Art Inspirations

素人作家のメモ箱

アートと活字を愛するアマチュア作家が運営するブログ。

ジャンルを超えて、広義の「アート」から得た様々なインスピレーションやアイデアを文章で表現していきます。
絵画、彫刻、インスタレーション、音楽、ダンス、デザイン、ファッション、建築などなど。





アートの集大成「オットー・ネーベル展」から学ぶ創作のヒント

先週末、最終日のオットー・ネーベル展に駆け込みで行ってきた。

少し遅くなってしまったが、色々と学ぶことが多かったので、備忘のために考えたことを書き留めておこうと思う。

www.bunkamura.co.jp

「知られざるスイスの画家」とポスターにもあるように、オットー・ネーベルは日本ではあまり知られていない画家だ。

私もぶっちゃけカンディンスキー目当てで足を運んだのだけれど、予想以上に面白く、たちまちネーベルの虜になってしまった。

 

彼の画風は、年を重ねる毎にどんどん変化していく。

初期は、配色は時折ゴーギャンの趣があったり、モチーフはシャガールによく似ていたり、どこか子供が捉える世界のような、寓話的ないびつさや自由奔放な軽快さが見てとれる。

それが徐々に、クレーの画風へ近づき、カンディンスキーとよく似た視点で絵画を捉えるようになり、やがてより抽象的で記号的な、デザインに近しいものになっていく。

建築を学び、演劇の舞台で俳優として活動しながら、画家としても活動したというユニークな経歴の持ち主で、なるほど見れば見るほど彼の着眼点や試みは興味深く、創作という観点で多くの学びがあった。

そこで今回は、個人的に面白いと思った作品に着目して、「絵画×他の芸術領域」という切り口で分析しながら、創作活動にどう生かせるかを考察してみたい。

 

1.絵画×地図

ネーベルの作品で、中でもハッと驚いたのが、「カラーアトラス(色彩地図帳)」と名付けられた作品群だった。

抽象画というわけでもなく、その視点はあくまでも論理的な研究者の眼差しだ。

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カラーアトラスのポストカードセット。それぞれに「ナポリ」「ポンペイ」といった都市の名前がつけられている。

ネーベルは、イタリアでの旅で、それぞれの町が持つ光の濃淡を色で表現し、それらをカラーサンプルのように描き留め、制作の材料にしたのだという。

解説の言葉を借りれば、 「個人的な視覚体験と一定の色彩を対応させることで、心理歴史学的なカタログ化を目指した」のだそうだ。

この着眼点には、個人的に色彩学を学んだことがある手前、少なからず興奮した。

町の色という土着的な視覚情報を、絵画そのものに写し取る以前に、色彩という原始の状態に一旦分解しサンプリングしてから、再度、風景に入り込む不要な情報を濾過した状態で絵画として再構築する。

体験としての立体的な感性を、平面的な色彩記録としてマッピングするというこの変換技術には、舌を巻かずにはいられない。

これを執筆活動に応用するならば、訪れた土地をことばで表し、辞典のように記録しておき、そこから再度物語を構築する、といったところだろうか?

いったん原始的な部品に分解してから作り直す、という描写プロセスは、詩作や、物語のコンセプトを検討するのに使える手法かもしれない・・・などとポストカードを広げて勝手に考えを発展させては、思案に耽った。興味深い作品だった。

 

2.絵画×建築

ネーベルの作品を見ていると、絵画を「建築」する、という表現が頭に浮かぶ

研究者たちのインタビューが放映されていたのを聞いていたら、「地層のように絵の具を塗り重ね、点描の数さえ記憶するほど緻密な描き方をしていた」というような内容が語られていて、なるほどと得心した。

土台の色があり、その上から別な色を塗り重ね、さらに精緻な点描でもって、平面でありながら立体的な絵画を作り上げていく。

子供の頃、ブラウン管のテレビに目を凝らすと、三色の光源で複雑な映像が作られているのを発見して驚いたものだが、ネーベルの絵画はまさに同じように、幾重にも重ねられることによって、一口には何色とは言えない神秘的な色彩が完成する。

その過程は極めて構造的かつ論理的で、まるで、土台をセメントで塗り固め、鉄骨を入れ、ブロックや木材を積み上げていく建築作業のようだ。

ここでは、舞台設定や人物描写という土台を組んだ上に物語を「建築」しなければ、作品に厚みが出ないという、小説の執筆特有の大前提を思い知らされることになった。

 

3.絵画×音楽

ネーベルと親交の深かった有名画家として、カンディンスキーの作品もいくつかあった。

私はカンディンスキーのシステマチックな絵画表現が以前から気に入っていて、彼の作品とネーベルを比べることで、その共通項に「音」あるいは「音楽」があることを新たに発見させられた。

ネーベルは、音楽用語を題した作品で、音の強弱や音楽の風景を、具現化したような絵を描いている。

彼の着眼点は、さらに抽象度を増すと、音や動きそのものに向けられ、「持続的に」「赤く鳴り響く」「自らの内に浮揚して」といった表題に表されるようになる。

その絵画は、敷き詰められたタイルや建物の装飾のように、技巧に富み、職人的だ。

一方、カンディンスキーもまた音楽的な表現ではあるが、彼のほうはより分析的で、図面をひくように計算しつくされ、学者的な眼差しが感じられる。

f:id:numbernotes:20171225001104j:plain衝動買いしたカンディンスキーのハンカチ。設計図のような図形と記号で構成されたシステマチックな絵画だ。

ネーベルが「音」の躍動そのものに着目したのに対して、カンディンスキーは、多様な音が複雑に構成されてひとつの風景を持つ「音楽」の全体図を捉えたようにも思われる。

だから、ネーベルの「絵画音楽」は一音か二音のみが注意深く鳴っているのに対し、カンディンスキーの「絵画音楽」にはもっと大筋の物語性があり、がちゃがちゃ、ことこと、しゃらしゃらと、擬音語がたくさん思い浮かんだ。

絵画を見ながら音楽を鑑賞しているようで、不思議で楽しい気持ちになった。

音楽という芸術は、実は非常に物語性が高いものなのだ。

だから、音が色彩と形に変換されるのと同様に、音楽を物語に変換することだってできるかもしれない。

 

4.絵画×言葉

終盤に展示されていた作品のテーマで面白かったのが、何と言っても「文字」である。

ネーベルは、晩年に近東を旅してスケッチをしたそうだが、彼の文字や言葉に対する眼差しは、色彩・音・造形といった実に多様な側面から向けられている。

彼のキャンバスに捕らえられた文字は、音をたてながら踊ったり滑ったり、微生物のように蠱惑的な動きをしながら、色を発する。

文字に色を感じる「共感覚」というのを持つ人がいるらしいが、ネーベルは、色だけでなく、動きや音付きで文字が見えたのではないかと思ってしまうほどだ。

解説がまた大変興味深かったので、少し引用したい。

文字を独立した言語の単位としてとらえ、その音声・音響的側面と視覚的側面とが、作品の中で引き立ち合うことを目指している。

絵画の中に視覚化された自由な言葉の群れを見つめながら、言葉とは、文章とは、物語とは、一体何なのだろうと考え込んでしまった。

垣根を取っ払ったアートという広い舞台の上では、言葉もまた、色や音と同じ原始的な部品なのかもしれない。

それらの多様な部品を組み立てる行為と考えると、創作は驚くほど自由だ。

カンディンスキー目当てで軽い気持ちで行ったオットー・ネーベル展だったが、図らずも、これまで私が悶々と探り続けてきた「広義のアート」としてのことば・物語・文学についての思案が、すうっと集約されていくような至高の快感を味わうことになった。

改めて、芸術というものに垣根はなく、むしろ共鳴し得るものなのだと実感する。

枠が消失し、アートの可能性がどこまでも広がっていくような感覚。

それは宇宙のようにあまりにも広大で、恐怖すら感じるけれど、何かあっと驚くようなものが見えるような気がして心底わくわくする。

 

オットー・ネーベルに教えられたように、これからも、アートについて、創作について、深く深く考え続けていたい。

 

 

***

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こちらは「音楽の物語性」について。

 

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ミヒャエル・エンデと、父エドガー・エンデの絵画は、私がアートの垣根を超えることについて考えるようになった原点です。

 

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読書と創作のミニマリズム

今週は何年かぶりに盛大に風邪をひき、家に閉じこもってうんうん唸っていた。

ようやく回復してきたが、まだちょっとフラフラして遠出するほどの体力もなく、でもずっと家にいるのも悔しい。そこで近所の図書館でリサイクル市をやっているのを思い出し、リハビリがてら足を運んでみた。

ところが、狭い集会所を会場にしているからか、入る人数を規制しているようで、図書館内にずらりと行列ができている。

まあ破格の値段で本が手に入るのだからいいかと思って並んでみたが、行列は一向に進まない。

だんだんイライラしてきて、暖房が効いた会場はどんよりと重たく、病み上がりの体には結構こたえる。

結局、ものの10分で気分が悪くなり、逃げるように家に舞い戻った。

 

戻ってベッドに横になり、一息ついてから、冷静に考えてみた。

そもそも、なんであんなに人が並ぶんだろう?

古本を10円でたくさんゲットできるから?

確かに私自身も並んだ動機はそうだったけれど、巨大なトートバッグに山ほど本を詰め込んで去っていく人を見て、不可解な気持ちになってしまった。

そんなに積んでどうするんだろう。本当に読むのだろうか?

読みたい本があれば、たとえお金がなくても、いつでも図書館で借りられるのに?

 

 

そこまで考えて、おっ、と気付いた。

最近、またミニマリズムの本を読み返していたので、その効能かもしれない。

 

ミニマリズムとは、不要なモノを手放して、モノによって規定されない豊かさや幸せを手に入れようとする思想や生活スタイルのことを言う。

初めて読んだときはまさに目からウロコで、昔は紙袋ひとつ捨てられなかった私が、あっという間にモノから解放されてスッキリした暮らしを送れるようになった。

考え方さえ身に付けば、ミニマリズムはあっけないほど簡単で楽しい。

 

ただ、私の場合、本だけはどうしても削れなかったので、ミニマライズを免除する代わりに、あるルールを設けた。

読みたいものがあれば、節約は気にせず買ってよし。

読み終わったら、本棚に並べるのは本当に気に入ったものと執筆に必要なものだけ。ただし、小ぶりな本棚に収まることが条件だ。それより溢れたら、何かを手放して、他の誰かのために売るか譲る。

積読本に関しては、読みたい本を並べておくのはワクワクするので許容することにして、これもベッドサイドに収まるまでが上限。

そうやってざっくりしたルールを設けたら、本を買うのもより楽しくなり、本を手放すのも惜しくなくなった。

 

そのルールを今一度思い起こし、再び、リサイクル市の行列を考えてみる。

確かに、10円で本をゲットできるのは嬉しい。

普段なら買ってまで読まないような本があれば、一期一会できっと楽しいだろう。

でも、家には読みかけの本が数冊、積読本が10冊弱。さらには図書館で予約している返却待ちの本も10冊以上、読みたい本のリストに至ってはゆうに100冊超え。

読書候補はそれこそ列をなして私を待っているのに、この行列を並んでまで、まだ必要だろうか?

答えは明らかだ。

 

 

いくら本の虫でも、世界中の本を読むのは不可能だ。

世界中どころか、小さな図書館の蔵書でさえ、一生かかっても読みきれないだろう。

それがたとえプロの作家でも、作家志望の読書家でも、生涯で読める本の限度は同じくらいでしかないはず。

行列に並ぶのに時間を費やすくらいなら、今読んでいる本をどんどん読み進めればいいし、昔読んだ良本を熟読して研究して、執筆の構想を練ればいい。

そして必要だと思ったら、惜しみなく新しい本を探しに行けばいい。

もちろん作家を目指すならとにかくたくさん読むのは当然だが、読む行為そのものに囚われて、次から次へと新しい本をゲットするために体力と精神力を費やし、肝心の執筆活動が疎かになっては本末転倒だ。

 

夢を叶えるために減らす、とミニマリストたちは口を揃えて言う。

それはモノに限らず、情報や知識に関しても、読書や執筆に関してもあてはまる。

例えば、幅広い知識は必要だが、まさに二兎追うものは一兎も得ずで、限度を超えて欲張りすぎると、どの知識も中途半端なままで止まってしまう。

ものを書くからといってあまりに詰め込みすぎ、知識でがんじがらめになって、創造性が奪われては意味がない。

作品そのものも、情報を取り入れすぎると収集がつかなくなって煩雑になり、作品に無駄が出る。

つまり、上手く取捨選択して「余白」を作らなければ、良質な何かを生み出すことはできないのだ。

こうみると、創作者にとって、情報収集と創作のバランスと、ミニマリズムの思想はとても親和性が高い。

 

  

 

…と、そんなことをベッドの中で考えて、起き上がっては本棚を漁り、関連書籍を読み返しながら、気が付いたらもりもりブログが書けるまでに回復していた。

行列に並んで体力を使うより、よっぽどいいリハビリだ。

結局のところ、病み上がりの身体には、無理して獲得する新しい本より、部屋にある「自分に必要な本」が一番効いた。

 

 

 

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ミニマリズムの関連書籍

ぼくたちに、もうモノは必要ない。 - 断捨離からミニマリストへ -

ぼくたちに、もうモノは必要ない。 - 断捨離からミニマリストへ -

 

私が初めて読んだミニマリズムの本。考え方や生き方がぐるっと変わりました。片付け本というより、もはや哲学の域。現代の日本人特有の生活感覚に合った、無理のないミニマリズムがとても共感できます。

 

より少ない生き方 ものを手放して豊かになる

より少ない生き方 ものを手放して豊かになる

 

 世界中でミニマリズム旋風を巻き起こしたベストセラー。

  

自由であり続けるために 20代で捨てるべき50のこと

自由であり続けるために 20代で捨てるべき50のこと

 

 二十代ならこれ。読みやすく、言葉もシンプルなので、どかんと響きます。早いうちに読んでおいてよかったと今でも思う一冊。

 

ゆたかな人生が始まる シンプルリスト (講談社+α文庫)

ゆたかな人生が始まる シンプルリスト (講談社+α文庫)

 

 こちらはモノというより、心のミニマリズム。ドミニック・ローホーさんの本はどれも良いのでオススメ。 

 

 

 

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迷子の特権|美を見つける歩き方 in 京都

 

自慢ではないが、私はかなりの方向音痴だ。

入り組んだ道になると一体自分がどこから来たのかすぐに分からなくなるし、「こっちかな?」とあてずっぽうで歩くと、だいたい目的地とは逆の方角に歩き出している。

だから街を歩くときは、GoogleMapがないとどこにも行けない。

万が一、連れもいない上に電池が切れて地図が見れなくなろうものなら、それはもう一大事で、不安でどきどきするわ汗はかくわ、ちょっとしたパニック状態に陥ってしまう。

 

そんな私にとって、京都という街はやさしい。

言わずもがな、通りが碁盤の目になっていて、地名も「東西の通り×南北の通り」でできているので、通りの名前さえ覚えてしまえば、今自分がどこにいるのか、どっちへ向かえばいいのか一目瞭然なのだ。

 

私は学生の頃に京都に住んでいたので、シーズンで人の多い観光スポットはあえて避け、ぶらぶらとスローな観光をする。

古民家の混じる住宅街を散歩して、マイナーな小さい寺院や神社が現れるとふらっと入って、また別な路地を見つけると気まぐれにそっちの道へ入っていく、という具合だ。

気になる書店があれば覗いてみればいいし、歩き疲れたら、目に入ったカフェにふらりと入ればいい。

仮に目的地があったとしても、そこまでの道のりをどう行くかは、ちょうど数学の確立の問題みたいに何通りもあるので、「なんかこっち面白そう」「大通りは人が多いから一本隣の道で行こう」と気分に任せて歩けるのが楽しい。

だから、いつもならGoogleMapに目を凝らしながら進んでいく私でも、京都を歩くときは、しばらくスマホはポケットのなかにおさめて、風景を味わう余裕ができる。

 

京都は、美しい街だと思う。

例えば、まだ昼間で店支度中なのか、ひっそりとした祇園界隈の通り。

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高台寺公園で、シャボン玉で遊ぶ家族と、しゃがみこんで幼い少年と気さくに話す人力車のお兄ちゃん。

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老舗の店先に咲く、綺麗に手入れのされた花。

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裏道に潜む、趣のある暗がり。

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紅葉を愛でる人々の脇で、黙々と落ち葉を集めるおじさんの仕事の跡。

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夜景や建造物や、勇壮な自然の絶景などとは違う、こまやかで優しい、人の暮らしの美しさ。

日常のなかに生まれては消えていく、ハッとするような一瞬の奇跡。

あたたかい人間の暮らしが築いた、道や建物や道具の趣き。

そういうものが、京都の街中には、謙虚な姿でいたるところに潜んでいる。

路地に迷い込み、さまよい歩くうちに、それらの「美」をふと見つけたとき、私は方向音痴で良かったとさえ思うのだ。

 

日本の街は、何気ない日常の風景にこそ、美しさが宿る。

つまりそれは、脇道に逸れて迷子になった人にしか、見つけられない「美」がたくさんあるということ。

忙しい東京の暮らしでは、目的地への最短距離が重要視される。

それでも時々は、GoogleMapを閉じて、迷子の特権を使ってみるのはどうだろう。

見過ごしていた日常のなかに、ハッと息をのむような美しさを発見できるかもしれない。

 

 

 

***

 

先日京都へ行った際に、ふらりと立ち寄った書店さん「ホホホ座 三条大橋店」。

聞けば、昔の「ガケ書房」はいま「ホホホ座」に生まれ変わっていて、京都のあちこちに店舗ができているのだとか。

平積み(といっても1冊しかなかった)されていて、思わず買ったこの本が、とっても良かったです。

台湾男子がこっそり教える! 秘密の京都スポットガイド―左京区男子休日

台湾男子がこっそり教える! 秘密の京都スポットガイド―左京区男子休日

 

有名なお寺でも神社でもでもないけれど、平凡で味のある京都の風景がたくさん詰まっています。

 

 

 

 

物語の在庫|日常に生じた「溝」をキャッチする

 

『表現のたね』という本を読んだ。

作家でありミュージシャンでもあり、自称”日常編集家”だというアサダワタルさんの著書である。

この本を買ったのはもう二ヶ月以上も前で、ブックイベントに初めて足を運び、本屋さんとの楽しい会話につられてついつい買ってしまったものだ。

本屋さんが露店くらいのスペースを使って本を出品し、訪れた人は、フリーマーケットのような気分で色んな店を回り、本を手に取ったり本屋さんと会話したりする。

 

そのお店でも、私がタイトルに惹かれてこの本を手に取ると、ちょっとだけ興奮気味に「その本、あんまり書店には流通してないんですけど、すごくおすすめなんです」と声をかけてくださった。

とても率直で人の良さそうな、若い女性の店員さんが二人。

まだその場に慣れていなかった私は、曖昧な笑みを浮かべただけで黙ってしまったのだが、気を悪くする様子もなく、にこにこと本を選ぶ私を見守ってくれる。

一度はそそくさと別の店へ行ってしまったけれど、そのあとやっぱり気になってその店に戻り、「これください」と声をかけると、それはもう大喜びで、嬉々として「ありがとうございます!」と言って下さった。

お二人が「やったあ、売れたねえ」とほくほくした笑顔で仲良く顔を見合わせていた様子が何だかくすぐったくて、本を買うという、いつもは黙って一人でこなす行為がこんなに嬉しいことなのかと驚いて、その場面がずっと心に焼き付いていた。

だからこの本はちゃんと大事に読まなければいけない気がして、結局、機会がなくて何カ月も積読本のなかで熟成してしまっていたのである。

 

 

この『表現のたね』の帯には、こんなことばが書かれている。

流れ去る日常にばら蒔かれた、表現のたね。

私たちはそれを掬いとれるだろうか?

 

ドラマチックな感動秘話でもなく、手に汗握る物語でもなく、ためになる啓発本でもない。

ただ、流れゆく日常の中で、あまりにもささやかでふっと過ぎ去ってしまう何か、しかしどこかちょっとだけ非日常めいていて、大きな芸術や物語や表現に成長する可能性を秘めた何かを、膨らませるのでも磨くのでもなく「たね」のまま拾いあげた小話たち。

エッセイと呼ぶにはあまりに弱々しいそれらの文章が寄せ集まり、日常がまた日常のまま、読者の脳内に再上映される。

そして読後には、生活感丸出しの団地や公園を散歩したような、町の喫茶店で人通りを眺めて暇をつぶしたような、なんでもない出来事として自身の日常に紛れていってしまう。

本というより、仕方がないから日常をそのまま本という型にざーっと流し込んでぞんざいに棚に仕舞ったような、粗と味わいと愛おしさのあるアート作品だった。

 

読後の余韻を反芻しながら、アサダワタルさんが「表現のたね」と表現したものを、私は「物語が生まれるとっかかり」として自分のことばに読み替えてみる。

それはきっと、日常からほんの少しだけズレた、「溝」のようなものだ。

例えば、

少年が想像の中で遊ぶとき、多彩なフィールドに変化する家具。(「家具を鍛える」p67-75)

免許講習の日に意識される道端の些細なアクシデント。(「免許講習演劇」p84-85)

野宿生活で、天井のブルーシートを打つ雨音。(「ピンクフラミンゴが見えるあの小屋から」p155-156)

叩いてみて気づく、米の量で変化する炊飯器の音。(「炊飯の境目」p164-165)

皮膚科の待合室で意識される「肌を掻く」という行為。(「掻くこと」p166-169)

アーケードの下で傘を差す人や、電車を待つ行列に穴をあける人や、電車の車窓から差し込む細切れの光にチカチカと光る本。(「駅は育む」p187-193)

日常を映画にしてくださいと言われたら、きっと表現から漏れてしまうであろうちょっとしたイレギュラーや、無意識から意識の領域に引っ張り出すことで生まれてくる違和感。

それらの「溝」をキャッチできれば、きっと無限の表現ができるということなのだろう。

 

そう考えると、表現する人、何かを創り出す人にとって、生きている限り在庫は尽きない。

なぜなら、典型的な日常から逸脱せずに生きていく人はいないからだ。

そもそも日常というのは、毎日起こり得ることの多い出来事を、積み上げてならした平均値であって、私たちの暮らしそのものではない。

そのことに気付くと、毎日が「溝」だらけで、「表現のたね」で溢れかえっていることを発見し、息をのむ。

 

 

思えば、この本を手に取ったことだって、「溝」のようなものだ。

普段は、書店や古本屋で、口を閉ざして黙々と本を選んでいた私の日常。

それが、ブックマーケットに足を運び、本屋さんとの会話と思い出つきで本を買ったことで、「本を買う」という行為の定義がちょっとズレて、日常に溝ができた。

その溝の証であるこの本が、日常に生じた溝を「表現のたね」として意識させ、日常が密かに孕んでいる豊かな「物語のとっかかり」を私に授けてくれた。

この偶然の循環のようなものが、とても不思議で、とても嬉しい。

 

日常の中に散らばった「表現のたね」。

一生尽きない物語の在庫。

私は、掬いとれるだろうか。

 

 

***

Special thanks to:

素敵なブックマーケットを開催されている「本との土曜日」さん。

hontonodoyobi.com

 

この本を勧めてくださった「新城劇場」さん。

(近々「Book & Cafe stand」として生まれ変わるそうですね!)

新城劇場 | 屋台のある本屋

 

それから、本との土曜日に誘って下さった@emotojuriさん。

 

ありがとうございました(^^) 

 

 

創作のマネジメント|自己満に陥らずに書き続ける方法

ご無沙汰しております。

怒涛の追い込みの末、10月末日に無事に群像新人文学賞に応募でき、しばし放心しておりました。

ということで、今回は色々と思うことがあり、いつもと少し雰囲気を変えて、執筆について語ってみようかと思います。

 

 

◆今回の応募の反省点は、とにかく計画不足 

もうこれまで何度も、小説をひとつ完成させて文学賞に応募するということを繰り返していますが、完成後に振り返ると、毎回いろんな反省点が出てきます。

物語構成の甘さ、表現の重複、登場人物の設定や造形の不足、安易な言葉選び、句読点の位置、表記のブレ、会話文の無駄、などなど、見返せば見返すほど粗ばかりで情けなくなるくらいです。

その中でも、今回は何といっても、計画の甘さが一番の反省点でした。

 

前作を完成させて応募したのが3月末。

それから次の構想を練って、10月末までに短編を完成させるつもりでした。

しかし、なかなか構想が決まらず、ずるずると先延ばしになり、気付けばもう夏真っ盛り。

大枠のアイデアはあったものの、それをストーリーに組み立てるのに難航し、建築で言えば、土台まで作ったけど、設計書ができていなくて建設がストップしているような状態でした。

8月頃になって、さすがに追い込まれて火がついたのか、やっとストーリーが見えて構成が整いましたが、結局筆が進み始めたのは9月からという瀬戸際の闘いに。

挙句の果てに、2ヶ月間で詰めに詰め込んで書きまくり、間を置く暇もないまま大急ぎで推敲し、締切前夜に息も絶え絶えに投函、という散々な結果になってしまいました。

 

 

◆対策1:ポイントを体系化してセルフチェックする 

では、今回のようなことを防ぐために、どんな対策をしておけばよかったのか?

 

試しに、創作活動において、今までなんとなーく気を付けていたポイントを書き出して、マネジメントという観点で整理してみました。

 

①時間のマネジメント

・締め切りはいつか。(マイルストーンを置く)

・そこから逆算して、いつまでに完成し、どのくらいの期間推敲が必要か。(スケジュールを立てる)

・毎日どのくらいの時間を執筆に充てれば間に合うか。(スケジュールの詳細化、作業時間を見積もる)

・本業が忙しくなったり、思わぬイベントで執筆が滞った場合、間に合わなくなるリスクはないか。(バッファを設ける)

 

②品質のマネジメント

・どのタイミングで執筆を中断し、見直しをするか。(こまめな定期点検)

・どこまで、どのように修正すべきか。(修正によって矛盾が生まれないように)

・予め登場人物や舞台設定がしっかり準備できているか。(部品のチェック)

・完成後、何回、どのくらいの期間を設けて推敲するか。(最終テスト、品質チェック)

 

 ※推敲していく中でもさらに細かなポイントがありますが、ここでは割愛。

 

③環境のマネジメント

・書こうとしている題材に関する情報・資料は十分か。

・貯めているアイデアにいつでもアクセスできるか。

・原稿のデータ管理はきちんとできているか。

・不明点があったらすぐに調べられる環境になっているか。

・執筆に集中できる環境が整っているか。

 

④自分自身のマネジメント

・作品の軸になる考え方にブレがないか。

・自分の考えやモチベーションを保つための工夫はできているか。

・インプットの時間を取れているか。

・体力的に無理なスケジュールになっていないか。

・他の予定との兼ね合いが取れているか。

・リフレッシュする時間を取れているか。

 

もちろん、これらのポイント以前に、「書きたいコンセプトや物語の主旨が明確になっていること」が大前提です。

 

こうして文字にして並べてみると、いかに一人で黙々と文章を書いているだけといっても、結構色々なことに気を配りながら進めているんだなあと実感します。

今回の応募では、特に①時間のマネジメントができていなかったということですね。。

一見、感情の吐露のように思われがちな創作活動においても、こうやって体系立ててみると、何が不足していて、どこが詰めが甘いかが見えてきます。

 

 

◆対策2:作品のテーマとは別に、活動自体の課題を設定する

反省点は山ほどあったものの、達成できたこともありました。

それは、原稿用紙70枚程度の短編とはいえ、(構想を練る期間を除いて)ほぼ2か月間で1つの作品を仕上げられたということ。

何とも低レベルな達成度ですが、これまで執筆速度が遅かった私にとっては大きな進歩でした。

 

いわゆる五大文芸誌の新人賞に本格的に応募し始めたのは、今回を入れて3回目ですが、振り返ってみると、これまでの作品でも、毎回何かしらの課題を設定してきました。

まず1作目の課題は、語彙力や表現力、表現の幅を身に付けること。

辞書や類語辞典を片手に、一語一語をじっくり吟味しながら書いた結果、散文的な小説になってしまって文学としてはイマイチでしたが、この作品で一気に語彙力や表現力が身に付いた気がします。

次の2作目は、普通の話を書けるようになること。

それまで好き勝手書いていたので、基礎はちゃんとできてる?と不安になったのが動機でした。小説の書き方を本や講座でちゃんと勉強して、安易にファンタジーに逃げずに、「普通の人」の生活や心の動き、街の様子をしっかり書けるか、ということを研究しました。

結果としては、なにしろ「普通」の話なので新人賞には到底届かずでしたが、少しは地に足のついた文章が書けるようになったかな?という感触はありました。

 

そして今回の課題は、執筆のスピードアップと、短編を書けるようになること。

これまでは、中・長編をゆるゆるとマイペースに書いていましたが、もうちょっと気を引き締めて、もっと精力的に執筆に取り組みたい、そのためにも同時進行で複数の作品を書けるようになりたい、と思うようになり、ある程度の時間の制約を設けた上でどこまで書けるか、という実験を試みました。

内容はともあれ、この点だけでいえば、まずまずの結果だったのではないかと思います。

 

創作活動というのは、正解がなく評価もしにくいので、モチベーションを保つのが大変です。ましてや、文学賞に応募していると、ダメもとだったとしても、落選するといちいち落ち込みます。

そこでめげないためにも、作品の内容とは別の課題を設定しておいたのは有効でした。

 

さらに、これまでの活動の変遷を客観的に分析してみることで、強みや弱みが見えてきて、次の作品へ向けた改善点や対策を考えるのにも役立ちました。

私の場合だと、

語彙力の習得→小説の基礎を固める→執筆速度をあげる

とここまできて、次は全部を一作品でクリアできたら、ようやく作品の内容自体を磨き上げる段階に入れるかも?

といった具合に、ステップアップの作戦を練ることができます。

道のりは長いけど、進歩や学びを(たとえこじつけでも)発見できると、俄然やる気が湧いて面白くなってくるものです。

 

所詮は自己評価でしかないので、傍から見ると口ほどにもないでしょうけど、少なくとも、創作活動を地道に続けていくためのモチベーションを保つには効果がありました。

 

 

◆自由だからこその「自律」 

小説を書くことは、映画のように大勢の関係者でひとつのものを創り上げるのとは違って、極めて個人的で、自由な活動かもしれません。

しかしそれでも、読むに値するものを生み出すためには、自分と作品をしっかりとマネジメントすることが不可欠です。

実際私も、

1.ポイントを体系化してセルフチェックする

2.作品のテーマとは別に、活動自体の課題を設定する

この二点を実践してみただけでも、随分と客観的に自分の創作活動を分析することができ、モチベーションの維持にもつながりました。

 

執筆は個人的な活動なだけあって、読者を忘れてついつい自己満に陥ってしまい、たやすく「イタイ」「恥ずかしい」作品に堕ちてしまいがちです。

かといって、ストイックに自分の作品をダメ出しし続けても、今度は心が折れて何も書けなくなってしまいます。

このジレンマに上手く対処するためにも、客観的に、でも程よくポジティブに、自分の筆力と精神力をコントロールしていかなければなりません。

何でもアリだからこそ、自分を律する。

それができて初めて、自由に書けるようになるのではないでしょうか。

 

 

 

さて、偉そうにいろいろ書きましたが、言うは易く行うは難し。

まだまだ道半ばですが、懲りずに、あれこれと試行錯誤しながら今後も続けていきたいと思います。

 

 

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こちらでも、創作について思うことを書いています。

artinspirations.hatenablog.com