先週末、最終日のオットー・ネーベル展に駆け込みで行ってきた。
少し遅くなってしまったが、色々と学ぶことが多かったので、備忘のために考えたことを書き留めておこうと思う。
「知られざるスイスの画家」とポスターにもあるように、オットー・ネーベルは日本ではあまり知られていない画家だ。
私もぶっちゃけカンディンスキー目当てで足を運んだのだけれど、予想以上に面白く、たちまちネーベルの虜になってしまった。
彼の画風は、年を重ねる毎にどんどん変化していく。
初期は、配色は時折ゴーギャンの趣があったり、モチーフはシャガールによく似ていたり、どこか子供が捉える世界のような、寓話的ないびつさや自由奔放な軽快さが見てとれる。
それが徐々に、クレーの画風へ近づき、カンディンスキーとよく似た視点で絵画を捉えるようになり、やがてより抽象的で記号的な、デザインに近しいものになっていく。
建築を学び、演劇の舞台で俳優として活動しながら、画家としても活動したというユニークな経歴の持ち主で、なるほど見れば見るほど彼の着眼点や試みは興味深く、創作という観点で多くの学びがあった。
そこで今回は、個人的に面白いと思った作品に着目して、「絵画×他の芸術領域」という切り口で分析しながら、創作活動にどう生かせるかを考察してみたい。
1.絵画×地図
ネーベルの作品で、中でもハッと驚いたのが、「カラーアトラス(色彩地図帳)」と名付けられた作品群だった。
抽象画というわけでもなく、その視点はあくまでも論理的な研究者の眼差しだ。
カラーアトラスのポストカードセット。それぞれに「ナポリ」「ポンペイ」といった都市の名前がつけられている。
ネーベルは、イタリアでの旅で、それぞれの町が持つ光の濃淡を色で表現し、それらをカラーサンプルのように描き留め、制作の材料にしたのだという。
解説の言葉を借りれば、 「個人的な視覚体験と一定の色彩を対応させることで、心理歴史学的なカタログ化を目指した」のだそうだ。
この着眼点には、個人的に色彩学を学んだことがある手前、少なからず興奮した。
町の色という土着的な視覚情報を、絵画そのものに写し取る以前に、色彩という原始の状態に一旦分解しサンプリングしてから、再度、風景に入り込む不要な情報を濾過した状態で絵画として再構築する。
体験としての立体的な感性を、平面的な色彩記録としてマッピングするというこの変換技術には、舌を巻かずにはいられない。
これを執筆活動に応用するならば、訪れた土地をことばで表し、辞典のように記録しておき、そこから再度物語を構築する、といったところだろうか?
いったん原始的な部品に分解してから作り直す、という描写プロセスは、詩作や、物語のコンセプトを検討するのに使える手法かもしれない・・・などとポストカードを広げて勝手に考えを発展させては、思案に耽った。興味深い作品だった。
2.絵画×建築
ネーベルの作品を見ていると、絵画を「建築」する、という表現が頭に浮かぶ。
研究者たちのインタビューが放映されていたのを聞いていたら、「地層のように絵の具を塗り重ね、点描の数さえ記憶するほど緻密な描き方をしていた」というような内容が語られていて、なるほどと得心した。
土台の色があり、その上から別な色を塗り重ね、さらに精緻な点描でもって、平面でありながら立体的な絵画を作り上げていく。
子供の頃、ブラウン管のテレビに目を凝らすと、三色の光源で複雑な映像が作られているのを発見して驚いたものだが、ネーベルの絵画はまさに同じように、幾重にも重ねられることによって、一口には何色とは言えない神秘的な色彩が完成する。
その過程は極めて構造的かつ論理的で、まるで、土台をセメントで塗り固め、鉄骨を入れ、ブロックや木材を積み上げていく建築作業のようだ。
ここでは、舞台設定や人物描写という土台を組んだ上に物語を「建築」しなければ、作品に厚みが出ないという、小説の執筆特有の大前提を思い知らされることになった。
3.絵画×音楽
ネーベルと親交の深かった有名画家として、カンディンスキーの作品もいくつかあった。
私はカンディンスキーのシステマチックな絵画表現が以前から気に入っていて、彼の作品とネーベルを比べることで、その共通項に「音」あるいは「音楽」があることを新たに発見させられた。
ネーベルは、音楽用語を題した作品で、音の強弱や音楽の風景を、具現化したような絵を描いている。
彼の着眼点は、さらに抽象度を増すと、音や動きそのものに向けられ、「持続的に」「赤く鳴り響く」「自らの内に浮揚して」といった表題に表されるようになる。
その絵画は、敷き詰められたタイルや建物の装飾のように、技巧に富み、職人的だ。
一方、カンディンスキーもまた音楽的な表現ではあるが、彼のほうはより分析的で、図面をひくように計算しつくされ、学者的な眼差しが感じられる。
衝動買いしたカンディンスキーのハンカチ。設計図のような図形と記号で構成されたシステマチックな絵画だ。
ネーベルが「音」の躍動そのものに着目したのに対して、カンディンスキーは、多様な音が複雑に構成されてひとつの風景を持つ「音楽」の全体図を捉えたようにも思われる。
だから、ネーベルの「絵画音楽」は一音か二音のみが注意深く鳴っているのに対し、カンディンスキーの「絵画音楽」にはもっと大筋の物語性があり、がちゃがちゃ、ことこと、しゃらしゃらと、擬音語がたくさん思い浮かんだ。
絵画を見ながら音楽を鑑賞しているようで、不思議で楽しい気持ちになった。
音楽という芸術は、実は非常に物語性が高いものなのだ。
だから、音が色彩と形に変換されるのと同様に、音楽を物語に変換することだってできるかもしれない。
4.絵画×言葉
終盤に展示されていた作品のテーマで面白かったのが、何と言っても「文字」である。
ネーベルは、晩年に近東を旅してスケッチをしたそうだが、彼の文字や言葉に対する眼差しは、色彩・音・造形といった実に多様な側面から向けられている。
彼のキャンバスに捕らえられた文字は、音をたてながら踊ったり滑ったり、微生物のように蠱惑的な動きをしながら、色を発する。
文字に色を感じる「共感覚」というのを持つ人がいるらしいが、ネーベルは、色だけでなく、動きや音付きで文字が見えたのではないかと思ってしまうほどだ。
解説がまた大変興味深かったので、少し引用したい。
文字を独立した言語の単位としてとらえ、その音声・音響的側面と視覚的側面とが、作品の中で引き立ち合うことを目指している。
絵画の中に視覚化された自由な言葉の群れを見つめながら、言葉とは、文章とは、物語とは、一体何なのだろうと考え込んでしまった。
垣根を取っ払ったアートという広い舞台の上では、言葉もまた、色や音と同じ原始的な部品なのかもしれない。
それらの多様な部品を組み立てる行為と考えると、創作は驚くほど自由だ。
カンディンスキー目当てで軽い気持ちで行ったオットー・ネーベル展だったが、図らずも、これまで私が悶々と探り続けてきた「広義のアート」としてのことば・物語・文学についての思案が、すうっと集約されていくような至高の快感を味わうことになった。
改めて、芸術というものに垣根はなく、むしろ共鳴し得るものなのだと実感する。
枠が消失し、アートの可能性がどこまでも広がっていくような感覚。
それは宇宙のようにあまりにも広大で、恐怖すら感じるけれど、何かあっと驚くようなものが見えるような気がして心底わくわくする。
オットー・ネーベルに教えられたように、これからも、アートについて、創作について、深く深く考え続けていたい。
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