先週末、縁あって、ひさしぶりに舞台を見に行く機会があったので、演劇という芸術について色々と考えた。
考えてみると、演劇というものはつくづく不思議だ。
脚本・演出・監督・音響・照明・衣裳・役者と、ひとつの作品を作り上げるのに必要な仕事は映画とよく似ているが、映画と決定的に違うのは、撮り直しが許されないことと、時間軸や場面の切り替えが容易でないこと。
ずっと同じ空間で、時間の経過や場所の移動をさえ表現しなければならないと思うと、あまりに窮屈で不自由だ。
そういう点では、ロケ地を変え、時間を変え、納得がいくまで撮り続けることができる映画のほうが、おのずと表現の完成度は高くなるはず。
ましてや、音楽や照明、道具だって、公演が始まればストップはできないのだから、壊れたりタイミングが合わなかったりなんていう失敗は許されない。超スリリングだ。
やり直しがきかないという意味では、音楽のライブやコンサートにも少し似ているが、数曲ごとに現実に戻り、演者と観客とが素でコミュニケーションできるコンサートと違って、演劇は丸々数時間、固唾をのんで舞台を見つめ、ひとつの物語の中に浸かったままでいなければならない。
演出や効果、演技の精度は、撮り直しのきく映画のほうが絶対に完成度が高くなるし、音楽よりも一作品の世界が持続する時間が圧倒的に長い。
色んな芸術のはざまにいるような感じ。
そんな中途半端なところにいるから、映画やドラマや音楽やアニメや、その他周辺のマンモス芸術に取って代わられそうなものだが、演劇という芸術が根強く残っているのはなぜなのか。
そんなことを考えていたら、ふと、随分前に書店でみかけた「美術手帖」という雑誌の特集を思い出した。
バックナンバーを調べてみたら、1年ちょい前。
当時、マンガのミュージカル化が流行っていたのはなんとなく知っていたが、そもそもマンガに馴染みがないし、それをミュージカルにする意味って何?何が楽しいの?と正直怪訝な気持ちがあり、読んでいなかった。
でも、未知のものへの好奇心もあったし、「2.5次元文化」というフレーズがキャッチーだったので、頭には残っていたらしい。
ちょっとジャンルは違うが、演劇というものについて考えるヒントが何かありそうな気がしたので、思い立ったが吉日。
ネットで早速ゲットしてパラパラと読んでみたら、これがなかなか興味深かった。
どうやら、ファンたちが「2.5次元」にハマる理由は、ファンタジーのキャラクターが生身で動いている楽しさや、ファンタジーでありながら、共感できるリアリティーも垣間見えることにあるらしい。
現実には存在していないはずの生身のキャラクターに、舞台では会える。
役者ではなくてキャラクターの名前を叫んで、その場で応援できる。
そういう一体感というか、マンガというファンタジーの世界の中に自分も入り込んで、キャラクターと同じ次元になれることが、「2.5次元文化」が流行る所以なのだそうだ。
なるほど、実写版映画を見るのとは、また少し消費の目的が違うらしい。
話を戻すと、つまり、観劇に行くファンたちの動機は、映画の「生」版を観たいわけでも、スクリーンを見るように「鑑賞」したいわけでもない。
創作された物語に入り込み、その物語の中で動き回る架空の人物を、生身の人間として見ることの面白さ。
リアルタイムに物語が進んでいくことで、その時間や感情や空気感を擬似的に共有し、一緒に物語の中へ分け入っていくようなワクワク感。
それを求めて、演劇を見に行くのだろう。
映画と比べて制約の多い舞台に、わざわざ足を運ぶことにも得心がいく。
そして、それを踏まえて創作者の側に立ち戻ってみると、演劇の奥深さに改めて驚かずにはいられない。
中途半端に思えていた演劇が、むしろ非常に高度な芸術に思えてくる。
なにせ、観客に物語を伝えるだけでなく、空間そのものを、劇場のではなく「演じている物語のなかの空気」を、観客と共有できるところまでもっていかねばならないのだ。
逆に言えば、ひとつの架空の物語を現実までひっぱってくる必要がある。
しかも、物理的に、舞台の範囲内でしか表現の枠を与えられないなかで、だ。
純粋にスゴイ。
ここのところご無沙汰になっていた観劇だったが、時には足を運んで、高度な物語表現にどっぷり浸かってみるのも大事だと、心を改めた。