映画やドラマに音楽があるように、日々の生活にも、BGMがあると楽しい。
すでに日が高く昇った休日の朝は、クラシックをかけると途端に優雅なコーヒータイムになるし、しゃれた洋楽をかければ、その日はまるで、雑誌に載ったどこかの女優や文化人のように、粋な生活ができるような気がしてくる。
夜仕事をしながらジャズをかけてみたら、勝手にちょっぴり鼻高々な気分になって、余裕ができて不思議とテキパキこなせることもある。
友達と飲みに行く道すがら、ちょっとチャラめなEDMをかけて街中を歩けば、その日は楽しい夜になる気しかしないし、ほろ酔いの頭で電車に乗り、テクノやアンビエントを聞くと、窓から見える景色が何だかとてつもなく神秘的なものに見えて、普段は漫然と見上げるばかりの東京の摩天楼に陶酔しさえする。
執筆するときも、サイケデリックなトランスをかけながら書くと、ミステリアスな小説が書けたりして面白い。
ゲーム音楽や勇壮なオーケストラならファンタジーが書けるし、久石譲の穏やかな曲を聞くとほっこりした会話文がうまく書けたりする。
さらに考えてみると、心に残っている風景にも、音楽が伴っていることが多い。
アメリカを旅行中、アムトラックの寝台車に横になって、夜通し電車に揺られながら夜空を見上げたとき。ゴトンゴトンと揺れる電車の窓から、満天の星に目を奪われたあのときは、確か「世界の車窓から」シリーズの音楽がBGMだった。溝口肇のチェロの奥深い響きが星空とよく合って、とても美しかった。
あるいは、日本の田舎を一人旅していたとき。鈍行列車のボックス席に座って、物思いに沈み、ウォークマンかラジオだったか、たまたま森山直太朗の「生きとし生ける物へ」がかかっていて、ちょうど、「さあーーーすすーめーーー」と高らかな歌声が響くなか、視界がぱっと開け、青々とした一面の田園風景が現れた。あの清々しさは忘れられない。
それから、休日の旅行帰りに走った夜の首都高。あーあ、また息苦しい都会に戻ってきてしまったなあと陰鬱な気持ちだったけれど、宇多田ヒカルの都会的な曲(たぶんThis is loveとかKeep Tryin’とかそのあたり)が流れたら、その風景が一変した。オレンジ色の照明灯にこうこうと照らされる首都高を、疾走感のある音楽に乗って、車が飛ぶように滑っていく。ぐうんとカーブを曲がり、乱立するビル群の合間から、高くそびえたつスカイツリーが、紫色の光を放ちながら近づいてくる…。あの音楽がなければ、都会の美しさに気付くことはなかっただろうと思う。
音楽にはドラマがある。
芸術の一種でありながら、日常生活にダイレクトに溶け込み、私たちの暮らしにそのドラマチックな世界を媒介することもできる。
残念ながら、小説ではそうはいかない。どんなにワクワクするエンターテインメント小説でも、本から顔を上げてしまえば、そこにあるのはただの現実で、両者が交わるのは難しい。日常は日常、娯楽は娯楽。本や雑誌の中に、どんなに憧れのアイコンがいても、それを自分ごとにするにはそれなりに骨が折れるものだ。
しかし、それではあまりに味気ない。
だからせめて、暮らしにはBGMが欲しい。
私たちは、音楽を媒体として、理想や憧れを自分の日常に溶け込ませることで、日常に彩りをつけているのかもしれない。
明日は、どんなBGMをかけようかしら。