Art Inspirations

素人作家のメモ箱

アートと活字を愛するアマチュア作家が運営するブログ。

ジャンルを超えて、広義の「アート」から得た様々なインスピレーションやアイデアを文章で表現していきます。
絵画、彫刻、インスタレーション、音楽、ダンス、デザイン、ファッション、建築などなど。





日本語で雨を読む

 

今日の都心は雨。

沖縄・奄美は早くも梅雨入りだそうで、そういえばもうそんな季節かと驚く。

 

雨ってやだなあ。

 ・・・とは思わず、私は結構雨が好きだ。

 

特に、休日の雨は何だか空気が落ち着いていて良い。

雨音に紛れて喧噪も少し遠のく気がするし、普段はうるさい車の音も、波音みたいに聞こえて穏やかになる。

この季節はさほど寒くもないので、家の窓を開けて雨音を聞き、湿り気を含んだ涼しい空気に吹かれながら、コーヒーをいれて読書、なんていう至福のときも味わえる。

晴れの日は晴れの日で活動的な気分になって楽しいけれど、雨の日は、色々と無理して焦らなくても良いような、迷走していたのが整ってしっくりくるような、何だか自分がちゃんと自分のサイズに収まる感じがするのだ。

 

雨の魅力に気づいたのは、学生の頃、アメリカ留学から帰国したときだったと思う。

帰国後初めて雨が降った日、雨の美しさにハッとした。

乾燥した土地が多いアメリカの気候に慣れていたせいか、日本の自然の豊かさには本当に驚かされる。

田舎道をちょっと車で走れば、勇壮な山々が一望できるし、植物も土も、艶があって深い色をしている。そこに雨が降ると、葉や枝や土や瓦や、実に様々なものに雨粒が当たって、結構複雑な雨音を立てる。雨の匂いも、土や木々の香りが混ざって濃く感じる。濡れた深緑の葉は、ますます艶を増して輝きだす。

日本の雨は、とても綺麗だ。

 

 

この日本の雨の美しさは、言葉によって証明されていると思う。

英語だと”rain”という単語一つで終わってしまうが、それを日本語で表現しようとすると、驚くほど多種多様な「雨」があることに感動する。

類語辞典でちょっと調べてみるだけでも、こんな感じだ。

 

小雨(こさめ)

細雨(さいう)

霧雨(きりさめ)

糠雨(ぬかあめ)

涙雨(なみだあめ)

豪雨(ごうう)

雷雨(らいう)

暴風雨(ぼうふうう)

篠突く雨(しのつくあめ)

しぶき雨(しぶきあめ)

氷雨(ひさめ)

慈雨(じう)

霖雨(りんう)

遣らずの雨(やらずのあめ)

暮雨(ぼう)

村雨(むらさめ)

驟雨(しゅうう)

日照り雨(ひでりあめ)

狐の嫁入り(きつねのよめいり)

春雨(はるさめ)

五月雨(さみだれ

夕立(ゆうだち)

時雨(しぐれ)

【引用:柴田武・山田進編『類語大辞典』、2002年、講談社、8708i】

 

さらに調べてみると、

巌雨(がんう):海岸に突き出た岩など、巌に降る雨

そぼ降る雨(そぼふるあめ):しめやかにしっとりと降る雨

車軸を流す(しゃじくをながす):車輪のような太い雨脚の雨が降ること

雨募る(あめつのる):雨がますます激しくなること

雨癖(あめぐせ):癖がついたように雨がよく降ること

卯の花腐し(うのはなくたし):卯の花を腐らせるほどに降り続く霖雨

銀竹(ぎんちく):光線を浴び、光り輝いて降る雨

【引用:倉嶋厚・原田稔編著『雨のことば辞典』、2014年、講談社学術文庫

なんていう珍しい表現もあるらしい。

他の言語では、たとえ形容詞をもってしても、果たしてここまで繊細に雨を表現できるだろうか?

 

これから梅雨の季節。

靴は濡れるし、どんより暗いし、せっかくの心地よい季節なのに遊びにも行けない。

長雨が続くと精神的に病みやすくなるらしいという話も聞く。

それでも私は、雨を形容する言葉がこんなにも豊かな国ならば、なんとなく、大丈夫な気がするのだ。

 

 

***

こちらは私の大好きな本です。外に遊びに行けない雨の休日にどうぞ。

雨のことば辞典 (講談社学術文庫)

雨のことば辞典 (講談社学術文庫)

 

生活空間がもたらす情報と思考のバランス

 

このGWで人の家にお邪魔する機会が何度かあり、ふと自分の部屋を見回したら、やたら情報が多いことに気が付いた。

 

私は元々部屋づくりが好きなたちで、しょっちゅう模様替えをしてインテリアコーディネートの真似事をしては、ああでもないこうでもないと理想の部屋を模索するのが好きだ。

その結果、壁には、好きな画家の絵とか、気に入ったイラストとか、英語の格言とか、工夫を重ねた額縁がいくつも並んでいる。

時々、見飽きてきたポスターを最近行った美術展のポスターに取り換えたり、心境の変化に応じて格言を変えてみたりして、ベッドに腰かけて部屋を見回し、ニンマリする休日がどうにも楽しくて仕方がない。

最近は、考え事や執筆のアイデアを取りこぼすまいとして、机周りの壁にも浸食してしまい、メモ書きや資料やパンフレットが所狭しと貼ってある始末だ。

さらにベッド脇の棚は常に積読本で溢れかえっていて、気分が乗れば、いつでも手あたり次第に乱読できるようになっている。

まさしく、執筆環境をレベルアップするべく築き上げた、私の城である。

 

そんな自慢(というか自己満)のマイルームなのだが、立て続けに色んな人の家を覗いたあと家に帰ってみたら、ちょっとくらくらしてしまった。

今までは意識しなかったが、やたらと情報が多いのだ。

ベッドに座れば、リラックスするどころか、頭はどんどんフル回転する。

あの額縁に掲げてある格言と似たようなテーマの啓発本、そういえばこないだ買ったんだったなあ、と思い出して積読本に手を伸ばそうとすると、その横に並んでいる別の小説や学術書に目がとまり、その時の興味関心が蘇って、それが壁の絵画にリンクしたりして、そこから思いついた執筆のネタが書かれたメモに視線が行き、ああそうだこれ書こうと思ってたんだ、あ、でもそういえばその前にこれもやらなきゃ、まずはこの作業をしてから…

といった具合で、気付いたらパソコンを開いてカタカタ。そしてまた何か思いついて走り書きをして壁にペタリ。

頭が休まるときがない。

私が目指した理想の創作部屋には限りなく近づいているので嬉しいのだが、これはちょっと、情報過多で脳には負担なのではないか。

特に、GWで完全にオフっていた脳には少々プレッシャーが過ぎたようで、何だか自分の部屋にいるのに疲れてしまった。

 

考えてみると、私たちが暮らしている空間は、普段気づかないうちに、人の行動に多様な影響を与えているようだ。

例えば美術館という空間は、創作意欲が刺激されるので、私の場合、美術館に行ったあとは不思議と執筆が捗ったりアイデアを思いつきやすかったりする。

図書館や書店に行くと、自分の知らないことがこんなにある!という事実を突きつけられて、謙虚な気持ちになると同時に、学習意欲がむくむくと湧き上がってくる。これはネット書店では実感できない、まさに空間がもたらす感覚だろう。

これはもっと広範囲の空間でも同様に言えることで、例えば広告や宣伝文句にあふれ返った街中を歩くと、自分が必要としているものがあれもこれもあるような気がして、急に欲求が膨らみ、意味もなく焦燥感に駆られたりする。

言うなれば、これらの空間が持つそれぞれの特性を、私の部屋は一挙に引き受けてしまっているようなのだ。

 

絵画もあれば文字もあり、やりたいこと、やらねばならぬことを意識下でリマインドしてくるメモまで並んでいる。

おかげで怠けることはあまりないし、こういうブログの執筆にはもってこいなのだが、何かがかえって見えにくくなってはいないだろうか。

「寝室に本や電子機器を持ち込むと安眠を妨げる」といった類の話は、最近雑誌でもテレビでもよく耳にする。

それと同じで、自分自身と向き合うことのできる唯一の空間であるはずの自室に、情報があふれかえっていたら、「自分を妨げる」なんてことになりかねない。

 

アートなり文学なり、好きなものを追求して、高めていくのは楽しい。

が、それ自体が目的になって、いつしかタスクになり、自分が本当にやりたいこと、本当に知りたいこと、本当に書きたいことを、見失うような生活になってしまったら本末転倒だ。

好きだからと言って、何でもかんでも取り入れるだけでは、どうやら見えなくなるものもあるらしい。

外の空間からもたらされる「情報」と、自分の内側にあるはずの「思考」を混同しないように、今一度、自分が暮らす環境を見つめ直してみるのも良いかもしれない。  

 

ミュシャ展|スラヴ叙事詩の重厚な魅力

 

さて、先週の国立新美術館ではミュシャ展も見てきたので、今週はそちらの感想を。

www.mucha2017.jp

 

ミュシャといえば、タロットカードのようなイラストがまず頭に浮かぶ人が多いのではないだろうか。

精密な長髪の女神が描かれていて、背景には、意味は分からないけど何やら素敵な外国語が書かれた魔法陣みたいな円があって、呪文を唱えたらその女神を召喚できそうな雰囲気。

中高生が喜びそうな、いかにもファンタジックな絵だ。

そんなイメージだから、偏屈なシュルレアリスム絵画ファンとしては、正直なところ、自分の好みの範疇には入っていなかった画家だった。

 

ところが、あなどるなかれ。

話題になっている「スラヴ叙事詩」のシリーズが、とてもとても素晴らしかった。

ミュシャおなじみのファンタジックな世界観に、平和への真摯な祈りと、故郷への愛とが絶妙に混ざり合った、ドラマチックな傑作揃いだった。

 

スラヴ叙事詩というのは、ミュシャが晩年になって描き上げた巨大な作品群のことで、その大きさは各々が縦6メートル、横8メートルにも及ぶ。

私たちが見慣れたポップなミュシャのイラストは、まるで巨大なキャンバスの中に解き放たれて真の姿を取り戻したかのように、たちまち重厚な絵画になり、どの作品にも雄大な物語が広がっている。

それはまさに「スラヴ叙事詩」の名の通り、故郷を舞台にした壮大な歴史物語だった。

 

中でも共通して印象的だったのは、平和や自由、英知の象徴として描かれる神々の姿である。

例えば、「スラヴ式式典の導入」に描かれる民衆たちは素朴で穏やかな色調なのに対して、宙に浮かぶ神々しい人々は、不思議と静謐な青さを帯びて、心なしか陰っているようにも見える。

その異なる色調が醸しだす幻想的な違和感が、神々の姿をより不可思議で神秘的なものにし、見る者に畏敬の念を抱かせる。

彼らは俗世とは別次元の場所に浮かびあがってくるようで、絵画の奥行きをより深くしている。

そこには、枠をつきぬけて昇天していくような「広さ」があると言ってもいい。

 

さらに、光と陰の巧みな表現も印象的だ。

例えば「クジーシュキでの集会」を見ると、人間が描かれた手前の空間は落ち着いた暗めの色調だが、人のいない遠方は、ぼんやりとした不思議な光を放っている。

まるでそこに見えない女神が降り立っているかのような、意味ありげな美しさだ。

なかでも、「ベツレヘム礼拝堂で説教をするヤン・フス師」、「聖アトス山」といった作品は、色彩の魔術師・ドラクロワを彷彿とさせる、崇高な輝かしさである。

 

そして、それらの魅力が結集された傑作と言うべき作品が、スラヴ叙事詩最後の作品「スラヴ民族の賛歌」だろう。

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(写真が微妙でごめんなさい・・・)

 

解説によると、この作品は、チェコスロヴァキア独立までのスラヴ民族の歴史を表しているのだという。

右下の青は神話の時代、左上の赤は戦争の時代、その下の黒い部分は他国からの抑圧の時代、そして中央の黄色が、独立によって達成された自由・平和・友愛の勝利を示すのだそうだ。

うっすらと背後に描かれた神の気配に見守られ、たくましく両手を掲げた青年の荘厳な姿は、まさに、ミュシャのスラヴ民族としての誇りそのものである。

晩年にこの大作を完成させたミュシャのエネルギーと心の豊かさには、敬服せずにはいられない。

 

ミュシャ展で、スラヴ叙事詩シリーズを見て感じたのは、広さだけではない、絵画の「厚み」だった。

それはきっと、スラヴ民族の歴史と、それを見守ってきた神の視点が共存しているからではないだろうか。

壮絶な民族史として描かれる人間世界と、故郷への愛やスラヴ民族の賛歌にあふれた幻想的な心象風景とが、巨大なキャンバスの上に彩り豊かに表現され、それらが「スラヴ叙事詩」というひとつの壮大な物語として完成されている。

これは、まぎれもない傑作だろう。

 

美術はやっぱり、自分の好みの範疇外でも、思いがけない発見と感動があるから楽しい。

 

 

ミュシャ展は、国立新美術館で6月5日まで開催されています。

同時開催の草間彌生展とあわせて、ぜひ足を運んでみてください!

 

草間彌生展の感想はこちら。

artinspirations.hatenablog.com

草間彌生―わが永遠の魂|「生」の根源を描く前衛美術

 

草間彌生展に行ってきた。

予想以上に、面白かった。

草間彌生という人間の根源を見たような、サブタイトル通りの「魂」の展覧会だった。

 

まず、展示室に入ると、巨大なオブジェと壁一面の極彩色の連作に度肝を抜かれる。

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まさに草間彌生

のっけから彼女の集大成ともいえる大作にガツンとやられる。

 

そこから展示室に入っていくのだが、順路は草間彌生の人生を辿るように進んでいく。

 

初期作品は、最近の作品と比べると全体的に暗さや重みがあり、芸術を通して、自分自身や世界の在り方を探求しようとする真摯さと激しさが感じられる。

それらの絵から総じて連想されるのは、植物や動物の「細胞」だ。

緑色の唇のような不気味な気孔が並び、音もなく呼吸している葉の細胞。

何かの悪夢のようにぼこぼこと膨張し分裂していくカエルの胚。

半透明の紐状のものが絡み合ってうごめく無数の微生物の塊。

そういうグロテスクな不気味さがあった。

思えば植物というのは、よくよく眺めると、おしべやめしべが露わになり、極めて原始的な構造をしていて結構気持ちが悪い。グロテスクな部分を覆い隠す複雑な構造をしている人間に比べて、ある意味卑猥な生き物だ。(というのは今朝読み終わった、村上隆『芸術起業論』からの受け売りだけど)

草間彌生の絵は、つまり、原始的な「生」を暴こうとしているから気持ちが悪いのではないか。

幼い頃から水玉の幻影が見えたという彼女にとって、絵を描くということは、得体の知れない自分という人間の「生」に対する違和感と不気味さを、解きほぐす手段だったのかもしれない。

 

さて、初期作品のエリアを抜けると、次は「ニューヨーク時代」。

草間彌生が前衛画家としてニューヨークで活躍した頃の作品である。

ここでは一転して、ミニマルな表現が目を引く。

初期作品のイメージが細胞だとするなら、このあたりの絵は「網」がもっぱらのイメージだ。

大きなキャンバス上に、白と水色の網が一面に張り巡らされているだけの絵。

なんじゃこりゃ、と最初は思ったが、じっとその前で根気強く立っていると、ふと、瞼を閉じたときに見える光の加減にちょっと似ている気がした。

「瞼を閉じるとき、それは何も見えていないのではなくて実は瞼の裏を見ている」といった主旨の見え方に似ていると感じたのだ。(これもまた、私の大好きなアニメ『蟲師』の第2話「瞼の光」からの受け売り)

暗闇を見るとき、光をみるとき、私たちは黒や白といった平面的な色を見ているわけではない。「何か」をきっと見ているはずなのだ。

それはとても不気味で恐ろしく、得体が知れない。

ここでも草間彌生は、何か根源的なものを描こうとしていたのではないか。

彼女の絵の前に立つと不穏な気分になるのは、普段は見えないもの、あるいは決して直視してはいけないはずの根源を引きずりだしたことによる不安なのではないか。

 

他にも面白いと思ったのは、『死の海を行く』というインスタレーション

銀の突起物に覆われた船が中央に置かれ、四方八方が、そのボートのネガ写真のようなポスターで埋め尽くされているというものだ。

これもまた、タイトルを見てから作品を見ると、色々と想像が膨らむ。

「死の海」という言葉から、しんと張りつめた、完全な静寂が連想される。閉鎖された空間。発狂しそうになるほどの静けさ。その中を、銀色の船に乗って行く。まるで精神世界のよう。周りは自分の乗っている船がそっくりそのまま繰り返され、否応なく、はね返ってくる自分自身を見つめるしかない。

これまた、内なる根源に極めて近い作品に思われた。

草間彌生の作品は、どれもタイトルが秀逸で想像をかきたてるから面白い。

 

後半、「21世紀の草間彌生」のブースに入っていくと、おなじみの南瓜や水玉模様が目立ってくる。

ああ、これこれ。これだよね草間彌生

と思っていると、異色を放つ『生命の輝きに満ちて』という作品に遭遇して、見る者の心はどきりと揺らがされる。

これは真っ暗な空間の中に鏡が張りめぐらされ、無数に垂れ下がる小さな電球が色とりどりに点滅するインスタレーションだ。

それまでの「気持ち悪さ」とは打って変わって、これは純粋に美しい。文字通り、静かな輝きに満ちた空間。

そこから連想されるのは「宇宙」だ。

ここで、草間彌生の作品は、原始的なミクロの視点から、いきなりマクロなものに拡大される。

 

それから最後の「帰国後の作品」エリアに入ると、もはや目立ったイメージや共通したテーマ性はなくなり、何かを探求し描き続ける自由で前衛的な挑戦が見て取れる。

「死ぬまで挑戦する」という草間彌生ご本人の言葉を体現するような作品ばかり。

 

そしてそのエリアを抜けて、再び、はじめの部屋に戻ってくるのだ。

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花をモチーフにした水玉のオブジェ、壁一面の極彩色の絵。

草間彌生の真骨頂である。

 

草間彌生の作品を、初めて初期から今まで時系列を追って見たが、彼女の芸術が大成されるまでの一部始終を垣間見たような、面白いけれど少し気恥ずかしい、「見てしまってゴメンナサイ」みたいな感覚が芽生えてしまった。

草間彌生は、彼女自身の「生」そのものをさらけ出す、というか叩きつけるような芸術であるように思われる。

そして「生」というのは誰しも経験していて、しかも極めてパーソナルでデリケートなものだから、彼女の作品を見ると不安になり胸がざわつく。

裸体をさらすだけでも恥ずかしいのに、内臓のみならず、細胞のレベルまで丸裸に剥かれてしまうような、羞恥を伴った芸術だからかもしれない。

それを大成した草間彌生は、やっぱり凄かった。

 

 

草間彌生―わが永遠の魂」

5月22日まで国立新美術館で開催されているので、ぜひ足を運んでみてください。

kusama2017.jp

 

同時開催されているミュシャ展の感想はまた近々。

 

芸術の奥行き

 

今よりもっと五感や感性で小説や絵画を楽しんでいた頃は、漠然と、「奥行き」のある作品だなあ、と感じることがよくあった。

しかし最近は、職業病というのか(といっても相変わらずアマチュアなのだけど)、表現技法とか着眼点なんかについつい目がいき、それに素人覚えの学術的な考察が無駄に絡まって、随分技巧的な読み方や鑑賞をすることが増えていたような気がする。

この表現は上手いなあとか、この色は何を象徴しているのかなあとか、あれこれと頭で考えるうちに、感性で捉えることが疎かになっていたのかもしれない。

 

しかし、最近『世界泥棒』という小説を読んで、久しぶりに忘れていた感覚が研ぎ澄まされた。

凄まじいまでの「奥行き」のある小説だったのだ。

世界泥棒

世界泥棒

 

2013年に文藝賞を受賞したこの『世界泥棒』は・・・

と普段なら概要を説明をしたいところなのだが、そもそもこの小説は、説明したり、何かに分類できるたぐいのものではない。

舞台設定とストーリーは一応あるし、主人公も登場人物ももちろん普通の人なのだが、どこかすべておぼろげで、読者との断絶がある。物語を物語として読ませてくれないというか、何かを描いているはずなのにそれが何かわからないというか、まるで無声映画を見ているような感覚になるのだ。

本来の小説なら、読者を断絶させるなどそんなあるまじき行為はご法度なのだけれど、不思議とそれが心地良く、心惹かれてしまい、切なくもある。

さらにこの小説には、表現技法とかそういうものを学び取ろうとする姿勢すら、真向からはじかれてしまう。会話文は地の文に紛れ込み、漢字とひらがなの使い方も奇妙で、そもそも小説なのか詩なのか、SFなのか日常風景なのかファンタジーなのか、何かの尺度で「測る」ことを決して許さない。

全然紹介にも感想にもなっていなくて恐縮なのだけれど、正直、こんな小説は初めて読んだといっても過言ではないほど、ほんとうに高度な小説だった。

 

改めて、この小説の「奥行き」について考えると、『世界泥棒』は、まさに世界そのものを描いた小説だったような気がしてならない。

限られた場面や会話を描いただけの小説が、その後ろに広がる世界をぼうっと浮かび上がらせ、その先にいる人間やその人間の心の動きや、生命のあり方、日々の生活のひとつひとつまで、神の視点で一つ残らず見えてしまいそうな錯覚をもたらす。

これが、作品の持つ「奥行き」なのではないかと思う。

 

例えば、シュルレアリスム絵画のように、意味の分からないものが描かれているのになぜか心がざわざわするとか。

環境音楽のように、歌詞もメロディーラインもない音の連なりが不思議な安らぎをもたらすとか。

芸術には、五感に訴えても絶対に表現できないものを、色と色、音と音、言葉と言葉の「あいだ」、あるいは「余白」でもって表現できてしまうことがあるのだと思う。

それが成功すると、「余白」はどんどん広がって目に見えないはずのものが浮かび上がり、感じ取れるようになり、それが「奥行き」になって見る者の琴線に触れて揺さぶられるのではないだろうか。

 

芸術作品と呼ばれるものの魅力の本質は、五感で感じ取れる範囲のところにはないのかもしれない。

その余白がもたらす、作品の背後に広がる奥行き。

その大きさが作品の良しあしを決めているような気もする。

 

読後に、世界を丸ごと見てしまったようなショックを与える、奥行きのある小説。

いつかそんな小説を大成してみたいものです。