ジャコメッティの彫刻は異様に細い。
ちょっと真似して描いてみるとこんな具合である。
馬鹿にしているのかと怒られそうだが、本当にこんな感じなのだ。
http:// https://en.wikipedia.org/wiki/Alberto_Giacometti
初めてジャコメッティの彫刻に出会ったのは二十歳の頃だった。アメリカのシカゴ美術館で、確かコンテンポラリーアートの展示エリアだったと思う。
http:// http://www.artic.edu/visit/japanese
調べてみたら今もあるようなので、機会があれば是非訪れて実際に見て頂きたいが、記憶に残っているのは、”walking man”というタイトルの作品だ。
目の錯覚を引き起こすような異様に細長い人間の像が、すっくと静止しているのを目にしたとき、思わず二度見した。近づいて、首を傾げて、しばらくじっと見つめた。見つめた、といっても、当時の私はその彫刻を見て大層なことを考えていたわけでもなく、ただ単純に、面白いなあ、という程度の感想しかなかったと思う。それまで彫刻と言えば、ダヴィデ像とかピエタ像とか、極めて実体に近いイメージだったので、まぎれもない三次元なのに、まるでだまし絵を見ているような奇妙な違和感が面白かった。
それから数年して、日本のどこかの美術館で再びジャコメッティの彫刻と対峙した。
記憶は定かではないが、どこか海外の美術館所蔵の作品を展示した企画展か何かだったと思う。相も変わらず、その彫刻は細々と頼りなく立っていて、ちょっと目を離したらどこかへ消えていってしまいそうな佇まいだった。
そのときは、初めて見たときよりもなぜか胸が騒いだ。
人の影に実体を与えたみたいだ、と思った。
目に見える余分な肉や骨を人間の姿から取り除いたら、ちょうどこんな芯が残りそうだ、とも思った。
触れられるはずのないもの、見えないはずのものを何かの拍子にとらえてしまったような、そんな不穏と驚きとくすぐったい楽しさがあった。
そして三度目、箱根の彫刻の森美術館で再びその像を発見する頃には、私はすぐさまジャコメッティだと歓喜するくらいにはファンになっていた。
しかしファンになるとは言っても、これまでは、作品を見た際に「ああ、やっぱりいいなあ、好きだなあ」と思う程度のもので、普段の生活で思い出すことはなかった。しかし先日、ふと、たまらなくジャコメッティの彫刻が恋しくなったことがあった。
仕事に忙殺されて自分を見失い、人間関係やその他もろもろの悩み事が重なって、頭が毛糸のように複雑に絡まり、解きほぐすのにも疲れ切って、理由もないのにとにかく泣きたくなる、そんな何もかもうまくいかない時期だったのを覚えている。
あの彫像が見たい、そう切望した。
写真でもウェブサイトの画像でもなく、ただあの痩身の像の面前に立ちたいと思った。
何もかもそぎ落とした針金のような影が実体を持って確かに立っている。人の本質だけを残してすべてが風化したような、洗練された姿がひっそりと歩いている。その奇妙な眺めを、無性にもう一度見たくなったのだ。
そのときの心のありようを今振り返ると、混沌とした思考を整理して余計なものを取り払い、見失っていた大事なものごとを見出したいという気持ちの表れだったのかもしれない。
ジャコメッティの像は、自分自身の「芯」を映す鏡のような存在になっていたのだと思う。
今日、「ミニマリスト」という言葉が流行るほどには、現代は情報やモノにあふれて飽和状態になり、ものごとの本質はますます見えにくい。
いたるところに立ち現れる広告や店頭販売の呼び声、グルメ番組、観光地情報が充実した楽しげな旅行雑誌、刺激的な映画やドラマ、バーチャルリアリティーを駆使した未来的なゲーム。確かに、今の時代は刺激的で楽しい。
しかし豊満な五感体験を享受してばかりいると、いつの間にか、自分を見失っていることもある。そういうとき、何かシンプルで、洗練されたものを切望するのは私だけではないだろう。
ミニマルなものほど、物事の本質が見える。
だから私は、ジャコメッティの彫像をときに恋しく思うのだ。