さて、先週の国立新美術館ではミュシャ展も見てきたので、今週はそちらの感想を。
ミュシャといえば、タロットカードのようなイラストがまず頭に浮かぶ人が多いのではないだろうか。
精密な長髪の女神が描かれていて、背景には、意味は分からないけど何やら素敵な外国語が書かれた魔法陣みたいな円があって、呪文を唱えたらその女神を召喚できそうな雰囲気。
中高生が喜びそうな、いかにもファンタジックな絵だ。
そんなイメージだから、偏屈なシュルレアリスム絵画ファンとしては、正直なところ、自分の好みの範疇には入っていなかった画家だった。
ところが、あなどるなかれ。
話題になっている「スラヴ叙事詩」のシリーズが、とてもとても素晴らしかった。
ミュシャおなじみのファンタジックな世界観に、平和への真摯な祈りと、故郷への愛とが絶妙に混ざり合った、ドラマチックな傑作揃いだった。
スラヴ叙事詩というのは、ミュシャが晩年になって描き上げた巨大な作品群のことで、その大きさは各々が縦6メートル、横8メートルにも及ぶ。
私たちが見慣れたポップなミュシャのイラストは、まるで巨大なキャンバスの中に解き放たれて真の姿を取り戻したかのように、たちまち重厚な絵画になり、どの作品にも雄大な物語が広がっている。
それはまさに「スラヴ叙事詩」の名の通り、故郷を舞台にした壮大な歴史物語だった。
中でも共通して印象的だったのは、平和や自由、英知の象徴として描かれる神々の姿である。
例えば、「スラヴ式式典の導入」に描かれる民衆たちは素朴で穏やかな色調なのに対して、宙に浮かぶ神々しい人々は、不思議と静謐な青さを帯びて、心なしか陰っているようにも見える。
その異なる色調が醸しだす幻想的な違和感が、神々の姿をより不可思議で神秘的なものにし、見る者に畏敬の念を抱かせる。
彼らは俗世とは別次元の場所に浮かびあがってくるようで、絵画の奥行きをより深くしている。
そこには、枠をつきぬけて昇天していくような「広さ」があると言ってもいい。
さらに、光と陰の巧みな表現も印象的だ。
例えば「クジーシュキでの集会」を見ると、人間が描かれた手前の空間は落ち着いた暗めの色調だが、人のいない遠方は、ぼんやりとした不思議な光を放っている。
まるでそこに見えない女神が降り立っているかのような、意味ありげな美しさだ。
なかでも、「ベツレヘム礼拝堂で説教をするヤン・フス師」、「聖アトス山」といった作品は、色彩の魔術師・ドラクロワを彷彿とさせる、崇高な輝かしさである。
そして、それらの魅力が結集された傑作と言うべき作品が、スラヴ叙事詩最後の作品「スラヴ民族の賛歌」だろう。
(写真が微妙でごめんなさい・・・)
解説によると、この作品は、チェコスロヴァキア独立までのスラヴ民族の歴史を表しているのだという。
右下の青は神話の時代、左上の赤は戦争の時代、その下の黒い部分は他国からの抑圧の時代、そして中央の黄色が、独立によって達成された自由・平和・友愛の勝利を示すのだそうだ。
うっすらと背後に描かれた神の気配に見守られ、たくましく両手を掲げた青年の荘厳な姿は、まさに、ミュシャのスラヴ民族としての誇りそのものである。
晩年にこの大作を完成させたミュシャのエネルギーと心の豊かさには、敬服せずにはいられない。
ミュシャ展で、スラヴ叙事詩シリーズを見て感じたのは、広さだけではない、絵画の「厚み」だった。
それはきっと、スラヴ民族の歴史と、それを見守ってきた神の視点が共存しているからではないだろうか。
壮絶な民族史として描かれる人間世界と、故郷への愛やスラヴ民族の賛歌にあふれた幻想的な心象風景とが、巨大なキャンバスの上に彩り豊かに表現され、それらが「スラヴ叙事詩」というひとつの壮大な物語として完成されている。
これは、まぎれもない傑作だろう。
美術はやっぱり、自分の好みの範疇外でも、思いがけない発見と感動があるから楽しい。
同時開催の草間彌生展とあわせて、ぜひ足を運んでみてください!
草間彌生展の感想はこちら。