Art Inspirations

素人作家のメモ箱

アートと活字を愛するアマチュア作家が運営するブログ。

ジャンルを超えて、広義の「アート」から得た様々なインスピレーションやアイデアを文章で表現していきます。
絵画、彫刻、インスタレーション、音楽、ダンス、デザイン、ファッション、建築などなど。





暮らしにBGMを

 映画やドラマに音楽があるように、日々の生活にも、BGMがあると楽しい。

 

すでに日が高く昇った休日の朝は、クラシックをかけると途端に優雅なコーヒータイムになるし、しゃれた洋楽をかければ、その日はまるで、雑誌に載ったどこかの女優や文化人のように、粋な生活ができるような気がしてくる。

夜仕事をしながらジャズをかけてみたら、勝手にちょっぴり鼻高々な気分になって、余裕ができて不思議とテキパキこなせることもある。

友達と飲みに行く道すがら、ちょっとチャラめなEDMをかけて街中を歩けば、その日は楽しい夜になる気しかしないし、ほろ酔いの頭で電車に乗り、テクノやアンビエントを聞くと、窓から見える景色が何だかとてつもなく神秘的なものに見えて、普段は漫然と見上げるばかりの東京の摩天楼に陶酔しさえする。

 

執筆するときも、サイケデリックなトランスをかけながら書くと、ミステリアスな小説が書けたりして面白い。

ゲーム音楽や勇壮なオーケストラならファンタジーが書けるし、久石譲の穏やかな曲を聞くとほっこりした会話文がうまく書けたりする。

 

さらに考えてみると、心に残っている風景にも、音楽が伴っていることが多い。

アメリカを旅行中、アムトラックの寝台車に横になって、夜通し電車に揺られながら夜空を見上げたとき。ゴトンゴトンと揺れる電車の窓から、満天の星に目を奪われたあのときは、確か「世界の車窓から」シリーズの音楽がBGMだった。溝口肇のチェロの奥深い響きが星空とよく合って、とても美しかった。

あるいは、日本の田舎を一人旅していたとき。鈍行列車のボックス席に座って、物思いに沈み、ウォークマンかラジオだったか、たまたま森山直太朗の「生きとし生ける物へ」がかかっていて、ちょうど、「さあーーーすすーめーーー」と高らかな歌声が響くなか、視界がぱっと開け、青々とした一面の田園風景が現れた。あの清々しさは忘れられない。

それから、休日の旅行帰りに走った夜の首都高。あーあ、また息苦しい都会に戻ってきてしまったなあと陰鬱な気持ちだったけれど、宇多田ヒカルの都会的な曲(たぶんThis is loveとかKeep Tryin’とかそのあたり)が流れたら、その風景が一変した。オレンジ色の照明灯にこうこうと照らされる首都高を、疾走感のある音楽に乗って、車が飛ぶように滑っていく。ぐうんとカーブを曲がり、乱立するビル群の合間から、高くそびえたつスカイツリーが、紫色の光を放ちながら近づいてくる…。あの音楽がなければ、都会の美しさに気付くことはなかっただろうと思う。

 

音楽にはドラマがある。

芸術の一種でありながら、日常生活にダイレクトに溶け込み、私たちの暮らしにそのドラマチックな世界を媒介することもできる。

残念ながら、小説ではそうはいかない。どんなにワクワクするエンターテインメント小説でも、本から顔を上げてしまえば、そこにあるのはただの現実で、両者が交わるのは難しい。日常は日常、娯楽は娯楽。本や雑誌の中に、どんなに憧れのアイコンがいても、それを自分ごとにするにはそれなりに骨が折れるものだ。

しかし、それではあまりに味気ない。

だからせめて、暮らしにはBGMが欲しい。

私たちは、音楽を媒体として、理想や憧れを自分の日常に溶け込ませることで、日常に彩りをつけているのかもしれない。

 

明日は、どんなBGMをかけようかしら。

 

古いものに身を包み、新しさのための「余白」をつくる

 

昔は飽き性で新しいもの好きだった私が、いつの間にか、古着ばかり買うようになっている。

新品を買うときは、よっぽど一目ぼれした服か、あとはユニクロくらい。

大人になって、せっかく自分で稼げるようになったのにおかしな話だが、休日に使う鞄や靴もほとんど古着屋で買ったものばかりで、実は今日身に付けているもので一番高価なのはピアスです、なんてこともままある。

 

考えてみると、最近流行りのミニマリズムに触発されて、お金の使い方に強弱をつけはじめたのが始まりだったかもしれない。

モノにはお金をかけず、形のない情報や思い出のために使いたい。

そのルールを決めてから、書店で好きな本を買うのを我慢するストレスも減ったし、友達からの誘いも快く受けられるようになったし、見栄だけで買い物をして気疲れすることもなくなった。「欲しい」という言葉を、わがままやないものねだりでなく、本当にそう思うものに対して使えるようにもなった。

その延長で、本当に自分にフィットするものだけを選り分ける訓練をしていたら、不思議と、古いものに目がいくようになった。

 

 

古いものを買うということは、そのモノが負ってきたキズごと引き受けるということだ。

たとえば古着屋にある鞄は、ひっかいてしまった跡や色あせがどうしてもあるので、気になるキズと値段とを吟味することになるのだけれど、どうしようかな、これなら新品買った方がマシかな、とか悩みながら眺めるうちに、逆にそれらのキズが馴染んできてしまい、新品を買うのではむしろ味気ない気がしてしまう。

買ってからも、使えば使うほど、まるでそのキズをつけてしまったのが自分であるような気がして、そのモノが最初から自分の持ち物であったかのように思えてくる。

そうすると、大事に大事に、扱いたくなる。

 

また、古いものを買うということは、「借りる」ということでもある。

すでに誰かが使ったものを「借りている」と思えば、せっかく高い金を払って自分のものにしたのだからと、モノに対してギブアンドテイクを要求して、執着し、振り回されることもない。

「借りもの」だから、ぞんざいに扱って壊れて捨てるなんていう無責任なこともしなくなる。

 

だから、古いものを身に付けていると、気負わず、わがままにもならず、自由な気持ちでいられる気がするのだ。

 

 

新しいものを持つには、パワーがいる。

まだ人の手に触れていない純粋な新品は、人に所有されることに慣れていないから、ギラギラとして扱いにくく、柔軟性がない。それが自分に馴染んでくれるまで、頑固な子供をなだめすかすように、あれこれと手を焼かなければいけない気がする。

でも、そっちにパワーを持っていかれていては、頭もこころもモノで埋め尽くされ、無形のものに目を向ける余裕がなくなってしまう。

古いものを買うということは、「余白」をとっておくことなのかもしれない。

古いものは、余計なスペースを要することなく、すんなり私という器に収まってくれる。

本当に価値ある新しさを取り入れるためにとっておきたい「余白」は、決して侵されることはない。

  

 

古いものに身を包み、新しさのための「余白」をつくる。

そこに滑り込んでくるものを、拒まず楽しむ。

万が一、無形の新しさだけでは自分をリニューアルできないほど、古いものに馴れ合い始め、澱みがでてきたら、そのときだけは一新する。

濁ってきた自分の器を磨く。

そして古いものを他へ譲って、また「余白」をつくる。

 

そういう感覚で生きていたほうが、たぶん、面白いことをたくさん捕まえられる気がするのです。

 

 

 

***

私が影響を受けたミニマリズムの本から、代表的なものを2冊。

ぼくたちに、もうモノは必要ない。 - 断捨離からミニマリストへ -

ぼくたちに、もうモノは必要ない。 - 断捨離からミニマリストへ -

ゆたかな人生が始まる シンプルリスト (講談社+α文庫)

ゆたかな人生が始まる シンプルリスト (講談社+α文庫)

暗がりを知るということ

 

仕事も趣味も目ばかり使うくせに、昔から目が弱いので、寝る前には間接照明やキャンドルに切り替えるようにしている。

枕元に積んである本をあれこれ拾い読みしながら、眠気が来るのを待つ。

 

最近、常々気になっていた、谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』を読み始めた陰翳礼讃 (中公文庫)

まだまだ冒頭だが、その名の通り「陰影」について書かれたエッセイで、なかなか面白い。

ちょうど今は、昔の厠は母屋と離れたところにあるので外の自然音が聞こえて風流である、昨今のタイル張りのやけに純白なトイレと比べて、清潔と不潔とが曖昧になるぼんやりさがかえって良い、と谷崎潤一郎が大真面目に語っているところである。

日本家屋にはやはり行燈や障子がいい、ガラス戸や蛍光灯や電気ストーブがあると風情が削がれてどうもよくない、などとプンプンしているのは、何だかいつの時代も、ノスタルジーは同じだなあと少し可笑しい。

 

しかし、楽しく読みつつも、言われてみれば、確かに最近は「暗がり」を感じることが少なくなり、そのせいで何だか気疲れするような気もする。

実際、夜は夜相応の明るさにして、薄暗い部屋でゆっくりするのが、一番ストレスがなくて心地いい。

キャンドルの火がふわふわ揺れるのに合わせて、部屋の四隅にうずくまっている「陰」がゆらゆら動くと、ちょっと不気味だけど、どこかほっとする。

そこでふとトイレに立とうものなら、鋭い明かりを浴びて目がチカチカして、途端に目が冴えてしまう。

人間は、隅々まで見えてしまうより、多少の「陰」があったほうが心身ともにしっくりくるらしい。

 

そんなことを、昨晩つらつらと考えながらキャンドルの火や影を眺めていたら、いつか京都の田舎のほうに泊まったときのことを、ふと思い出した。

就職で東京に引っ越すまでの2カ月間ほど、国内外を放浪していた頃のことだ。

当時はまだ学生だからお金もないので、大学時代の家も引き払い、バックパックとスーツケースひとつで安宿を転々としていた。

ゲストハウスのドミトリー生活にもさすがに気が疲れ、たまには贅沢をと、旅館の個室(といっても安い民宿だが、当然ゲストハウスのドミよりは割高)に一人で泊まった。

 

夜、広々と畳に布団を広げ、大の字で寝転がる至福のひととき。

ベッドの上の小さなテリトリーに、歯ブラシやタオルや財布や生活用品を、こまごまと並べてコクピット化しなくてもいいし、思いっきり手足が伸ばせる。シェアスペースで飲み明かす外国人バックパッカーの笑い声もなければ、隣のベッドで動く人の気配もない。トイレだって専用のものが部屋についている。

そんな笑えるくらい単純なことが、涙が出るほど嬉しかった。

放浪生活をしなければ味わうことのできなかった貴重な体験だったが、その小さな幸福と一緒に、私は「完璧な暗闇」を初めて知ったのだ。

 

閑静な住宅街の中にぽつんと佇む旅館だったので、カーテンを閉めてしまえば、文字通りの真っ暗闇だった。

街灯の光でも漏れ出てきそうなものだが、月光さえ入ってこない。

古い和室だからか、ホテルによくあるような足元のぼんやりした照明もなく、加湿器や何やらが稼働しているときの人工的な光もない。

大抵、旅先で寝るときは、初めは真っ暗でも次第に目が慣れてくるものだが、その旅館は、不思議といつまでたっても明るくならなかった。

それどころか、目をあけて「完璧な暗闇」を見つめていると、自分の瞼が閉じているのか開いているのか、起きているのか眠っているのか、手足はちゃんとあるか、自分はちゃんと存在しているかどうかさえ、物事の境界がどんどん曖昧になっていく気がして、ほんとうに空恐ろしかった。

ああ、本当の暗闇ってこうなのか。

こんなに怖いのか。

たった一人で、四角い暗がりの中にしんと横たわっていた時間は、当時、ノンストップで駆け回って何事にも前のめりだった私に、良いショックを与えてくれたと思う。

怖かったけれど、本当の静謐さは恐怖も伴うものなのだと、知ることができた。

やがてその暗がりを受け入れると、それまでのゲストハウス生活で、どことなく周囲を気にしながら生きる癖がついていたのがすとんと剥がれ落ち、何か月かぶりに、とても深く眠った。

 

 

眠らない街とはよく言ったもので、今の人間の生活は常に明るく「照らされて」いる。

照らされてばかりいると、常に何かを「魅せ」なければならない気がしてくる。

何か魅せよう、価値あるものを誇示せねばと思考が働き続けると、隠れる場所がなくなる。

隠れられないということは、ちょうど舞台の演者のように、素晴らしいものを披露するための準備をする「ウラ」がないということ。

そうなると、常に演じ続けて疲弊するか、あるいは完成度が高まらないまま醜態をさらしてしまうのがおちだ。

 

谷崎潤一郎が愛でた「陰翳」のある風景を見習って、こころにも、ちょっと怖いけど心地の良い、「完璧な暗闇」が棲む場所を設けておきたいものだと思う。

 

 

 

ちょっと系統は違うけれど、最後に、「影」で思い出した私の好きな言葉をひとつ。

“If you don’t have any shadows, you’re not standing in the light.” - Lady Gaga

(あなたにひとつも影がないというなら、あなたは光の中に立っていないということだ。)

 

ジャコメッティ展|視覚と精神に見えるもの

 

ついに、念願のジャコメッティ展へ行ってきた。

学生の頃にシカゴ美術館で見てからというもの、その独特の存在感が忘れられず、たちまちファンになったジャコメッティ

没後半世紀の大回顧展とあって、大満足の展覧会だった。

 

(私がジャコメッティを好きになった所以はこちら。)

artinspirations.hatenablog.com

 

シカゴで見たものとは違ったけれど、それとよく似た「歩く男」(画面左)という作品は、やはり今回の一番の見どころだろう。

f:id:numbernotes:20170723224045j:plain

 

折れそうに細いのに、独特な存在感のある不思議さ。

何か確固たる行く先を目指しているようでもあるし、ただ淡々と物静かに歩いているだけのようにも見える。

まるで人の影を写し取ったような、あるいは人の「芯」だけを取り出したような、極めて精神的な佇まい。

気が済むまで長いこと、その立像と対峙することができたのが嬉しかった。

 

 

さて、ジャコメッティ展では、それまでよく知らなかった彼の芸術への探求心やフィロソフィーにも触れることができる。

今回は、それについて思ったことや感じたことを、書き残しておこうと思う。

 

 

解説によると、ジャコメッティは、不可能とも言えるテーマを真摯に追求した人であったらしい。

「見えるものを見えるままに」。

対象との物理的な距離もひっくるめて、目に見えるヴィジョンを丸ごとそのままに、表現しようとしたのだという。

「見えるものを見えるままに」写し取ることを追い求めたジャコメッティの作品が、結果として写実とかけ離れた姿に至ったことは、逆説的にも思われる。が、なるほどその試みは、見えない部分も描くことでリアルを表現しようとしたキュビズムにも通ずるところがあり、初期の作品にキュビズムシュルレアリスムの類が多く見受けられたのも、彼の探求心と試行錯誤を表しているようで面白い。

 

中でも釘付けになったのは、「3人の男のグループI」と「広場、7人の人物とひとつの頭部」という2つの作品だった。

「3人の男のグループI」は、ちょうど冒頭の「歩く男」が三体、交差するように歩いている像である。

肩と肩が触れ合わんばかりに接近した3人の男は、絶妙な間隔で距離を保ち、つかずはなれずの位置で神妙に通りすがる。四方八方どこから見ても、その3人はぶつかることはない。

しかし、3人の姿が類似しているからか、そこに不思議と他者同士の冷たい断絶はなく、連続的で、まるで3体でひとつの人格を形成しているようにも感じられる。

そう思ったら、ふと、足早にすれ違う東京の群衆を想起した。

同じ人間が、しかし見知らぬ人間同士が、狭い空間を交差するときの、独特の連帯と疎外の入り混じった空気感。

見れば見るほど、その歩くスピードさえ想像できそうな気がしてくる。

「なんだか、不思議と人らしく感じるね」

「人間って動くものだからね。だから静止した写実的な像よりもそう感じるのかも」

隣にいた大学生くらいの3人組が、真剣な面持ちで話している言葉に、ナルホドと内心唸ってしまった。

 

もう一つの「広場、7人の人物とひとつの頭部」は、高さのまちまちな7人の立像に加え、なぜかひとつだけ大きさの違う人の頭部が佇む作品である。

(気に入ってポストカードも買ってしまった。画面左。)

f:id:numbernotes:20170723224243j:plain

 

この作品を見て、「見えるものを見えるままに」という意味が少し咀嚼できた気がする。

タイトルの示す通り、広場を眺めたときに目に飛び込んでくる群衆の見え方と、よく似ていると感じたからだ。

手前にいる人、遠くにいる人、知人と他人。知らない人の像は、顔や容姿といった個性は見たそばから消えていき、ぼんやりしたおぼつかない存在感だけが残る。

それはまるで、人間の限られた視界の中で、他人を「認知」することの精神の動きが表されているようにも思われ、人の目に「見えるもの」がいかに刹那的であやふやであるかを考えさせられる。

 

また、ジャコメッティは、「書物のための下絵」というシリーズでリトグラフの作品も描いている。(ポストカードの真ん中)

どのスケッチも、彼らしくて何だか微笑ましい。

顔も服も描かれない単純な絵なのに、不思議とその人影たちが、手足を動かし、言葉を発し、せわしなく「生きて」いるように見えるのだ。

 

モデルを前にしてスケッチした作品も興味深かった。

説明によると、ジャコメッティは、生者を死者から隔てるまなざしを捉えることに執着し、モデルを見る毎に変化するわずかな異なり(これを彼はヴィジョンと呼んだらしい)を捉えようと試みたそうだ。

言われてみれば、それらはまるでモデルが身動きする一瞬一瞬の残影を重ね合わせた集合体のようにも見えてくる。

「見えるものを見えるままに」ということの奥深さに、思わず腕組みをして考え込んでしまった。

 

 

これまで私は、ジャコメッティの彫刻を、無駄な血肉を削ぎ落して掘り出した、人間の「核」の姿であるように感じていた。

でも、今回、その捉え方が少し改められた気がする。

ゆるぎない確かさを帯びた「核」という言葉で表すには、どうも様子が違うのだ。

どうやらジャコメッティの作品は、私たちの精神が他人を認知し、認知したそばから抜け落ちてかろうじて記憶に残った、頼りない人間の「残滓」の寄せ集めであるらしい。

記憶の中の人間認識は、ここまで細々としたものなのかと、拍子抜けするほどである。

 

しかし、表面上の装飾が記憶から零れ落ち、残った「残滓」が人の本質だとするのなら、その寄せ集めは人の「芯」であることに変わりはない。

視覚的に「見えるもの」は美しくても、時と共にうわべが淘汰され、最後に残る精神的に「見えるもの」がつまらなければ、「芯」も貧弱になる。

 

もしも、ジャコメッティに今の自分を写し取ってもらえるとしたら、その像はどんなふうに立つだろうか。

存在感と魅力のある、すっくと立った凛々しい姿であってほしいものである。

 

 

***

ジャコメッティ展は、9/4まで、国立新美術館にて開催中!

www.tbs.co.jp

「独り」を見つける写真|Find happiness in solitude

 

InstagramPinterestで写真を眺めていると、自分のツボが分かる。

例えば、陰影がくっきりした、人のいないエスカレーターの写真。

だだっ広い階段を、赤い傘を差した人が降りていく写真。

湖の真ん中に真っ白な白鳥が一羽浮かんでいるモノクロ写真。

コントラストも色彩も被写体も、ハッキリクッキリした、シンプルなものが好みらしい。

そういう写真を飽きずに眺めていたら、1年ほど前に撮った写真を思い出した。

 

 

f:id:numbernotes:20170709144716j:plain

 

場所は神保町の駅。

この頃の私は、何だかすごく気疲れしていて、思考が同じところをぐるぐるして気持ちが前に進まず、とにかく現状にウンザリしていた。

漠然と、そこから抜け出す何かしらの刺激が欲しくて、そういえばずっと神保町行ってないな、久々に行こうかな、と重たい身体をひきずって、すがるように駅に着いた。

どの出口から出ようか迷いながら、でも考えるのも億劫で、適当に近くの出口を降りようと足を踏み出した。

 

すると、不思議と人が一人もいない。

降りた先は改札に通じているはずなのに、人の往来も見えず、立っている私の前にも後ろにも、誰もいない。

心なしか、空気もひんやりしている。

地下鉄特有の、地鳴りのような音が遠くに聞こえる。

都心の地下鉄の腹中に、たったひとり、残されたような感覚。

 

その不思議な一瞬の奇跡に、淀んでいた頭にごうっと風が吹いたような気がした。

前へ向く気持ちがむくむくと湧いてきた。

何が引き金になったのか分からないけれど、自分が自分の居場所にちゃんと戻ってくるような、ちゃんとここにいて、自分の足で歩いていることにやっと気付いたみたいな、そんな感覚に襲われた。

この心の震動を覚えておきたいと思って、奇跡的な風景が崩れる前にと、慌てて撮った写真だった。

 

 

今思えば、きっとあの頃は、人に会いすぎていたのだと思う。

人間は社会的な生き物なくせに、ずっと社会の中で歩き回っていると、社会環境や他者に「反応」するだけの、機械のように合理的なものになってしまうことがある。

それが行き過ぎると、自分が自分のものなのかすら認識しにくくなって、でも身体は相変わらずきちんと環境に反応して仕事したり話をしたり笑ったり食べたりするので、心と身体がちょっとずつ乖離して、心だけが置いてけぼりにされたような、貧しい気持ちになっていく。

そういうとき、独りになる瞬間が少しでもあると、自分を思い出せる。

遠くまで伸ばしすぎていた知覚や思考が、ぴたりと相応の場所に収まり、きちんと自分のものとして扱えるようになる。

それができると、自信がつく。

自信がつくと、前に進める。

 

 

英語には、”solitude”という言葉がある。

平べったく訳すと「孤独」となるが、同じ孤独でも、”loneliness”とは違う。

“loneliness”は、独りで寂しい。他者がいないことでぽっかりと空白ができる。そこには一人でありながらも他者の影がある。

でも”solitude”は、”solo”、つまり文字通り、単なる「ひとつ」あるいは「一人」であること。

そこには他者はいないから、空白もなければ虚無感もない。

ただ自分という人間だけがいて、しっかり存在している。

 

私が眺めていた写真や、一年前の神保町でのプチ奇跡が清々しかったのは、”solitude”の中に幸福な発見があるからだ。

湖の水面にひっそりと浮かぶ白鳥が、他の白鳥と比較せずとも圧倒的に美しいように、たとえ人の多い都会でも、他者を消した風景には、しっかりと人がひとり、立っているはず。

私は私。

そのことを忘れてしまったら、人間の生活は苦しい。

特に人の多い東京だから、たとえ一瞬でも、そんなふうに独りであることの幸福を発見する瞬間が大事なのだと思う。

 

 

***

"solitude" "photography"で検索してみたら、素晴らしい写真がたくさん出てきました。

たまには社交性を封じて、solitudeな写真を眺めてみるのはいかがでしょう?

 

www.stockvault.net

121clicks.com