Art Inspirations

素人作家のメモ箱

アートと活字を愛するアマチュア作家が運営するブログ。

ジャンルを超えて、広義の「アート」から得た様々なインスピレーションやアイデアを文章で表現していきます。
絵画、彫刻、インスタレーション、音楽、ダンス、デザイン、ファッション、建築などなど。





ミュシャ展|スラヴ叙事詩の重厚な魅力

 

さて、先週の国立新美術館ではミュシャ展も見てきたので、今週はそちらの感想を。

www.mucha2017.jp

 

ミュシャといえば、タロットカードのようなイラストがまず頭に浮かぶ人が多いのではないだろうか。

精密な長髪の女神が描かれていて、背景には、意味は分からないけど何やら素敵な外国語が書かれた魔法陣みたいな円があって、呪文を唱えたらその女神を召喚できそうな雰囲気。

中高生が喜びそうな、いかにもファンタジックな絵だ。

そんなイメージだから、偏屈なシュルレアリスム絵画ファンとしては、正直なところ、自分の好みの範疇には入っていなかった画家だった。

 

ところが、あなどるなかれ。

話題になっている「スラヴ叙事詩」のシリーズが、とてもとても素晴らしかった。

ミュシャおなじみのファンタジックな世界観に、平和への真摯な祈りと、故郷への愛とが絶妙に混ざり合った、ドラマチックな傑作揃いだった。

 

スラヴ叙事詩というのは、ミュシャが晩年になって描き上げた巨大な作品群のことで、その大きさは各々が縦6メートル、横8メートルにも及ぶ。

私たちが見慣れたポップなミュシャのイラストは、まるで巨大なキャンバスの中に解き放たれて真の姿を取り戻したかのように、たちまち重厚な絵画になり、どの作品にも雄大な物語が広がっている。

それはまさに「スラヴ叙事詩」の名の通り、故郷を舞台にした壮大な歴史物語だった。

 

中でも共通して印象的だったのは、平和や自由、英知の象徴として描かれる神々の姿である。

例えば、「スラヴ式式典の導入」に描かれる民衆たちは素朴で穏やかな色調なのに対して、宙に浮かぶ神々しい人々は、不思議と静謐な青さを帯びて、心なしか陰っているようにも見える。

その異なる色調が醸しだす幻想的な違和感が、神々の姿をより不可思議で神秘的なものにし、見る者に畏敬の念を抱かせる。

彼らは俗世とは別次元の場所に浮かびあがってくるようで、絵画の奥行きをより深くしている。

そこには、枠をつきぬけて昇天していくような「広さ」があると言ってもいい。

 

さらに、光と陰の巧みな表現も印象的だ。

例えば「クジーシュキでの集会」を見ると、人間が描かれた手前の空間は落ち着いた暗めの色調だが、人のいない遠方は、ぼんやりとした不思議な光を放っている。

まるでそこに見えない女神が降り立っているかのような、意味ありげな美しさだ。

なかでも、「ベツレヘム礼拝堂で説教をするヤン・フス師」、「聖アトス山」といった作品は、色彩の魔術師・ドラクロワを彷彿とさせる、崇高な輝かしさである。

 

そして、それらの魅力が結集された傑作と言うべき作品が、スラヴ叙事詩最後の作品「スラヴ民族の賛歌」だろう。

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(写真が微妙でごめんなさい・・・)

 

解説によると、この作品は、チェコスロヴァキア独立までのスラヴ民族の歴史を表しているのだという。

右下の青は神話の時代、左上の赤は戦争の時代、その下の黒い部分は他国からの抑圧の時代、そして中央の黄色が、独立によって達成された自由・平和・友愛の勝利を示すのだそうだ。

うっすらと背後に描かれた神の気配に見守られ、たくましく両手を掲げた青年の荘厳な姿は、まさに、ミュシャのスラヴ民族としての誇りそのものである。

晩年にこの大作を完成させたミュシャのエネルギーと心の豊かさには、敬服せずにはいられない。

 

ミュシャ展で、スラヴ叙事詩シリーズを見て感じたのは、広さだけではない、絵画の「厚み」だった。

それはきっと、スラヴ民族の歴史と、それを見守ってきた神の視点が共存しているからではないだろうか。

壮絶な民族史として描かれる人間世界と、故郷への愛やスラヴ民族の賛歌にあふれた幻想的な心象風景とが、巨大なキャンバスの上に彩り豊かに表現され、それらが「スラヴ叙事詩」というひとつの壮大な物語として完成されている。

これは、まぎれもない傑作だろう。

 

美術はやっぱり、自分の好みの範疇外でも、思いがけない発見と感動があるから楽しい。

 

 

ミュシャ展は、国立新美術館で6月5日まで開催されています。

同時開催の草間彌生展とあわせて、ぜひ足を運んでみてください!

 

草間彌生展の感想はこちら。

artinspirations.hatenablog.com

草間彌生―わが永遠の魂|「生」の根源を描く前衛美術

 

草間彌生展に行ってきた。

予想以上に、面白かった。

草間彌生という人間の根源を見たような、サブタイトル通りの「魂」の展覧会だった。

 

まず、展示室に入ると、巨大なオブジェと壁一面の極彩色の連作に度肝を抜かれる。

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まさに草間彌生

のっけから彼女の集大成ともいえる大作にガツンとやられる。

 

そこから展示室に入っていくのだが、順路は草間彌生の人生を辿るように進んでいく。

 

初期作品は、最近の作品と比べると全体的に暗さや重みがあり、芸術を通して、自分自身や世界の在り方を探求しようとする真摯さと激しさが感じられる。

それらの絵から総じて連想されるのは、植物や動物の「細胞」だ。

緑色の唇のような不気味な気孔が並び、音もなく呼吸している葉の細胞。

何かの悪夢のようにぼこぼこと膨張し分裂していくカエルの胚。

半透明の紐状のものが絡み合ってうごめく無数の微生物の塊。

そういうグロテスクな不気味さがあった。

思えば植物というのは、よくよく眺めると、おしべやめしべが露わになり、極めて原始的な構造をしていて結構気持ちが悪い。グロテスクな部分を覆い隠す複雑な構造をしている人間に比べて、ある意味卑猥な生き物だ。(というのは今朝読み終わった、村上隆『芸術起業論』からの受け売りだけど)

草間彌生の絵は、つまり、原始的な「生」を暴こうとしているから気持ちが悪いのではないか。

幼い頃から水玉の幻影が見えたという彼女にとって、絵を描くということは、得体の知れない自分という人間の「生」に対する違和感と不気味さを、解きほぐす手段だったのかもしれない。

 

さて、初期作品のエリアを抜けると、次は「ニューヨーク時代」。

草間彌生が前衛画家としてニューヨークで活躍した頃の作品である。

ここでは一転して、ミニマルな表現が目を引く。

初期作品のイメージが細胞だとするなら、このあたりの絵は「網」がもっぱらのイメージだ。

大きなキャンバス上に、白と水色の網が一面に張り巡らされているだけの絵。

なんじゃこりゃ、と最初は思ったが、じっとその前で根気強く立っていると、ふと、瞼を閉じたときに見える光の加減にちょっと似ている気がした。

「瞼を閉じるとき、それは何も見えていないのではなくて実は瞼の裏を見ている」といった主旨の見え方に似ていると感じたのだ。(これもまた、私の大好きなアニメ『蟲師』の第2話「瞼の光」からの受け売り)

暗闇を見るとき、光をみるとき、私たちは黒や白といった平面的な色を見ているわけではない。「何か」をきっと見ているはずなのだ。

それはとても不気味で恐ろしく、得体が知れない。

ここでも草間彌生は、何か根源的なものを描こうとしていたのではないか。

彼女の絵の前に立つと不穏な気分になるのは、普段は見えないもの、あるいは決して直視してはいけないはずの根源を引きずりだしたことによる不安なのではないか。

 

他にも面白いと思ったのは、『死の海を行く』というインスタレーション

銀の突起物に覆われた船が中央に置かれ、四方八方が、そのボートのネガ写真のようなポスターで埋め尽くされているというものだ。

これもまた、タイトルを見てから作品を見ると、色々と想像が膨らむ。

「死の海」という言葉から、しんと張りつめた、完全な静寂が連想される。閉鎖された空間。発狂しそうになるほどの静けさ。その中を、銀色の船に乗って行く。まるで精神世界のよう。周りは自分の乗っている船がそっくりそのまま繰り返され、否応なく、はね返ってくる自分自身を見つめるしかない。

これまた、内なる根源に極めて近い作品に思われた。

草間彌生の作品は、どれもタイトルが秀逸で想像をかきたてるから面白い。

 

後半、「21世紀の草間彌生」のブースに入っていくと、おなじみの南瓜や水玉模様が目立ってくる。

ああ、これこれ。これだよね草間彌生

と思っていると、異色を放つ『生命の輝きに満ちて』という作品に遭遇して、見る者の心はどきりと揺らがされる。

これは真っ暗な空間の中に鏡が張りめぐらされ、無数に垂れ下がる小さな電球が色とりどりに点滅するインスタレーションだ。

それまでの「気持ち悪さ」とは打って変わって、これは純粋に美しい。文字通り、静かな輝きに満ちた空間。

そこから連想されるのは「宇宙」だ。

ここで、草間彌生の作品は、原始的なミクロの視点から、いきなりマクロなものに拡大される。

 

それから最後の「帰国後の作品」エリアに入ると、もはや目立ったイメージや共通したテーマ性はなくなり、何かを探求し描き続ける自由で前衛的な挑戦が見て取れる。

「死ぬまで挑戦する」という草間彌生ご本人の言葉を体現するような作品ばかり。

 

そしてそのエリアを抜けて、再び、はじめの部屋に戻ってくるのだ。

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花をモチーフにした水玉のオブジェ、壁一面の極彩色の絵。

草間彌生の真骨頂である。

 

草間彌生の作品を、初めて初期から今まで時系列を追って見たが、彼女の芸術が大成されるまでの一部始終を垣間見たような、面白いけれど少し気恥ずかしい、「見てしまってゴメンナサイ」みたいな感覚が芽生えてしまった。

草間彌生は、彼女自身の「生」そのものをさらけ出す、というか叩きつけるような芸術であるように思われる。

そして「生」というのは誰しも経験していて、しかも極めてパーソナルでデリケートなものだから、彼女の作品を見ると不安になり胸がざわつく。

裸体をさらすだけでも恥ずかしいのに、内臓のみならず、細胞のレベルまで丸裸に剥かれてしまうような、羞恥を伴った芸術だからかもしれない。

それを大成した草間彌生は、やっぱり凄かった。

 

 

草間彌生―わが永遠の魂」

5月22日まで国立新美術館で開催されているので、ぜひ足を運んでみてください。

kusama2017.jp

 

同時開催されているミュシャ展の感想はまた近々。

 

芸術の奥行き

 

今よりもっと五感や感性で小説や絵画を楽しんでいた頃は、漠然と、「奥行き」のある作品だなあ、と感じることがよくあった。

しかし最近は、職業病というのか(といっても相変わらずアマチュアなのだけど)、表現技法とか着眼点なんかについつい目がいき、それに素人覚えの学術的な考察が無駄に絡まって、随分技巧的な読み方や鑑賞をすることが増えていたような気がする。

この表現は上手いなあとか、この色は何を象徴しているのかなあとか、あれこれと頭で考えるうちに、感性で捉えることが疎かになっていたのかもしれない。

 

しかし、最近『世界泥棒』という小説を読んで、久しぶりに忘れていた感覚が研ぎ澄まされた。

凄まじいまでの「奥行き」のある小説だったのだ。

世界泥棒

世界泥棒

 

2013年に文藝賞を受賞したこの『世界泥棒』は・・・

と普段なら概要を説明をしたいところなのだが、そもそもこの小説は、説明したり、何かに分類できるたぐいのものではない。

舞台設定とストーリーは一応あるし、主人公も登場人物ももちろん普通の人なのだが、どこかすべておぼろげで、読者との断絶がある。物語を物語として読ませてくれないというか、何かを描いているはずなのにそれが何かわからないというか、まるで無声映画を見ているような感覚になるのだ。

本来の小説なら、読者を断絶させるなどそんなあるまじき行為はご法度なのだけれど、不思議とそれが心地良く、心惹かれてしまい、切なくもある。

さらにこの小説には、表現技法とかそういうものを学び取ろうとする姿勢すら、真向からはじかれてしまう。会話文は地の文に紛れ込み、漢字とひらがなの使い方も奇妙で、そもそも小説なのか詩なのか、SFなのか日常風景なのかファンタジーなのか、何かの尺度で「測る」ことを決して許さない。

全然紹介にも感想にもなっていなくて恐縮なのだけれど、正直、こんな小説は初めて読んだといっても過言ではないほど、ほんとうに高度な小説だった。

 

改めて、この小説の「奥行き」について考えると、『世界泥棒』は、まさに世界そのものを描いた小説だったような気がしてならない。

限られた場面や会話を描いただけの小説が、その後ろに広がる世界をぼうっと浮かび上がらせ、その先にいる人間やその人間の心の動きや、生命のあり方、日々の生活のひとつひとつまで、神の視点で一つ残らず見えてしまいそうな錯覚をもたらす。

これが、作品の持つ「奥行き」なのではないかと思う。

 

例えば、シュルレアリスム絵画のように、意味の分からないものが描かれているのになぜか心がざわざわするとか。

環境音楽のように、歌詞もメロディーラインもない音の連なりが不思議な安らぎをもたらすとか。

芸術には、五感に訴えても絶対に表現できないものを、色と色、音と音、言葉と言葉の「あいだ」、あるいは「余白」でもって表現できてしまうことがあるのだと思う。

それが成功すると、「余白」はどんどん広がって目に見えないはずのものが浮かび上がり、感じ取れるようになり、それが「奥行き」になって見る者の琴線に触れて揺さぶられるのではないだろうか。

 

芸術作品と呼ばれるものの魅力の本質は、五感で感じ取れる範囲のところにはないのかもしれない。

その余白がもたらす、作品の背後に広がる奥行き。

その大きさが作品の良しあしを決めているような気もする。

 

読後に、世界を丸ごと見てしまったようなショックを与える、奥行きのある小説。

いつかそんな小説を大成してみたいものです。

 

『江戸富士』と都心の桜

 

推敲も終わり、長編をついに完成させてから途端に気が抜けて、サボっていたらいつの間にか4月になってしまった。

桜も満開。

ということで、先日、友人と六本木に夜桜を見に行った。

 

桜を見てお酒でもひっかけて、屋内のレストランでのんびり食事でもしようか、というくらいの気持ちだったのだが、見事な桜が咲き誇る東京ミッドタウンの真ん中で、偶然にも、巨大なインスタレーションに遭遇するという嬉しい出来事があった。

ライトアップされた満開の桜並木を抜けた先に、富士山を模した小高い山が突如出現し、そこに、プロジェクションマッピングで様々に表現された「日本」が映し出される。

その名も『江戸富士』。

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都心の摩天楼と光り輝く東京タワーが遠くに見え、手前の桜並木に彩られて、壮大な日本の美が立ち現れるさまは、まさに圧巻だった。

偶然発見するまでは全然知らなかったのだが、ネイキッドというクリエイティブチームが創作したものらしい。チームラボにもちょっと似たデジタルアートという感じで、都会的な六本木の桜並木に大変よく似合っていた。

naked-inc.com

 

もし美術館の中にこのインスタレーションがあったならば、そこまで印象に残らなかったかもしれない。

が、何だかこの日の夜は、家に帰ってからも、この六本木の江戸富士と桜がしばらく頭から離れなかった。

そのくらい、痺れるほどかっこよかったのだ。

都心のビルの谷間に、精悍と咲き誇る夜桜。その向こうに、光に彩られた江戸富士。そしてそのさらに向こうには、こうこうと赤く光る東京タワー。

東京に住み始めてもう結構経つのだが、まさに「東京」という都市を象徴するような自然とデジタルの演出に、いたく感激してしまった。

 

実は白状すると、私はもともと、桜という木はこれといって好きというわけではなかった。

もちろん綺麗だとは思うのだけれど、川沿いや山間に優しく咲き、淡い色の花びらをはらはらと散らせる、儚く可憐な木というイメージが先行して、そのちょっと女々しい弱さみたいなものが何だか釈然としなかったのだ。

ましてや、富士山と桜の付け合わせとなると、大変行儀よく、高尚で伝統を重んじる貴族的で保守的な感じがして、ちょっと居心地が悪かったりもする。

が、六本木の桜と江戸富士のおかげで、私はようやくその認識を改めることができたような気がするのだ。

人工のビル群の中にも桜は咲く。

それどころか、それらのビルを後ろに従えて凛々しく立ち並ぶ姿は、堂々としていて、洗練されていて、かっこいい。

伝統を重んじ守り続けることはもちろん大事だし、それはそれでよいけれど、デジタル化してますます都会的になっていくクールな東京にも、富士山と桜はしっかり似合う。

それを証明した六本木のインスタレーションは、何だか都会に生きる私たちに勇気を与えてくれる気がした。

 

『春はあけぼの。

 やうやう白くなりゆく山際、少し明かりて、

 紫だちたる雲の細くたなびきたる。』

 

春の夜明けは都会にも来る。

白んでいく都心のビル群が少しずつ明るくなって、霞がかった花曇りの空がひっそりと明けてくる。

 

その景色の中に凛然と咲く桜並木を想像したら、何だか背筋がシャキッとする思いがする。

 都心で働く皆さん、明日も背筋伸ばしてまいりましょう。

 

絵を描くように書く

 

詩集を、久しぶりに読んだ。

茨木のり子の『自分の感受性くらい』という詩集。

詩集のタイトルにもなっている詩をいつかどこかで読み、衝撃を受けたのを今でも覚えていて、手元に置いておきたくなって先日購入した。

なんか毎日おもしろくないなあ、最近愚痴が多くてやだなあ、と心がすさんできたときに、シャキッと襟を正し、自律心を取りもどし、背筋を伸ばしてくれる大事な詩だ。

 

詩集を購入したのと同じ時期に、筒井康隆の『残像に口紅を』という小説も読んだ。

こちらは、「あ」からはじまって世界からどんどん「音(おん)」が消えていくという、前代未聞の実験的小説である。少々頭は使うが、限られた言葉で小説はどこまで小説たり得るか、あるいはその中で生きている主人公の世界はどこまで消えずに残っていられるか、音が消えたことで消えてしまった言葉はそのもの自体の消失を意味するのか、などと様々な考察ができて、なかなか面白い。

言葉について、うーんと考えこんでしまう小説だった。

 

 

思えば、私がものを書き始めるようになったきっかけは、詩が始まりだった。

子供の頃は工藤直子の詩が好きで、その後に金子みすゞの詩に惹かれ、谷川俊太郎に感動し、『自分の感受性くらい』で生き方を学んだ。

言葉ってすごい。

そう感じたのが、言葉への探求心が芽生えたきっかけだったように思う。

 

それなのに、大人になってからは言葉自体に目を向けることは少なくなってきて、小説のストーリーやテーマ性を考えてばかりだった気がする。

だから、『残像に口紅を』を読んではっと我に返った。

言葉ってすごい。

いや、そもそも言葉とは何だろう。

残像に口紅を』の終盤では、文を主語述語の型に従って書くこともままならなくなり、単語や効果音の羅列になっていくが、それでも、ぼんやりとした情景を浮かべることは可能だ。ものの指し示す記号としての役割を越え、それらを緻密に組み合わせて設計して建築していくことで、ひとつの世界や概念が生まれる。

考え始めると、かなり形而上的というか、宇宙のなりたちを考えはじめてしまったときみたいに壮大すぎて頭がくらくらしてくる。

 

そしてふと、絵を描くことと非常に似通っていることに気付く。

もともと絵画を構成する色というものは、「青色」や「赤色」という個々のものでしかないが、それらを複雑に混ぜ合わせていくことで無限の色が生まれ、絵画ができ、世界がそこに浮かび上がる。

あるいは音楽も同じ。

ひとつひとつの音だけでは何の意味もなさないが、それらが連なることで音階が生まれ、重なって和音になり、ひとつの曲が出来上がる。

 

文学は、言葉で描く絵画かもしれない。

まだまだ稚拙なものしか書けないけれど、絵を描くように、私はやっぱり、言葉で何かを作り続けたいと思う。

そんなことを、2冊の本から再確認させてもらった週でした。

 

 

残像に口紅を (中公文庫)

残像に口紅を (中公文庫)

自分の感受性くらい

自分の感受性くらい