無理のないミニマリズムがとても共感できます。

 

より少ない生き方 ものを手放して豊かになる

より少ない生き方 ものを手放して豊かになる

 

 世界中でミニマリズム旋風を巻き起こしたベストセラー。

  

自由であり続けるために 20代で捨てるべき50のこと

自由であり続けるために 20代で捨てるべき50のこと

 

 二十代ならこれ。読みやすく、言葉もシンプルなので、どかんと響きます。早いうちに読んでおいてよかったと今でも思う一冊。

 

ゆたかな人生が始まる シンプルリスト (講談社+α文庫)

ゆたかな人生が始まる シンプルリスト (講談社+α文庫)

 

 こちらはモノというより、心のミニマリズム。ドミニック・ローホーさんの本はどれも良いのでオススメ。 

 

 

 

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迷子の特権|美を見つける歩き方 in 京都

 

自慢ではないが、私はかなりの方向音痴だ。

入り組んだ道になると一体自分がどこから来たのかすぐに分からなくなるし、「こっちかな?」とあてずっぽうで歩くと、だいたい目的地とは逆の方角に歩き出している。

だから街を歩くときは、GoogleMapがないとどこにも行けない。

万が一、連れもいない上に電池が切れて地図が見れなくなろうものなら、それはもう一大事で、不安でどきどきするわ汗はかくわ、ちょっとしたパニック状態に陥ってしまう。

 

そんな私にとって、京都という街はやさしい。

言わずもがな、通りが碁盤の目になっていて、地名も「東西の通り×南北の通り」でできているので、通りの名前さえ覚えてしまえば、今自分がどこにいるのか、どっちへ向かえばいいのか一目瞭然なのだ。

 

私は学生の頃に京都に住んでいたので、シーズンで人の多い観光スポットはあえて避け、ぶらぶらとスローな観光をする。

古民家の混じる住宅街を散歩して、マイナーな小さい寺院や神社が現れるとふらっと入って、また別な路地を見つけると気まぐれにそっちの道へ入っていく、という具合だ。

気になる書店があれば覗いてみればいいし、歩き疲れたら、目に入ったカフェにふらりと入ればいい。

仮に目的地があったとしても、そこまでの道のりをどう行くかは、ちょうど数学の確立の問題みたいに何通りもあるので、「なんかこっち面白そう」「大通りは人が多いから一本隣の道で行こう」と気分に任せて歩けるのが楽しい。

だから、いつもならGoogleMapに目を凝らしながら進んでいく私でも、京都を歩くときは、しばらくスマホはポケットのなかにおさめて、風景を味わう余裕ができる。

 

京都は、美しい街だと思う。

例えば、まだ昼間で店支度中なのか、ひっそりとした祇園界隈の通り。

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高台寺公園で、シャボン玉で遊ぶ家族と、しゃがみこんで幼い少年と気さくに話す人力車のお兄ちゃん。

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老舗の店先に咲く、綺麗に手入れのされた花。

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裏道に潜む、趣のある暗がり。

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紅葉を愛でる人々の脇で、黙々と落ち葉を集めるおじさんの仕事の跡。

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夜景や建造物や、勇壮な自然の絶景などとは違う、こまやかで優しい、人の暮らしの美しさ。

日常のなかに生まれては消えていく、ハッとするような一瞬の奇跡。

あたたかい人間の暮らしが築いた、道や建物や道具の趣き。

そういうものが、京都の街中には、謙虚な姿でいたるところに潜んでいる。

路地に迷い込み、さまよい歩くうちに、それらの「美」をふと見つけたとき、私は方向音痴で良かったとさえ思うのだ。

 

日本の街は、何気ない日常の風景にこそ、美しさが宿る。

つまりそれは、脇道に逸れて迷子になった人にしか、見つけられない「美」がたくさんあるということ。

忙しい東京の暮らしでは、目的地への最短距離が重要視される。

それでも時々は、GoogleMapを閉じて、迷子の特権を使ってみるのはどうだろう。

見過ごしていた日常のなかに、ハッと息をのむような美しさを発見できるかもしれない。

 

 

 

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先日京都へ行った際に、ふらりと立ち寄った書店さん「ホホホ座 三条大橋店」。

聞けば、昔の「ガケ書房」はいま「ホホホ座」に生まれ変わっていて、京都のあちこちに店舗ができているのだとか。

平積み(といっても1冊しかなかった)されていて、思わず買ったこの本が、とっても良かったです。

台湾男子がこっそり教える! 秘密の京都スポットガイド―左京区男子休日

台湾男子がこっそり教える! 秘密の京都スポットガイド―左京区男子休日

 

有名なお寺でも神社でもでもないけれど、平凡で味のある京都の風景がたくさん詰まっています。