Art Inspirations

素人作家のメモ箱

アートと活字を愛するアマチュア作家が運営するブログ。

ジャンルを超えて、広義の「アート」から得た様々なインスピレーションやアイデアを文章で表現していきます。
絵画、彫刻、インスタレーション、音楽、ダンス、デザイン、ファッション、建築などなど。





芸術のはざま|演劇はなぜなくならないのか

 

先週末、縁あって、ひさしぶりに舞台を見に行く機会があったので、演劇という芸術について色々と考えた。

 

考えてみると、演劇というものはつくづく不思議だ。

脚本・演出・監督・音響・照明・衣裳・役者と、ひとつの作品を作り上げるのに必要な仕事は映画とよく似ているが、映画と決定的に違うのは、撮り直しが許されないことと、時間軸や場面の切り替えが容易でないこと。

ずっと同じ空間で、時間の経過や場所の移動をさえ表現しなければならないと思うと、あまりに窮屈で不自由だ。

そういう点では、ロケ地を変え、時間を変え、納得がいくまで撮り続けることができる映画のほうが、おのずと表現の完成度は高くなるはず。

ましてや、音楽や照明、道具だって、公演が始まればストップはできないのだから、壊れたりタイミングが合わなかったりなんていう失敗は許されない。超スリリングだ。

やり直しがきかないという意味では、音楽のライブやコンサートにも少し似ているが、数曲ごとに現実に戻り、演者と観客とが素でコミュニケーションできるコンサートと違って、演劇は丸々数時間、固唾をのんで舞台を見つめ、ひとつの物語の中に浸かったままでいなければならない。

演出や効果、演技の精度は、撮り直しのきく映画のほうが絶対に完成度が高くなるし、音楽よりも一作品の世界が持続する時間が圧倒的に長い。

色んな芸術のはざまにいるような感じ。

そんな中途半端なところにいるから、映画やドラマや音楽やアニメや、その他周辺のマンモス芸術に取って代わられそうなものだが、演劇という芸術が根強く残っているのはなぜなのか。

 

そんなことを考えていたら、ふと、随分前に書店でみかけた「美術手帖」という雑誌の特集を思い出した。

バックナンバーを調べてみたら、1年ちょい前。

当時、マンガのミュージカル化が流行っていたのはなんとなく知っていたが、そもそもマンガに馴染みがないし、それをミュージカルにする意味って何?何が楽しいの?と正直怪訝な気持ちがあり、読んでいなかった。

でも、未知のものへの好奇心もあったし、「2.5次元文化」というフレーズがキャッチーだったので、頭には残っていたらしい。

ちょっとジャンルは違うが、演劇というものについて考えるヒントが何かありそうな気がしたので、思い立ったが吉日。

ネットで早速ゲットしてパラパラと読んでみたら、これがなかなか興味深かった。

 

どうやら、ファンたちが「2.5次元」にハマる理由は、ファンタジーのキャラクターが生身で動いている楽しさや、ファンタジーでありながら、共感できるリアリティーも垣間見えることにあるらしい。

現実には存在していないはずの生身のキャラクターに、舞台では会える。

役者ではなくてキャラクターの名前を叫んで、その場で応援できる。

そういう一体感というか、マンガというファンタジーの世界の中に自分も入り込んで、キャラクターと同じ次元になれることが、「2.5次元文化」が流行る所以なのだそうだ。

なるほど、実写版映画を見るのとは、また少し消費の目的が違うらしい。

 

話を戻すと、つまり、観劇に行くファンたちの動機は、映画の「生」版を観たいわけでも、スクリーンを見るように「鑑賞」したいわけでもない。

創作された物語に入り込み、その物語の中で動き回る架空の人物を、生身の人間として見ることの面白さ。

リアルタイムに物語が進んでいくことで、その時間や感情や空気感を擬似的に共有し、一緒に物語の中へ分け入っていくようなワクワク感。

それを求めて、演劇を見に行くのだろう。

映画と比べて制約の多い舞台に、わざわざ足を運ぶことにも得心がいく。

 

そして、それを踏まえて創作者の側に立ち戻ってみると、演劇の奥深さに改めて驚かずにはいられない。

中途半端に思えていた演劇が、むしろ非常に高度な芸術に思えてくる。

なにせ、観客に物語を伝えるだけでなく、空間そのものを、劇場のではなく「演じている物語のなかの空気」を、観客と共有できるところまでもっていかねばならないのだ。

逆に言えば、ひとつの架空の物語を現実までひっぱってくる必要がある。

しかも、物理的に、舞台の範囲内でしか表現の枠を与えられないなかで、だ。

純粋にスゴイ。

 

ここのところご無沙汰になっていた観劇だったが、時には足を運んで、高度な物語表現にどっぷり浸かってみるのも大事だと、心を改めた。

 

矛盾と越境|芸術の臨界点をどう超えるか

 

最近、芸術と言われるものが、総じて頭打ちになっているような気がしてならない。

専門家ではないのでこれは個人的な感覚に過ぎないのだけれど、それぞれの芸術の在り方や定義、あるいはそれぞれの「枠」に納まってきたものが、飽和状態になっている、というか。

絵画なり小説なり映画なり、それぞれの芸術が棲み分けてきた「じぶんち」がもうパンパンに膨れあがってしまって、その中に納まるには、もう臨界点に達している。そんな感じ。

 

たとえば絵画は、平面上に表現する二次元の芸術であり、現実に見えるものの模写から始まって、印象派キュビズムシュルレアリスムを経て、モンドリアンやロスコのようなものにまで発展してきた。

しかし、作品の内容には「新しさ」はあれど、表現方法としては、何だかもうこれ以上新たな領域へ発展するには苦しいというか、絵画という枠そのものが狭くて窮屈になってきている気がする。

モダンアートの展覧会に行くと、絵画よりも圧倒的にインスタレーションやパフォーマンスが多いのは、もしかしたらそういうことなんじゃないだろうか。

 

小説でもまたしかりで、芸術としての純文学は、もはや古典的な風情が漂っていて、紙の本や文芸雑誌で淡々と読まれるばかりで、このご時世にも関わらず、これといった劇的な「シフト」は生まれていない。

もちろん内容は時代を投影した新しくて面白いものばかりだし、文章表現もどんどん変化してきている。が、これも文学という枠としては、せいぜい電子書籍化されたくらいのもので、あまり変わり映えがしないのだ。

作る枠がそうなら鑑賞する側もしかりで、もはや「文字だけで書かれた長い物語をひたすら読んで考え事をする」という純文学の読み方そのものが、古くなって、渇望する人が減ってきて、分かりやすいキャッチーな物語ばかりがとにかく大量消費されていく。

奥深くて素晴らしいものはたくさんあるのに、世間から置いてけぼりを食らっているようで、これまた純文学好きとしてはとってもさびしい。

 

もちろん、何でもかんでも未来的な変化を求めているわけではないし、古典は古典のまま、その魅力を消さないでいてほしいという気持ちもある。

とはいえ、その古くなりつつある「枠」のせいで良い作品が下火になってしまうのは、あまりにも悲しすぎる。

だからこそ、芸術の新しいかたちを私は見てみたい。

もしくは、できることなら、自分で探してみたい。

 

じゃあどうやって探すか?

その方法は、「矛盾を肯定すること」「越境すること」じゃないかと思う。

 

絵画は無言で平面的だけど、もしかしたら音のある絵を作れるかもしれない。

小説には色がないけれど、もしかしたら視覚的な小説を作れるかもしれない。

映画には文字がないけれど、映画を読むという概念もありかもしれない。

そうやって、共存しえないと思い込んでいたものを肯定して、矛盾だったものを新しい芸術のかたちとして定義してしまう。

芸術それぞれが棲み分けてきた、従来の境界線を越えてしまう。

そうすることで、何か新しい画期的な芸術のかたちが誕生するのではないか。

それって、とてつもない可能性にあふれているし、何よりも、ものすごく楽しそうじゃないか!!

 

これまでの芸術のかたちが頭打ちになっているこの時代。

実は新しいアートの始まりなんじゃないかと、ひそかにワクワクしている。

 

 

文字だけの世界に回帰する

現代は、特に東京という街は、情報がとにかく多い。

人も、文字も、デザインや絵や音楽も、いたるところに充満していて、それはつまりインスピレーションが山ほど湧くということでもある。

否が応でも毎日たくさんのインプットをしているのだから、書きたいことは尽きない。

何気ない女子高生の会話が小説のネタになったり、ショーウィンドウのマネキンの着こなしがものすごくツボだったり、ふと目にとまった広告にあっと驚くような発想があったり。

東京は色んな刺激があっておもしろい。

 

でも、気を付けないといけないのは、家の中にこもって創作活動にのめり込んだ直後だ。

書いている最中は、ものすごく繊細なところまで気を配って、これでもかというほど想像力をフル稼働している。

よく見えるように瞳孔をかっと見開いているというか、インスピレーションを取り入れる触覚を超敏感にさせているというか。

とにかくMAX状態なのだ。

そんなわけなので、そのまま街に出ると非常に危ない。

感受性をフルに開いたままでいると、たちまち情報がなだれこんできて、息ができなくなる。

ちょっと移動しただけで、ものすごく疲弊してしまう。

しかも、意に反して、脳は水を得た魚のように働きまくるので、思考が止まらなくなって、頭が氾濫状態になってしまうのだ。

用事を済ませて帰る頃には、音楽を聴くのもしんどくて、本すら読めなくなっている。

 

今日もそんな状態に陥って、疲労困憊でフラフラしながら、あとひとつだけ残った買い物を済ませるべく、とある無印良品の店舗に入った。

シンプルな品揃えに少し安堵しながら、インテリア用品のディスプレイを眺めて回っていたら、こんな壁の一角に目がとまった。

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このアイデアに、ビビッときた。

よく知られた文庫本ばかりだが、全部カバーが外してある。

シンプルで、古本屋みたいな趣き。

古紙のような色合いが、木製のボックスに馴染んで心地良かった。

飽和状態の頭で書店に入るのは、雑誌や本の表紙が所狭しと並んでいて目が回るけれど、これなら、と思った。

 

 

そこで早速、帰宅してから、手持ちの文庫本のカバーを、片っ端から外してみた。

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これ、いい!

まるで自分の部屋が古本屋になったような。

本が、文字だけのほんとうの姿に戻ったような。

何だかすごくしっくりきて、しばらく本棚の前にしゃがみこみ、タイトルを眺めたり、あれこれと手に取ったりして夜を過ごした。

 

 

活字離れとはよく言うけれど、最近は、InstagramやLINEスタンプを筆頭に、コミュニケーションはどんどん色彩豊かになっている。

絵やデザインが好きな私としては、とっても楽しい時代の変化なのだが、時々やっぱり、色やビジュアルが多すぎて目も頭も疲弊してしまうこともある。

そういうとき、緩やかな茶系の色をした古本屋や、色のない文字だけの世界に戻ってくると、頭がクリアになり、きちんと言葉だけで、ものごとを考えられるようになる気がする。

ずらりと並んだ本を、表紙のデザインに左右されることなく、真摯に文字だけと向き合って選べるというのは、なかなか贅沢なものだ。

 

今の時代、文字だけの芸術は、案外貴重な文化財なのかもしれない。

色彩豊かな世界も楽しいけれど、時々は、混じりけのない文字だけの世界に帰ってみよう。

 

 

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情報との付き合い方って結構難しいものです。外からの情報と、自分の思考とのバランスについても書いています。

artinspirations.hatenablog.com

 

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そうは言ってもやっぱり、本の表紙も、どれも魅力的で大好きです(^^)

artinspirations.hatenablog.com

暮らしにBGMを

 映画やドラマに音楽があるように、日々の生活にも、BGMがあると楽しい。

 

すでに日が高く昇った休日の朝は、クラシックをかけると途端に優雅なコーヒータイムになるし、しゃれた洋楽をかければ、その日はまるで、雑誌に載ったどこかの女優や文化人のように、粋な生活ができるような気がしてくる。

夜仕事をしながらジャズをかけてみたら、勝手にちょっぴり鼻高々な気分になって、余裕ができて不思議とテキパキこなせることもある。

友達と飲みに行く道すがら、ちょっとチャラめなEDMをかけて街中を歩けば、その日は楽しい夜になる気しかしないし、ほろ酔いの頭で電車に乗り、テクノやアンビエントを聞くと、窓から見える景色が何だかとてつもなく神秘的なものに見えて、普段は漫然と見上げるばかりの東京の摩天楼に陶酔しさえする。

 

執筆するときも、サイケデリックなトランスをかけながら書くと、ミステリアスな小説が書けたりして面白い。

ゲーム音楽や勇壮なオーケストラならファンタジーが書けるし、久石譲の穏やかな曲を聞くとほっこりした会話文がうまく書けたりする。

 

さらに考えてみると、心に残っている風景にも、音楽が伴っていることが多い。

アメリカを旅行中、アムトラックの寝台車に横になって、夜通し電車に揺られながら夜空を見上げたとき。ゴトンゴトンと揺れる電車の窓から、満天の星に目を奪われたあのときは、確か「世界の車窓から」シリーズの音楽がBGMだった。溝口肇のチェロの奥深い響きが星空とよく合って、とても美しかった。

あるいは、日本の田舎を一人旅していたとき。鈍行列車のボックス席に座って、物思いに沈み、ウォークマンかラジオだったか、たまたま森山直太朗の「生きとし生ける物へ」がかかっていて、ちょうど、「さあーーーすすーめーーー」と高らかな歌声が響くなか、視界がぱっと開け、青々とした一面の田園風景が現れた。あの清々しさは忘れられない。

それから、休日の旅行帰りに走った夜の首都高。あーあ、また息苦しい都会に戻ってきてしまったなあと陰鬱な気持ちだったけれど、宇多田ヒカルの都会的な曲(たぶんThis is loveとかKeep Tryin’とかそのあたり)が流れたら、その風景が一変した。オレンジ色の照明灯にこうこうと照らされる首都高を、疾走感のある音楽に乗って、車が飛ぶように滑っていく。ぐうんとカーブを曲がり、乱立するビル群の合間から、高くそびえたつスカイツリーが、紫色の光を放ちながら近づいてくる…。あの音楽がなければ、都会の美しさに気付くことはなかっただろうと思う。

 

音楽にはドラマがある。

芸術の一種でありながら、日常生活にダイレクトに溶け込み、私たちの暮らしにそのドラマチックな世界を媒介することもできる。

残念ながら、小説ではそうはいかない。どんなにワクワクするエンターテインメント小説でも、本から顔を上げてしまえば、そこにあるのはただの現実で、両者が交わるのは難しい。日常は日常、娯楽は娯楽。本や雑誌の中に、どんなに憧れのアイコンがいても、それを自分ごとにするにはそれなりに骨が折れるものだ。

しかし、それではあまりに味気ない。

だからせめて、暮らしにはBGMが欲しい。

私たちは、音楽を媒体として、理想や憧れを自分の日常に溶け込ませることで、日常に彩りをつけているのかもしれない。

 

明日は、どんなBGMをかけようかしら。

 

古いものに身を包み、新しさのための「余白」をつくる

 

昔は飽き性で新しいもの好きだった私が、いつの間にか、古着ばかり買うようになっている。

新品を買うときは、よっぽど一目ぼれした服か、あとはユニクロくらい。

大人になって、せっかく自分で稼げるようになったのにおかしな話だが、休日に使う鞄や靴もほとんど古着屋で買ったものばかりで、実は今日身に付けているもので一番高価なのはピアスです、なんてこともままある。

 

考えてみると、最近流行りのミニマリズムに触発されて、お金の使い方に強弱をつけはじめたのが始まりだったかもしれない。

モノにはお金をかけず、形のない情報や思い出のために使いたい。

そのルールを決めてから、書店で好きな本を買うのを我慢するストレスも減ったし、友達からの誘いも快く受けられるようになったし、見栄だけで買い物をして気疲れすることもなくなった。「欲しい」という言葉を、わがままやないものねだりでなく、本当にそう思うものに対して使えるようにもなった。

その延長で、本当に自分にフィットするものだけを選り分ける訓練をしていたら、不思議と、古いものに目がいくようになった。

 

 

古いものを買うということは、そのモノが負ってきたキズごと引き受けるということだ。

たとえば古着屋にある鞄は、ひっかいてしまった跡や色あせがどうしてもあるので、気になるキズと値段とを吟味することになるのだけれど、どうしようかな、これなら新品買った方がマシかな、とか悩みながら眺めるうちに、逆にそれらのキズが馴染んできてしまい、新品を買うのではむしろ味気ない気がしてしまう。

買ってからも、使えば使うほど、まるでそのキズをつけてしまったのが自分であるような気がして、そのモノが最初から自分の持ち物であったかのように思えてくる。

そうすると、大事に大事に、扱いたくなる。

 

また、古いものを買うということは、「借りる」ということでもある。

すでに誰かが使ったものを「借りている」と思えば、せっかく高い金を払って自分のものにしたのだからと、モノに対してギブアンドテイクを要求して、執着し、振り回されることもない。

「借りもの」だから、ぞんざいに扱って壊れて捨てるなんていう無責任なこともしなくなる。

 

だから、古いものを身に付けていると、気負わず、わがままにもならず、自由な気持ちでいられる気がするのだ。

 

 

新しいものを持つには、パワーがいる。

まだ人の手に触れていない純粋な新品は、人に所有されることに慣れていないから、ギラギラとして扱いにくく、柔軟性がない。それが自分に馴染んでくれるまで、頑固な子供をなだめすかすように、あれこれと手を焼かなければいけない気がする。

でも、そっちにパワーを持っていかれていては、頭もこころもモノで埋め尽くされ、無形のものに目を向ける余裕がなくなってしまう。

古いものを買うということは、「余白」をとっておくことなのかもしれない。

古いものは、余計なスペースを要することなく、すんなり私という器に収まってくれる。

本当に価値ある新しさを取り入れるためにとっておきたい「余白」は、決して侵されることはない。

  

 

古いものに身を包み、新しさのための「余白」をつくる。

そこに滑り込んでくるものを、拒まず楽しむ。

万が一、無形の新しさだけでは自分をリニューアルできないほど、古いものに馴れ合い始め、澱みがでてきたら、そのときだけは一新する。

濁ってきた自分の器を磨く。

そして古いものを他へ譲って、また「余白」をつくる。

 

そういう感覚で生きていたほうが、たぶん、面白いことをたくさん捕まえられる気がするのです。

 

 

 

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私が影響を受けたミニマリズムの本から、代表的なものを2冊。

ぼくたちに、もうモノは必要ない。 - 断捨離からミニマリストへ -

ぼくたちに、もうモノは必要ない。 - 断捨離からミニマリストへ -

ゆたかな人生が始まる シンプルリスト (講談社+α文庫)

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