昔は飽き性で新しいもの好きだった私が、いつの間にか、古着ばかり買うようになっている。
新品を買うときは、よっぽど一目ぼれした服か、あとはユニクロくらい。
大人になって、せっかく自分で稼げるようになったのにおかしな話だが、休日に使う鞄や靴もほとんど古着屋で買ったものばかりで、実は今日身に付けているもので一番高価なのはピアスです、なんてこともままある。
考えてみると、最近流行りのミニマリズムに触発されて、お金の使い方に強弱をつけはじめたのが始まりだったかもしれない。
モノにはお金をかけず、形のない情報や思い出のために使いたい。
そのルールを決めてから、書店で好きな本を買うのを我慢するストレスも減ったし、友達からの誘いも快く受けられるようになったし、見栄だけで買い物をして気疲れすることもなくなった。「欲しい」という言葉を、わがままやないものねだりでなく、本当にそう思うものに対して使えるようにもなった。
その延長で、本当に自分にフィットするものだけを選り分ける訓練をしていたら、不思議と、古いものに目がいくようになった。
古いものを買うということは、そのモノが負ってきたキズごと引き受けるということだ。
たとえば古着屋にある鞄は、ひっかいてしまった跡や色あせがどうしてもあるので、気になるキズと値段とを吟味することになるのだけれど、どうしようかな、これなら新品買った方がマシかな、とか悩みながら眺めるうちに、逆にそれらのキズが馴染んできてしまい、新品を買うのではむしろ味気ない気がしてしまう。
買ってからも、使えば使うほど、まるでそのキズをつけてしまったのが自分であるような気がして、そのモノが最初から自分の持ち物であったかのように思えてくる。
そうすると、大事に大事に、扱いたくなる。
また、古いものを買うということは、「借りる」ということでもある。
すでに誰かが使ったものを「借りている」と思えば、せっかく高い金を払って自分のものにしたのだからと、モノに対してギブアンドテイクを要求して、執着し、振り回されることもない。
「借りもの」だから、ぞんざいに扱って壊れて捨てるなんていう無責任なこともしなくなる。
だから、古いものを身に付けていると、気負わず、わがままにもならず、自由な気持ちでいられる気がするのだ。
新しいものを持つには、パワーがいる。
まだ人の手に触れていない純粋な新品は、人に所有されることに慣れていないから、ギラギラとして扱いにくく、柔軟性がない。それが自分に馴染んでくれるまで、頑固な子供をなだめすかすように、あれこれと手を焼かなければいけない気がする。
でも、そっちにパワーを持っていかれていては、頭もこころもモノで埋め尽くされ、無形のものに目を向ける余裕がなくなってしまう。
古いものを買うということは、「余白」をとっておくことなのかもしれない。
古いものは、余計なスペースを要することなく、すんなり私という器に収まってくれる。
本当に価値ある新しさを取り入れるためにとっておきたい「余白」は、決して侵されることはない。
古いものに身を包み、新しさのための「余白」をつくる。
そこに滑り込んでくるものを、拒まず楽しむ。
万が一、無形の新しさだけでは自分をリニューアルできないほど、古いものに馴れ合い始め、澱みがでてきたら、そのときだけは一新する。
濁ってきた自分の器を磨く。
そして古いものを他へ譲って、また「余白」をつくる。
そういう感覚で生きていたほうが、たぶん、面白いことをたくさん捕まえられる気がするのです。
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私が影響を受けたミニマリズムの本から、代表的なものを2冊。
ぼくたちに、もうモノは必要ない。 - 断捨離からミニマリストへ -
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