Art Inspirations

素人作家のメモ箱

アートと活字を愛するアマチュア作家が運営するブログ。

ジャンルを超えて、広義の「アート」から得た様々なインスピレーションやアイデアを文章で表現していきます。
絵画、彫刻、インスタレーション、音楽、ダンス、デザイン、ファッション、建築などなど。





物語の在庫|日常に生じた「溝」をキャッチする

 

『表現のたね』という本を読んだ。

作家でありミュージシャンでもあり、自称”日常編集家”だというアサダワタルさんの著書である。

この本を買ったのはもう二ヶ月以上も前で、ブックイベントに初めて足を運び、本屋さんとの楽しい会話につられてついつい買ってしまったものだ。

本屋さんが露店くらいのスペースを使って本を出品し、訪れた人は、フリーマーケットのような気分で色んな店を回り、本を手に取ったり本屋さんと会話したりする。

 

そのお店でも、私がタイトルに惹かれてこの本を手に取ると、ちょっとだけ興奮気味に「その本、あんまり書店には流通してないんですけど、すごくおすすめなんです」と声をかけてくださった。

とても率直で人の良さそうな、若い女性の店員さんが二人。

まだその場に慣れていなかった私は、曖昧な笑みを浮かべただけで黙ってしまったのだが、気を悪くする様子もなく、にこにこと本を選ぶ私を見守ってくれる。

一度はそそくさと別の店へ行ってしまったけれど、そのあとやっぱり気になってその店に戻り、「これください」と声をかけると、それはもう大喜びで、嬉々として「ありがとうございます!」と言って下さった。

お二人が「やったあ、売れたねえ」とほくほくした笑顔で仲良く顔を見合わせていた様子が何だかくすぐったくて、本を買うという、いつもは黙って一人でこなす行為がこんなに嬉しいことなのかと驚いて、その場面がずっと心に焼き付いていた。

だからこの本はちゃんと大事に読まなければいけない気がして、結局、機会がなくて何カ月も積読本のなかで熟成してしまっていたのである。

 

 

この『表現のたね』の帯には、こんなことばが書かれている。

流れ去る日常にばら蒔かれた、表現のたね。

私たちはそれを掬いとれるだろうか?

 

ドラマチックな感動秘話でもなく、手に汗握る物語でもなく、ためになる啓発本でもない。

ただ、流れゆく日常の中で、あまりにもささやかでふっと過ぎ去ってしまう何か、しかしどこかちょっとだけ非日常めいていて、大きな芸術や物語や表現に成長する可能性を秘めた何かを、膨らませるのでも磨くのでもなく「たね」のまま拾いあげた小話たち。

エッセイと呼ぶにはあまりに弱々しいそれらの文章が寄せ集まり、日常がまた日常のまま、読者の脳内に再上映される。

そして読後には、生活感丸出しの団地や公園を散歩したような、町の喫茶店で人通りを眺めて暇をつぶしたような、なんでもない出来事として自身の日常に紛れていってしまう。

本というより、仕方がないから日常をそのまま本という型にざーっと流し込んでぞんざいに棚に仕舞ったような、粗と味わいと愛おしさのあるアート作品だった。

 

読後の余韻を反芻しながら、アサダワタルさんが「表現のたね」と表現したものを、私は「物語が生まれるとっかかり」として自分のことばに読み替えてみる。

それはきっと、日常からほんの少しだけズレた、「溝」のようなものだ。

例えば、

少年が想像の中で遊ぶとき、多彩なフィールドに変化する家具。(「家具を鍛える」p67-75)

免許講習の日に意識される道端の些細なアクシデント。(「免許講習演劇」p84-85)

野宿生活で、天井のブルーシートを打つ雨音。(「ピンクフラミンゴが見えるあの小屋から」p155-156)

叩いてみて気づく、米の量で変化する炊飯器の音。(「炊飯の境目」p164-165)

皮膚科の待合室で意識される「肌を掻く」という行為。(「掻くこと」p166-169)

アーケードの下で傘を差す人や、電車を待つ行列に穴をあける人や、電車の車窓から差し込む細切れの光にチカチカと光る本。(「駅は育む」p187-193)

日常を映画にしてくださいと言われたら、きっと表現から漏れてしまうであろうちょっとしたイレギュラーや、無意識から意識の領域に引っ張り出すことで生まれてくる違和感。

それらの「溝」をキャッチできれば、きっと無限の表現ができるということなのだろう。

 

そう考えると、表現する人、何かを創り出す人にとって、生きている限り在庫は尽きない。

なぜなら、典型的な日常から逸脱せずに生きていく人はいないからだ。

そもそも日常というのは、毎日起こり得ることの多い出来事を、積み上げてならした平均値であって、私たちの暮らしそのものではない。

そのことに気付くと、毎日が「溝」だらけで、「表現のたね」で溢れかえっていることを発見し、息をのむ。

 

 

思えば、この本を手に取ったことだって、「溝」のようなものだ。

普段は、書店や古本屋で、口を閉ざして黙々と本を選んでいた私の日常。

それが、ブックマーケットに足を運び、本屋さんとの会話と思い出つきで本を買ったことで、「本を買う」という行為の定義がちょっとズレて、日常に溝ができた。

その溝の証であるこの本が、日常に生じた溝を「表現のたね」として意識させ、日常が密かに孕んでいる豊かな「物語のとっかかり」を私に授けてくれた。

この偶然の循環のようなものが、とても不思議で、とても嬉しい。

 

日常の中に散らばった「表現のたね」。

一生尽きない物語の在庫。

私は、掬いとれるだろうか。

 

 

***

Special thanks to:

素敵なブックマーケットを開催されている「本との土曜日」さん。

hontonodoyobi.com

 

この本を勧めてくださった「新城劇場」さん。

(近々「Book & Cafe stand」として生まれ変わるそうですね!)

新城劇場 | 屋台のある本屋

 

それから、本との土曜日に誘って下さった@emotojuriさん。

 

ありがとうございました(^^) 

 

 

創作のマネジメント|自己満に陥らずに書き続ける方法

ご無沙汰しております。

怒涛の追い込みの末、10月末日に無事に群像新人文学賞に応募でき、しばし放心しておりました。

ということで、今回は色々と思うことがあり、いつもと少し雰囲気を変えて、執筆について語ってみようかと思います。

 

 

◆今回の応募の反省点は、とにかく計画不足 

もうこれまで何度も、小説をひとつ完成させて文学賞に応募するということを繰り返していますが、完成後に振り返ると、毎回いろんな反省点が出てきます。

物語構成の甘さ、表現の重複、登場人物の設定や造形の不足、安易な言葉選び、句読点の位置、表記のブレ、会話文の無駄、などなど、見返せば見返すほど粗ばかりで情けなくなるくらいです。

その中でも、今回は何といっても、計画の甘さが一番の反省点でした。

 

前作を完成させて応募したのが3月末。

それから次の構想を練って、10月末までに短編を完成させるつもりでした。

しかし、なかなか構想が決まらず、ずるずると先延ばしになり、気付けばもう夏真っ盛り。

大枠のアイデアはあったものの、それをストーリーに組み立てるのに難航し、建築で言えば、土台まで作ったけど、設計書ができていなくて建設がストップしているような状態でした。

8月頃になって、さすがに追い込まれて火がついたのか、やっとストーリーが見えて構成が整いましたが、結局筆が進み始めたのは9月からという瀬戸際の闘いに。

挙句の果てに、2ヶ月間で詰めに詰め込んで書きまくり、間を置く暇もないまま大急ぎで推敲し、締切前夜に息も絶え絶えに投函、という散々な結果になってしまいました。

 

 

◆対策1:ポイントを体系化してセルフチェックする 

では、今回のようなことを防ぐために、どんな対策をしておけばよかったのか?

 

試しに、創作活動において、今までなんとなーく気を付けていたポイントを書き出して、マネジメントという観点で整理してみました。

 

①時間のマネジメント

・締め切りはいつか。(マイルストーンを置く)

・そこから逆算して、いつまでに完成し、どのくらいの期間推敲が必要か。(スケジュールを立てる)

・毎日どのくらいの時間を執筆に充てれば間に合うか。(スケジュールの詳細化、作業時間を見積もる)

・本業が忙しくなったり、思わぬイベントで執筆が滞った場合、間に合わなくなるリスクはないか。(バッファを設ける)

 

②品質のマネジメント

・どのタイミングで執筆を中断し、見直しをするか。(こまめな定期点検)

・どこまで、どのように修正すべきか。(修正によって矛盾が生まれないように)

・予め登場人物や舞台設定がしっかり準備できているか。(部品のチェック)

・完成後、何回、どのくらいの期間を設けて推敲するか。(最終テスト、品質チェック)

 

 ※推敲していく中でもさらに細かなポイントがありますが、ここでは割愛。

 

③環境のマネジメント

・書こうとしている題材に関する情報・資料は十分か。

・貯めているアイデアにいつでもアクセスできるか。

・原稿のデータ管理はきちんとできているか。

・不明点があったらすぐに調べられる環境になっているか。

・執筆に集中できる環境が整っているか。

 

④自分自身のマネジメント

・作品の軸になる考え方にブレがないか。

・自分の考えやモチベーションを保つための工夫はできているか。

・インプットの時間を取れているか。

・体力的に無理なスケジュールになっていないか。

・他の予定との兼ね合いが取れているか。

・リフレッシュする時間を取れているか。

 

もちろん、これらのポイント以前に、「書きたいコンセプトや物語の主旨が明確になっていること」が大前提です。

 

こうして文字にして並べてみると、いかに一人で黙々と文章を書いているだけといっても、結構色々なことに気を配りながら進めているんだなあと実感します。

今回の応募では、特に①時間のマネジメントができていなかったということですね。。

一見、感情の吐露のように思われがちな創作活動においても、こうやって体系立ててみると、何が不足していて、どこが詰めが甘いかが見えてきます。

 

 

◆対策2:作品のテーマとは別に、活動自体の課題を設定する

反省点は山ほどあったものの、達成できたこともありました。

それは、原稿用紙70枚程度の短編とはいえ、(構想を練る期間を除いて)ほぼ2か月間で1つの作品を仕上げられたということ。

何とも低レベルな達成度ですが、これまで執筆速度が遅かった私にとっては大きな進歩でした。

 

いわゆる五大文芸誌の新人賞に本格的に応募し始めたのは、今回を入れて3回目ですが、振り返ってみると、これまでの作品でも、毎回何かしらの課題を設定してきました。

まず1作目の課題は、語彙力や表現力、表現の幅を身に付けること。

辞書や類語辞典を片手に、一語一語をじっくり吟味しながら書いた結果、散文的な小説になってしまって文学としてはイマイチでしたが、この作品で一気に語彙力や表現力が身に付いた気がします。

次の2作目は、普通の話を書けるようになること。

それまで好き勝手書いていたので、基礎はちゃんとできてる?と不安になったのが動機でした。小説の書き方を本や講座でちゃんと勉強して、安易にファンタジーに逃げずに、「普通の人」の生活や心の動き、街の様子をしっかり書けるか、ということを研究しました。

結果としては、なにしろ「普通」の話なので新人賞には到底届かずでしたが、少しは地に足のついた文章が書けるようになったかな?という感触はありました。

 

そして今回の課題は、執筆のスピードアップと、短編を書けるようになること。

これまでは、中・長編をゆるゆるとマイペースに書いていましたが、もうちょっと気を引き締めて、もっと精力的に執筆に取り組みたい、そのためにも同時進行で複数の作品を書けるようになりたい、と思うようになり、ある程度の時間の制約を設けた上でどこまで書けるか、という実験を試みました。

内容はともあれ、この点だけでいえば、まずまずの結果だったのではないかと思います。

 

創作活動というのは、正解がなく評価もしにくいので、モチベーションを保つのが大変です。ましてや、文学賞に応募していると、ダメもとだったとしても、落選するといちいち落ち込みます。

そこでめげないためにも、作品の内容とは別の課題を設定しておいたのは有効でした。

 

さらに、これまでの活動の変遷を客観的に分析してみることで、強みや弱みが見えてきて、次の作品へ向けた改善点や対策を考えるのにも役立ちました。

私の場合だと、

語彙力の習得→小説の基礎を固める→執筆速度をあげる

とここまできて、次は全部を一作品でクリアできたら、ようやく作品の内容自体を磨き上げる段階に入れるかも?

といった具合に、ステップアップの作戦を練ることができます。

道のりは長いけど、進歩や学びを(たとえこじつけでも)発見できると、俄然やる気が湧いて面白くなってくるものです。

 

所詮は自己評価でしかないので、傍から見ると口ほどにもないでしょうけど、少なくとも、創作活動を地道に続けていくためのモチベーションを保つには効果がありました。

 

 

◆自由だからこその「自律」 

小説を書くことは、映画のように大勢の関係者でひとつのものを創り上げるのとは違って、極めて個人的で、自由な活動かもしれません。

しかしそれでも、読むに値するものを生み出すためには、自分と作品をしっかりとマネジメントすることが不可欠です。

実際私も、

1.ポイントを体系化してセルフチェックする

2.作品のテーマとは別に、活動自体の課題を設定する

この二点を実践してみただけでも、随分と客観的に自分の創作活動を分析することができ、モチベーションの維持にもつながりました。

 

執筆は個人的な活動なだけあって、読者を忘れてついつい自己満に陥ってしまい、たやすく「イタイ」「恥ずかしい」作品に堕ちてしまいがちです。

かといって、ストイックに自分の作品をダメ出しし続けても、今度は心が折れて何も書けなくなってしまいます。

このジレンマに上手く対処するためにも、客観的に、でも程よくポジティブに、自分の筆力と精神力をコントロールしていかなければなりません。

何でもアリだからこそ、自分を律する。

それができて初めて、自由に書けるようになるのではないでしょうか。

 

 

 

さて、偉そうにいろいろ書きましたが、言うは易く行うは難し。

まだまだ道半ばですが、懲りずに、あれこれと試行錯誤しながら今後も続けていきたいと思います。

 

 

***

こちらでも、創作について思うことを書いています。

artinspirations.hatenablog.com

匂いたつ絵画|ヴラマンク展ー絵画と言葉で紡ぐ人生

先日、山梨県立美術館で開催されているヴラマンク展へ行ってきた。 

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ヴラマンクは、マティスやドランと並んで、フォーヴィズムの画家として知られる。

そのヴラマンクが、画家でありながら、優れた文筆家でもあったと聞き、ビビッときた。

有給休暇の当日朝に迷わず電車に飛び乗り、車内から慌ただしく宿を取り、喜び勇んで甲府まで足を運んだ。

 

 

暑いくらいの晴天の日差しの中、美術館へたどり着き、平日で閑散とした館内へどきどきしながら入る。

余談になるが、私はいつも、作品を見ながら展示作品リストにがりがりとメモを取る。手持ちのボールペンやシャーペンはNGなので、スタッフの方に鉛筆をお借りするのだが、山梨県立美術館では、親切なスタッフさんがバインダーまで貸してくださった。

お心遣いに感激しながら、ギャラリー内へ。

 

まず、「春の村」「シャトゥーの洪水」の2作品の前まで来て、立ち止まった。

いずれの作品も共通して、空や草、水面などが、太いタッチで描かれ、絵画全体に大きな流れをつくっている。

小高い丘から見えるのどかな村の景色を描いた「春の村」は、右下から左上へ、風に払われるような斜めの流れ。セーヌ川の氾濫によって水に沈んだ平原を静かにとらえた「シャトゥーの洪水」は、風がふきすさび水面に波ができたような、横向きの流れ。

まるで一瞬で過ぎ去ってしまう走馬灯のような、はかなくも力強いタッチに、魅せられた。

この「流れ」は、静物画にも名残があった。

「花の静物画」では、白い花瓶に生けられた花から、かすかに漏れ出るように、その赤や黄の色彩が宙に漂う。花の色が、その周囲の空気にまで尾を引いている、と言えば近いだろうか。

 

その奇妙に惹きつけられる「流れ」は、一体なんだろうと思った。

それは、空気、あるいはそこに満ちる「匂い」ではないか。

鼻がむず痒くなるような春草の匂い。

平原を飲み込み、静謐に空を映す水面の匂い。

宙に漏れ出る、芳しい花の香り。

匂いたつ絵画。

 

ジョルジョ・デ・キリコの絵画が静寂だとするならば、ヴラマンクは、五感をくすぐる音と匂いのある絵画だった。

ヴラマンクと対照的な、キリコについてはこちら。)

artinspirations.hatenablog.com

 

 

ヴラマンクは、何と言っても、冬の風景画で人気を集める画家だ。

ヴラマンク展にも、ゆうに20点を超える冬の風景画があり、どれもよりいっそう「匂い」の際立つ絵ばかりだった。

積もった雪と溶け合い、水気を含んだ土の香り。

泥の混じった雪道の匂い、ザクザクとそれを踏みしめる人の足音。

触れればぐっしょりと手が濡れてかじかんでしまいそうな、白茶の地面。

吹きすさぶ冷たい風。

凍った湖のように、薄雲が走る寒空。

鼻をつんとつく冬の匂い。

 

ヴラマンクは筋金入りの冬好きだったとみえて、こんな言葉も書いている。

私は、寒く、どんよりとした日々、霧にむせぶ世界、雑木林の枝や茂み、垣根に降り注いだ霧も、愛している。

ヴラマンク展 図録 p48 「冬の風景」) 

厳しい冬の寒さや雨や太陽にさらされて古色がついた、硬い石材からなる重い塊の大きな建物…。刈り入れ、耕作、春、太陽、雪…。それらすべての光景を含んだ風景、あらゆる季節のリズムのなかに息づいている風景を知っている。

ヴラマンク展 図録 p65 「冬の風景」) 

 

風景が鮮明に広がるような美しい言葉から、ヴラマンクの自然への真摯な愛、絵画へのひたむきな態度が、雪に触れたようにじんじんと心に染み入り、溶け出すようだった。

 

 

ヴラマンクの匂いたつ絵画と、ひとつひとつの絵に合わせて並べられた彼自身の言葉は、驚くほど豊かで、心を打つ美しいものだった。

ギャラリーの出口に静かに映し出されたヴラマンクの「私の遺言」は、琴線に触れ、人の心を震わせる言葉だと思う。

力強く活力にあふれ、優しく切実な、愛に満ちた言葉だった。

 

ヴラマンク展を通じてつくづく感じたのは、絵画も言葉も、芸術は何かを表現する手段でしかないのだということ。

愛すべきもの・美しいものを、可能な限り本質を壊さないように、そっと捕らえ、世界に媒介する道具であるということ。

まだまだ若く青臭い私だから、言葉という芸術に迷ったら、80歳のヴラマンクが遺した芸術に、また帰ってきたいと思う。

 

 

最後に、感動して迷わず購入した図録から、一番心打たれた言葉を一部引用したい。

芸術作品は、感動をもたらし、伝える手段であるにほかならない。

《中略》

技術や技巧は、無視できる要因ではないが、それらのできることは、感情を位置づけ、それを補強することでしかないのである。

 ヴラマンク展 図録 p55 「冬の村通り」)

 

 

 

***

山梨県立美術館、とってもよい美術館でした。常設展の感想はまた後日。

www.art-museum.pref.yamanashi.jp

芸術のはざま|演劇はなぜなくならないのか

 

先週末、縁あって、ひさしぶりに舞台を見に行く機会があったので、演劇という芸術について色々と考えた。

 

考えてみると、演劇というものはつくづく不思議だ。

脚本・演出・監督・音響・照明・衣裳・役者と、ひとつの作品を作り上げるのに必要な仕事は映画とよく似ているが、映画と決定的に違うのは、撮り直しが許されないことと、時間軸や場面の切り替えが容易でないこと。

ずっと同じ空間で、時間の経過や場所の移動をさえ表現しなければならないと思うと、あまりに窮屈で不自由だ。

そういう点では、ロケ地を変え、時間を変え、納得がいくまで撮り続けることができる映画のほうが、おのずと表現の完成度は高くなるはず。

ましてや、音楽や照明、道具だって、公演が始まればストップはできないのだから、壊れたりタイミングが合わなかったりなんていう失敗は許されない。超スリリングだ。

やり直しがきかないという意味では、音楽のライブやコンサートにも少し似ているが、数曲ごとに現実に戻り、演者と観客とが素でコミュニケーションできるコンサートと違って、演劇は丸々数時間、固唾をのんで舞台を見つめ、ひとつの物語の中に浸かったままでいなければならない。

演出や効果、演技の精度は、撮り直しのきく映画のほうが絶対に完成度が高くなるし、音楽よりも一作品の世界が持続する時間が圧倒的に長い。

色んな芸術のはざまにいるような感じ。

そんな中途半端なところにいるから、映画やドラマや音楽やアニメや、その他周辺のマンモス芸術に取って代わられそうなものだが、演劇という芸術が根強く残っているのはなぜなのか。

 

そんなことを考えていたら、ふと、随分前に書店でみかけた「美術手帖」という雑誌の特集を思い出した。

バックナンバーを調べてみたら、1年ちょい前。

当時、マンガのミュージカル化が流行っていたのはなんとなく知っていたが、そもそもマンガに馴染みがないし、それをミュージカルにする意味って何?何が楽しいの?と正直怪訝な気持ちがあり、読んでいなかった。

でも、未知のものへの好奇心もあったし、「2.5次元文化」というフレーズがキャッチーだったので、頭には残っていたらしい。

ちょっとジャンルは違うが、演劇というものについて考えるヒントが何かありそうな気がしたので、思い立ったが吉日。

ネットで早速ゲットしてパラパラと読んでみたら、これがなかなか興味深かった。

 

どうやら、ファンたちが「2.5次元」にハマる理由は、ファンタジーのキャラクターが生身で動いている楽しさや、ファンタジーでありながら、共感できるリアリティーも垣間見えることにあるらしい。

現実には存在していないはずの生身のキャラクターに、舞台では会える。

役者ではなくてキャラクターの名前を叫んで、その場で応援できる。

そういう一体感というか、マンガというファンタジーの世界の中に自分も入り込んで、キャラクターと同じ次元になれることが、「2.5次元文化」が流行る所以なのだそうだ。

なるほど、実写版映画を見るのとは、また少し消費の目的が違うらしい。

 

話を戻すと、つまり、観劇に行くファンたちの動機は、映画の「生」版を観たいわけでも、スクリーンを見るように「鑑賞」したいわけでもない。

創作された物語に入り込み、その物語の中で動き回る架空の人物を、生身の人間として見ることの面白さ。

リアルタイムに物語が進んでいくことで、その時間や感情や空気感を擬似的に共有し、一緒に物語の中へ分け入っていくようなワクワク感。

それを求めて、演劇を見に行くのだろう。

映画と比べて制約の多い舞台に、わざわざ足を運ぶことにも得心がいく。

 

そして、それを踏まえて創作者の側に立ち戻ってみると、演劇の奥深さに改めて驚かずにはいられない。

中途半端に思えていた演劇が、むしろ非常に高度な芸術に思えてくる。

なにせ、観客に物語を伝えるだけでなく、空間そのものを、劇場のではなく「演じている物語のなかの空気」を、観客と共有できるところまでもっていかねばならないのだ。

逆に言えば、ひとつの架空の物語を現実までひっぱってくる必要がある。

しかも、物理的に、舞台の範囲内でしか表現の枠を与えられないなかで、だ。

純粋にスゴイ。

 

ここのところご無沙汰になっていた観劇だったが、時には足を運んで、高度な物語表現にどっぷり浸かってみるのも大事だと、心を改めた。

 

矛盾と越境|芸術の臨界点をどう超えるか

 

最近、芸術と言われるものが、総じて頭打ちになっているような気がしてならない。

専門家ではないのでこれは個人的な感覚に過ぎないのだけれど、それぞれの芸術の在り方や定義、あるいはそれぞれの「枠」に納まってきたものが、飽和状態になっている、というか。

絵画なり小説なり映画なり、それぞれの芸術が棲み分けてきた「じぶんち」がもうパンパンに膨れあがってしまって、その中に納まるには、もう臨界点に達している。そんな感じ。

 

たとえば絵画は、平面上に表現する二次元の芸術であり、現実に見えるものの模写から始まって、印象派キュビズムシュルレアリスムを経て、モンドリアンやロスコのようなものにまで発展してきた。

しかし、作品の内容には「新しさ」はあれど、表現方法としては、何だかもうこれ以上新たな領域へ発展するには苦しいというか、絵画という枠そのものが狭くて窮屈になってきている気がする。

モダンアートの展覧会に行くと、絵画よりも圧倒的にインスタレーションやパフォーマンスが多いのは、もしかしたらそういうことなんじゃないだろうか。

 

小説でもまたしかりで、芸術としての純文学は、もはや古典的な風情が漂っていて、紙の本や文芸雑誌で淡々と読まれるばかりで、このご時世にも関わらず、これといった劇的な「シフト」は生まれていない。

もちろん内容は時代を投影した新しくて面白いものばかりだし、文章表現もどんどん変化してきている。が、これも文学という枠としては、せいぜい電子書籍化されたくらいのもので、あまり変わり映えがしないのだ。

作る枠がそうなら鑑賞する側もしかりで、もはや「文字だけで書かれた長い物語をひたすら読んで考え事をする」という純文学の読み方そのものが、古くなって、渇望する人が減ってきて、分かりやすいキャッチーな物語ばかりがとにかく大量消費されていく。

奥深くて素晴らしいものはたくさんあるのに、世間から置いてけぼりを食らっているようで、これまた純文学好きとしてはとってもさびしい。

 

もちろん、何でもかんでも未来的な変化を求めているわけではないし、古典は古典のまま、その魅力を消さないでいてほしいという気持ちもある。

とはいえ、その古くなりつつある「枠」のせいで良い作品が下火になってしまうのは、あまりにも悲しすぎる。

だからこそ、芸術の新しいかたちを私は見てみたい。

もしくは、できることなら、自分で探してみたい。

 

じゃあどうやって探すか?

その方法は、「矛盾を肯定すること」「越境すること」じゃないかと思う。

 

絵画は無言で平面的だけど、もしかしたら音のある絵を作れるかもしれない。

小説には色がないけれど、もしかしたら視覚的な小説を作れるかもしれない。

映画には文字がないけれど、映画を読むという概念もありかもしれない。

そうやって、共存しえないと思い込んでいたものを肯定して、矛盾だったものを新しい芸術のかたちとして定義してしまう。

芸術それぞれが棲み分けてきた、従来の境界線を越えてしまう。

そうすることで、何か新しい画期的な芸術のかたちが誕生するのではないか。

それって、とてつもない可能性にあふれているし、何よりも、ものすごく楽しそうじゃないか!!

 

これまでの芸術のかたちが頭打ちになっているこの時代。

実は新しいアートの始まりなんじゃないかと、ひそかにワクワクしている。